アドルフ・ヒトラーが1907年、08年、ウィーン美術アカデミーの入学を目指して試験を受けたが、2度とも落第した話は有名だ。もしヒトラーが美術学生となっていれば、世界の歴史は違ったものとなっていただろう、といわれてきた(ウィーン美術学校の受験に失敗したヒトラーはその後、ミュンヘンに移住し、そこで軍に入隊し、第1次世界大戦の敗北後は次第に政治に関っていく)。
 ヒトラーの2度の入学を拒絶した人物は、ウィーン美術アカデミーのクリスチャン・グリーペンケァル教授(Christian Griepenkerl)だ。1839年生まれで、1916年に亡くなっている。同教授は歴史画家であり、画家エゴン・シーレの師としても有名だ。キリスト教徒であった同教授の性格は「保守的、独裁的な性格が強かった」といわれている。同教授がヒトラーの入学試験に初めて立ち会ったのは、教授が68歳の時だった。すなわち、グリーベンケァル教授はシーレを合格させ、ヒトラーを不合格にした美術教授として歴史に名を残したわけだ。
 恥ずかしいことだが、当方は長い間、ヒトラーを不合格にした美術教授を画家ルドルフ・イェトマル氏(1869年〜1939年)だと思っていた。ところが、実際、自分で調べていくと、イェトマル教授ではなく、グリーペンケァル教授であったことが今回、分かった(イェトマル教授が同アカデミー教授に就任するのは1910年だ。ヒトラーが受験した時、同教授はウィーン女性芸術学校の責任者だった。ただし、同教授が画家を目指すヒトラーに何らかの影響を与えた可能性は完全には排除できない)。
 グリーベンケァル教授の墓はウィーン市中央墓地の名誉市民地区に埋葬されている。当方は2月の早朝、墓地を訪れた。作曲家や政治家たちの名誉市民の墓が埋葬されている地域に、教授の墓もあった。墓碑には、「画家クリスチャン・グリーペンケァル教授、1839〜1916年」と記されている。古くなった墓石の周辺には、花はなかった。世界の歴史を変えた教授の墓のアドレスは、「中央墓地グループ0、番号79」だ。