3日間続けて「娘監禁事件」関連のテーマとなるが、どうしても伝えたい事実が出てきたので許してほしい。
ヘルミーネ・グレーガー(Hermine Greger)という名前を知っている人は少ないだろう。彼女は1892年、ユダヤ人家庭の長女として生まれた。家族は1916年、今回の「娘監禁事件」の舞台となったアムシュテッテン市(Amstetten)に引越した。その住所はナチス・ドイツ併合後、「アム・アドルフ・ヒトラー広場36」(Am Adolf Hitlerplatz 36)と呼ばれていた。
ドイツで国家社会主義(ナチス)が台頭し、ユダヤ人への迫害が強まっていったため、4人の兄弟は米国、パレスチナなどに移住したが、彼女は両親と共にアムシュテッテン市に留まった。しかし、1939年に両親と共にウィーンに移送された後、42年5月27日、ミンスク(ベラルーシ)の強制収容所(Maly Trostinec)に送られ、同年6月1日、殺された。ちなみに、約9000人のユダヤ人がオーストリアから同収容所に移送されたが、生存者の数は17人だけだったという。
この話は、アムシュテッテン市のギムナジウム(8年制の中・高等学校)の学生たちが2003年5月、歴史の授業でまとめたレポートの中に記述されている。学生たちは教授の助けを受けながら、「オーストリアのナチス問題」という重い課題に取り組んでいった。当方が「アムシュテッテン市とユダヤ歴史」に関心があることを知った友人が30日、このレポートの存在を教えてくれ、送信してくれたのだ。
レポートはヘルミーネに呼びかけるスタイルで書かれている。1人の女学生は「どうして当時、オーストリア国民はナチス・ドイツの真相を分からなかったのだろうか」と問いかけ、「わたしはナチスの犠牲となったあなた(ヘルミーネ)のことを決して忘れない」と述べている。なお、レポートには、ドイツ・ナチスとの併合を歓迎するアムシュテッテン市民(1938年)を撮った一枚の写真が掲載されている。
当方は昨日、「『娘監禁事件』への一考」を書いたが、その時点ではヘルミーネの存在を知らなかった。レポートを読んで初めて、同事件の舞台・アムシュテッテン市に「ヘルミーネというユダヤ人女性がいた」ことを知った次第だ。正直にいって、驚かされた。ひょっとしたら、“ヘルミーネの声”が昨日のようなコラムを書かせたのではないか、と感じ出している。
ヘルミーネ・グレーガー(Hermine Greger)という名前を知っている人は少ないだろう。彼女は1892年、ユダヤ人家庭の長女として生まれた。家族は1916年、今回の「娘監禁事件」の舞台となったアムシュテッテン市(Amstetten)に引越した。その住所はナチス・ドイツ併合後、「アム・アドルフ・ヒトラー広場36」(Am Adolf Hitlerplatz 36)と呼ばれていた。
ドイツで国家社会主義(ナチス)が台頭し、ユダヤ人への迫害が強まっていったため、4人の兄弟は米国、パレスチナなどに移住したが、彼女は両親と共にアムシュテッテン市に留まった。しかし、1939年に両親と共にウィーンに移送された後、42年5月27日、ミンスク(ベラルーシ)の強制収容所(Maly Trostinec)に送られ、同年6月1日、殺された。ちなみに、約9000人のユダヤ人がオーストリアから同収容所に移送されたが、生存者の数は17人だけだったという。
この話は、アムシュテッテン市のギムナジウム(8年制の中・高等学校)の学生たちが2003年5月、歴史の授業でまとめたレポートの中に記述されている。学生たちは教授の助けを受けながら、「オーストリアのナチス問題」という重い課題に取り組んでいった。当方が「アムシュテッテン市とユダヤ歴史」に関心があることを知った友人が30日、このレポートの存在を教えてくれ、送信してくれたのだ。
レポートはヘルミーネに呼びかけるスタイルで書かれている。1人の女学生は「どうして当時、オーストリア国民はナチス・ドイツの真相を分からなかったのだろうか」と問いかけ、「わたしはナチスの犠牲となったあなた(ヘルミーネ)のことを決して忘れない」と述べている。なお、レポートには、ドイツ・ナチスとの併合を歓迎するアムシュテッテン市民(1938年)を撮った一枚の写真が掲載されている。
当方は昨日、「『娘監禁事件』への一考」を書いたが、その時点ではヘルミーネの存在を知らなかった。レポートを読んで初めて、同事件の舞台・アムシュテッテン市に「ヘルミーネというユダヤ人女性がいた」ことを知った次第だ。正直にいって、驚かされた。ひょっとしたら、“ヘルミーネの声”が昨日のようなコラムを書かせたのではないか、と感じ出している。
