世界に約11億人の信者を抱えるローマ・カトリック教会の最高指導者、ローマ法王ベネディクト16世は19日、今年最後の一般謁見で「信仰のないクリスマスは空虚であり、内容がない」と語った。なんと明快な指摘だろうか。
 ドイツ出身の学者法王ベネディクト16世は今年5月のブラジル訪問時にも、聖母マリアの巡礼地アパレシーダで開催された第5回南米・カリブ地域司教会議で「世俗主義」「快楽主義」「変節主義」などに警告を発した後、「もし神を知っているならば、全ての問題は解決できる」と強調した。なんとクールな発言だろうか。
 「欧州のエリート教会」出身の法王にとって、南米教会が直面する中絶問題や貧困問題も「神を知ったら」解決できるという強い信念がある。それは間違いなく、正しい。しかし、理路整然としたローマ法王の演説が果たして「貧者の教会」の代表、南米教会の聖職者や信者たちの心まで届いたか、どうか分からない。ベネディクト16世にとって、少なくとも「知る」ことは即「救い」を意味するのだろう。
 ベネディクト16世は「現代人はキリスト教の中核、神の子の生誕とその秘蹟を理解することは難しいだろう」と説明する一方、「しかし、神の子イエスへの信仰なくしてクリスマスを祝ったとしても、どのような価値があるだろうか」と問い掛ける。
 法王の「もし神を知ったら」と「神の子イエスへの信仰がなければ」の発言で共通している点は、反論の余地のない論理性があることだ。
 一方、それらの発言を聞く平信者たちの反応はどうだろうか。全て納得できる信者は少ないはずだ。多くの平信者たちは「どうしたら、神を知り、どうしたら、イエスへの信仰を培うことができるのか」といった具体的な処方箋を求めているのではないだろうか。
 もう少し突っ込んでいえば、「神は実存するか」「イエスの十字架の意味」「なぜ、神を信じても救われないのか」「死後の世界」等の疑問に対する明確な返答を提示せずに、「神を知れ」「イエスへの信仰を持て」と繰り返したとしても、クリスマスのショッピングに奔走する人々の耳には届かないのではないか、といった懸念を覚える。