「僕は大きくなったら、政治家になって首相になるんだ」と大志を抱いていたアルフレッド少年は後日、念願の首相になったが、それも束の間、2年も経過しないうちに、そのポストを去らなければならない雲行きとなってきた。
何の話かというと、アルプスの小国オーストリアのアルフレッド・グーゼンバウアー首相(社会民主党)のことだ。2006年10月の総選挙で社民党は得票率を減らしたが、ライバルの政党(国民党)がそれ以上に支持率を下げた結果、社民党主導の大連立政権が発足し、念願の首相の座に就任したのが昨年1月11日だった。大統領府での政権認定式に臨むグーゼンバウアー首相の嬉しそうな顔を今でも鮮明に思い出す。「やったぞ」といった少年の声が聞こえてくるような、政治家らしくない屈託のない笑顔を見せていた。
しかし、グーゼンバウアー首相は政権発足直後から厳しい試練の連続だった。国民の批判が急速に高まっていったからだ。特に、社民党の支持基盤であった労組や左派知識人からは「公約違反」を追求する声が強まっていった。当然だ。選挙戦では、大学生の学費廃止から健康医療改革まで、有権者の耳に快く響く公約を掲げてきたが、政権樹立後、政権パートナーの国民党の反対もあって、何一つとして実現できなかったからだ。
国民の支持を失った首相(党首)を抱える社民党からは「このままでは州選挙に勝てない」といった危惧が日増しに高まっていった。その懸念が現実化したのだ今月初めに実施されたチロル州選挙だ。同選挙で社民党は10%ポイント以上得票率を下げる歴史的な敗北を喫し、新党「リスト・フィリッツ・ディンクハウザー」にも抜かれて第3党に後退したのだ。
その数日後、社民党の緊急幹部会が開かれた。首相と党首の解任を恐れたグーゼンバウアー首相は党首ポストを譲ることで首相の座を守る妥協案を提示した。同案は一応、党幹部会で容認されたが、「党首と首相の分離」は何の解決策にもならない、といった反発が依然、党内では支配的だ。党幹部会からは遂に「党首ポストだけではなく、首相の座も引き渡すべき時だ」という最後通牒が発せらたという(同国のメディア情報によれば、グーゼンバウアー首相は7月7日、首相のポストを新党首のヴェルナー・ファイマン運輸相に引き渡す予定という)。
「アルフレッド少年の夢」は実現されたが、その首相ポストを2年弱で降りなければならなくなってきた。グーゼンバウアー首相(48歳)としては想定外のことかもしれないが、短期間だったとしても「首相の座」に就いたことで良しとすべきだろう。
何の話かというと、アルプスの小国オーストリアのアルフレッド・グーゼンバウアー首相(社会民主党)のことだ。2006年10月の総選挙で社民党は得票率を減らしたが、ライバルの政党(国民党)がそれ以上に支持率を下げた結果、社民党主導の大連立政権が発足し、念願の首相の座に就任したのが昨年1月11日だった。大統領府での政権認定式に臨むグーゼンバウアー首相の嬉しそうな顔を今でも鮮明に思い出す。「やったぞ」といった少年の声が聞こえてくるような、政治家らしくない屈託のない笑顔を見せていた。
しかし、グーゼンバウアー首相は政権発足直後から厳しい試練の連続だった。国民の批判が急速に高まっていったからだ。特に、社民党の支持基盤であった労組や左派知識人からは「公約違反」を追求する声が強まっていった。当然だ。選挙戦では、大学生の学費廃止から健康医療改革まで、有権者の耳に快く響く公約を掲げてきたが、政権樹立後、政権パートナーの国民党の反対もあって、何一つとして実現できなかったからだ。
国民の支持を失った首相(党首)を抱える社民党からは「このままでは州選挙に勝てない」といった危惧が日増しに高まっていった。その懸念が現実化したのだ今月初めに実施されたチロル州選挙だ。同選挙で社民党は10%ポイント以上得票率を下げる歴史的な敗北を喫し、新党「リスト・フィリッツ・ディンクハウザー」にも抜かれて第3党に後退したのだ。
その数日後、社民党の緊急幹部会が開かれた。首相と党首の解任を恐れたグーゼンバウアー首相は党首ポストを譲ることで首相の座を守る妥協案を提示した。同案は一応、党幹部会で容認されたが、「党首と首相の分離」は何の解決策にもならない、といった反発が依然、党内では支配的だ。党幹部会からは遂に「党首ポストだけではなく、首相の座も引き渡すべき時だ」という最後通牒が発せらたという(同国のメディア情報によれば、グーゼンバウアー首相は7月7日、首相のポストを新党首のヴェルナー・ファイマン運輸相に引き渡す予定という)。
「アルフレッド少年の夢」は実現されたが、その首相ポストを2年弱で降りなければならなくなってきた。グーゼンバウアー首相(48歳)としては想定外のことかもしれないが、短期間だったとしても「首相の座」に就いたことで良しとすべきだろう。