訪米したローマ法王ベネディクト16世は17日、ワシントンで米国教会司教たちを集め、「米国教会聖職者の性スキャンダルは深く恥ずべき事だ。教会側の対応でも問題があり、信者たちの信頼を失う結果となった」と指摘し、教会内のモラル刷新を求めた。同法王は同日午後、聖職者の性虐待の犠牲者とその家族に会い、「あなた方のために祈りたい」と語りかけたという。
ローマ法王が聖職者の性スキャンダルを公開の場で言及し、謝罪するということはこれまでは考えられなかったことだ。そのため、法王の言動を「バチカンのペレストロイカ(改革)だ」と評価するバチカン・ウォッチャーもいたほどだ。換言すれば、聖職者の性犯罪がそれだけ世界のカトリック教会に消すことが出来ない汚点とダメージを残したということだろう。教会最高責任者のローマ法王としては、この問題を回避してお茶を濁すわけにはいかなかった、というのがバチカンの事情だろう。
ところで、ベネディクト16世は聖職者の性犯罪に対し、「遺憾と痛み」を表明したが、具体的な解決策は「福音に帰れ」だけであった。同16世は昨年5月、ブラジルで開催された第5回南米・カリブ地域司教会議でも中絶問題、貧困問題、解放神学の台頭など深刻な問題を抱える南米教会指導者たちに、「キリストの福音に帰ることが唯一の道である」と強調し、「神を知るならば、解決は可能だ」と語ったことを思い出す。
ローマ法王の指摘は間違いないが、その訓話だけで問題が解決できるのならば、問題は解決済みだろう。経営不振の会社社長が社員を前に、「会社の基本に帰れ」といったとしても、経営が回復するわけではない。問題解決の為には、具体的な政策や機構刷新、人事などが要求される。“教会のペレストロイカ”でも同じだろう。
残念ながら、ベネディクト16世は「福音に帰れ」と叫ぶだけで、具体的な処方箋を提示しなかった。もちろん、訪米中の法王のスケジュールは秒刻みであり、プロトコール優先のため、諸問題の詳細な検討や協議は米司教会議に委ねざるを得ない。しかし、教会最高指導者として、ローマ法王は問題の解決策を提示する責任がある。法王が聖職者の性犯罪の犠牲者に対して「謝罪」を表明したとしても、具体的な解決策がなければ、聖職者の性犯罪はこれからも生じるからだ。
ローマ法王が聖職者の性スキャンダルを公開の場で言及し、謝罪するということはこれまでは考えられなかったことだ。そのため、法王の言動を「バチカンのペレストロイカ(改革)だ」と評価するバチカン・ウォッチャーもいたほどだ。換言すれば、聖職者の性犯罪がそれだけ世界のカトリック教会に消すことが出来ない汚点とダメージを残したということだろう。教会最高責任者のローマ法王としては、この問題を回避してお茶を濁すわけにはいかなかった、というのがバチカンの事情だろう。
ところで、ベネディクト16世は聖職者の性犯罪に対し、「遺憾と痛み」を表明したが、具体的な解決策は「福音に帰れ」だけであった。同16世は昨年5月、ブラジルで開催された第5回南米・カリブ地域司教会議でも中絶問題、貧困問題、解放神学の台頭など深刻な問題を抱える南米教会指導者たちに、「キリストの福音に帰ることが唯一の道である」と強調し、「神を知るならば、解決は可能だ」と語ったことを思い出す。
ローマ法王の指摘は間違いないが、その訓話だけで問題が解決できるのならば、問題は解決済みだろう。経営不振の会社社長が社員を前に、「会社の基本に帰れ」といったとしても、経営が回復するわけではない。問題解決の為には、具体的な政策や機構刷新、人事などが要求される。“教会のペレストロイカ”でも同じだろう。
残念ながら、ベネディクト16世は「福音に帰れ」と叫ぶだけで、具体的な処方箋を提示しなかった。もちろん、訪米中の法王のスケジュールは秒刻みであり、プロトコール優先のため、諸問題の詳細な検討や協議は米司教会議に委ねざるを得ない。しかし、教会最高指導者として、ローマ法王は問題の解決策を提示する責任がある。法王が聖職者の性犯罪の犠牲者に対して「謝罪」を表明したとしても、具体的な解決策がなければ、聖職者の性犯罪はこれからも生じるからだ。
「辛らつ」という表現には、メディア関係者には「無視できない厳しい論評」という意味が含まれていることが多いです。その意味で「辛らつなコメント」は歓迎されることがあっても、過小評価されたり、、無視できるものではありません。それだけ「内容がある」という意味です。
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