人間の場合、知・情・意の3機能があるといわれ、「知」で物事を判断する傾向の強い人を「知的」、「情」で動く場合が多い人を「情的」、行動力がある人を「意的」という。ところで、少し異なるが、政治の世界で物事が決定されたり、選択される場合、「論理」が決定的要因であろうか、それとも「利害」か、それとも「感情」だろか。読者はどう答えられるだろうか
 米ニクソン政権時代の外交を担当したヘンリー・キッシンジャー氏は「外交とは国益を意味する」と冷静に指摘している。同盟関係も重要だが、いざ国益に関る時は躊躇せずに国益に合致した決定を下すのが「外交」だというのだ。米中国交回復はその代表的な実例だろう。この場合「利害」だ。
 一方、「論理」はどうだろうか。「論理」で全ての問題が解決されることはない。そんなことは少しでも生きてきた者ならば直ぐに分かる。多くの場合、「論理」は後で付け足される程度に過ぎない。いずれにしても、「論理」では人間は幸せになれない、という現実がある。
 それでは最後の「感情」はどうだろうか。「感情的に話すな」とか「余りにも感情的だ」とか「感情」が入ると、ネガティブな印象を与えやすい。その一方、多くの人間は「分かっているけれども止められない」というように、「情」の力に翻弄されることが少なくない。政治の世界でも同様だろう。
 国政の重要政策を決定する際にも、「あいつは選挙戦で俺の悪口をいった」とか、「あいつはどうも虫が好かない」といった感情が案外、大きな影響力を持っている。幕末から明治維新までを描いた司馬遼太郎の小説「翔ぶが如く」の中で、作家は「感情が政治を動かす部分は、論理や利益よりもはるかに大きいといえるかもしれない」と述べている。
 ところで、最近の「政治の世界」はどうだろうか。メディア時代の今日、「感情」を表現する政治家の方が人気があって、それを抑える政治家は「冷たい」とか「人間味がない」といわれ、冷遇されることが案外、多い。現代は、ひょっとしたら、「感情」が過大評価される時代なのかもしれない。