冷戦時代に旧東欧諸国を取材していた当時、「冷戦時代がまもなく終わる」とは予想していなかった。東欧の共産政権は衰退を見せていたが、あっけなく崩壊するとは考えられなかったからだ(同じ事がひょっとしたら北朝鮮にも当てはまるのかもしれない)。
今年はチェコスロバキアの民主化運動「プラハの春」40年目を迎えた。ワルシャワ条約機構軍の侵攻の犠牲となったプラハの青年たちは当時、母国が将来、欧州連合(EU)と北大西洋条約機構(NATO)に加盟すると考えられただろうか。
プラハの春、その後の同国の民主化「やわらかな革命」を考えていたら、同国のローマ・カトリック教会最高指導者だったトマーシェク枢機卿のことを思い出した。同国の反体制知識人グループ「憲章77」のリーダー、ハベル氏と共に、同枢機卿は東欧の民主化のシンボル的存在だった。枢機卿は信教の自由を要求した「60万人署名運動」やブラチスラバで開催された雨の中のカトリック信者集会を支えてきた人物だ(ヤン・チャルノグルスキー氏=スロバキア元首相=は「信教の自由を求めるキリスト者の戦いがなければチェコの民主化は実現されなかった」と証言している)。
当方は過去、枢機卿と3度会見したが、最も印象深かった会見は1988年の時だ。秘密警察がプラハ城近くにあった枢機卿邸の訪問者に目を光らせていた時代だった。枢機卿邸内で待っていた時、さすがに緊張を覚えたものだ。秘密警察が飛び出してきて会見をキャンセルさせるのではないか、とか、悪くすれば拘束されるかもしれない、といった思いが沸いてきた。そんな当方の目の前に枢機卿はさっそうと登場し、「信教の自由を獲得するまで戦いを止めない」と主張された。
あれから20年が過ぎた。枢機卿は1992年、闘病の末、93歳で亡くなられた。時間は容赦なく過ぎ去っていく。トマーシェク枢機卿との思い出も時間の経過と共にその鮮明度が薄れていく。時の流れに憤りを覚える瞬間だ。
今年はチェコスロバキアの民主化運動「プラハの春」40年目を迎えた。ワルシャワ条約機構軍の侵攻の犠牲となったプラハの青年たちは当時、母国が将来、欧州連合(EU)と北大西洋条約機構(NATO)に加盟すると考えられただろうか。
プラハの春、その後の同国の民主化「やわらかな革命」を考えていたら、同国のローマ・カトリック教会最高指導者だったトマーシェク枢機卿のことを思い出した。同国の反体制知識人グループ「憲章77」のリーダー、ハベル氏と共に、同枢機卿は東欧の民主化のシンボル的存在だった。枢機卿は信教の自由を要求した「60万人署名運動」やブラチスラバで開催された雨の中のカトリック信者集会を支えてきた人物だ(ヤン・チャルノグルスキー氏=スロバキア元首相=は「信教の自由を求めるキリスト者の戦いがなければチェコの民主化は実現されなかった」と証言している)。
当方は過去、枢機卿と3度会見したが、最も印象深かった会見は1988年の時だ。秘密警察がプラハ城近くにあった枢機卿邸の訪問者に目を光らせていた時代だった。枢機卿邸内で待っていた時、さすがに緊張を覚えたものだ。秘密警察が飛び出してきて会見をキャンセルさせるのではないか、とか、悪くすれば拘束されるかもしれない、といった思いが沸いてきた。そんな当方の目の前に枢機卿はさっそうと登場し、「信教の自由を獲得するまで戦いを止めない」と主張された。
あれから20年が過ぎた。枢機卿は1992年、闘病の末、93歳で亡くなられた。時間は容赦なく過ぎ去っていく。トマーシェク枢機卿との思い出も時間の経過と共にその鮮明度が薄れていく。時の流れに憤りを覚える瞬間だ。
