オーストリアの二ーダーエスタライヒ州ローマ・カトリック教会サンクト・ペルンテン教区のクラウス・キュンク司教は、同州の父親が幼稚園の十字架で子供が不快感を感じていると不満を表明した事に対し、「二ーダーエスタライヒ州の公営幼稚園では児童の多数がキリスト教会に所属する家庭の出身者である場合、幼稚園に十字架をかけてもいいということになっている。二ーダーエスタライヒ州はカトリック州であり、住民の多数はキリスト信者だ」と述べている。
ストラスブールの欧州人権裁判所(EGMR)が先月3日、イタリア人女性の訴えを支持し、公共学校での十字架を違法と判決して以来、欧州各地でこのような苦情が保護者から届けられている。
EGMRの判決文によると、「公共学校内の十字架は親の養育権と子供の宗教の自由を損う違法行為」という。
当方は公共幼稚園や学校で十字架をかけることに反対しない。幼い時から宗教的環境下で教育をすることは大切だからだ。しかし、キュンク司教の説明には賛成できない。十字架を擁護するため民主主義の「多数原理」を駆使し、「多数が良しとするならば、それを尊重すべきだ」という司教の論理に抵抗を覚える。
司教は十字架の意義については何も言及していない。反論として不十分だ。なぜならば、EGMRは判決文の中で「十字架は原罪からの救済というキリスト教の教義を象徴したもので、単なる欧州文化のシンボルではない」と指摘しているのだ。すなわち、欧州人権裁判所は「十字架」の神学的意味まで踏み込んで、「公共学校内の十字架は欧州人権憲章とは一致しない」と判断しているからだ。
キュンク司教は「多数原理」で逃げるのではなく、十字架に反対の両親に十字架の意義を説明し、説得を試みるべきだ。「多数原理」が事の是非を決定する尺度、というならば、極端な例だが、ヒトラーが国民の多数の支持を受けて政権を掌握していった史実に対しても何もいえなくなる。
多数が正しいという論理は、少数意見が間違っているかどうかを慎重に検討した後にだけ説得力をもつ。「多数原理」が先行した論理は危険だ。
もう少し付け加えるならば、カトリック教会を含む全ての宗教はそれぞれ絶対的価値観を有し、それを信奉している。相対的価値観を尊重する民主主義とは、その点が異なる。キュンク司教はそれを知りつつ、民主主義の基本、「多数原理」を十字架擁護で利用しているわけだ。他人の褌で相撲を取っているようなものだ。
ストラスブールの欧州人権裁判所(EGMR)が先月3日、イタリア人女性の訴えを支持し、公共学校での十字架を違法と判決して以来、欧州各地でこのような苦情が保護者から届けられている。
EGMRの判決文によると、「公共学校内の十字架は親の養育権と子供の宗教の自由を損う違法行為」という。
当方は公共幼稚園や学校で十字架をかけることに反対しない。幼い時から宗教的環境下で教育をすることは大切だからだ。しかし、キュンク司教の説明には賛成できない。十字架を擁護するため民主主義の「多数原理」を駆使し、「多数が良しとするならば、それを尊重すべきだ」という司教の論理に抵抗を覚える。
司教は十字架の意義については何も言及していない。反論として不十分だ。なぜならば、EGMRは判決文の中で「十字架は原罪からの救済というキリスト教の教義を象徴したもので、単なる欧州文化のシンボルではない」と指摘しているのだ。すなわち、欧州人権裁判所は「十字架」の神学的意味まで踏み込んで、「公共学校内の十字架は欧州人権憲章とは一致しない」と判断しているからだ。
キュンク司教は「多数原理」で逃げるのではなく、十字架に反対の両親に十字架の意義を説明し、説得を試みるべきだ。「多数原理」が事の是非を決定する尺度、というならば、極端な例だが、ヒトラーが国民の多数の支持を受けて政権を掌握していった史実に対しても何もいえなくなる。
多数が正しいという論理は、少数意見が間違っているかどうかを慎重に検討した後にだけ説得力をもつ。「多数原理」が先行した論理は危険だ。
もう少し付け加えるならば、カトリック教会を含む全ての宗教はそれぞれ絶対的価値観を有し、それを信奉している。相対的価値観を尊重する民主主義とは、その点が異なる。キュンク司教はそれを知りつつ、民主主義の基本、「多数原理」を十字架擁護で利用しているわけだ。他人の褌で相撲を取っているようなものだ。
