作家・坂口安吾はその著書「日本文化私観」の中で、「日本人には『三国志』における憎悪や『チャタレイ夫人の恋人』における憎悪はない」と書き、日本人は「昨日の敵は今日の友にできる民族だ」と指摘している。当方の心の世界を見ても、「憎み続ける」と思うと、先ず「しんどさ」を感じてしまう。「ここで手を打って」ではないが、憎しみを忘れようという心の機能が自然に働き出す。
 イエスは「敵をも愛せよ」といったが、この場合、神の下で全てが兄弟姉妹だという考えが根底にある。日本人が同一の相手を憎み続けることができないのは、イエスの「敵をも愛せよ」という世界とは明らかに異なる。日本人の場合、生理的に一つの感情、特に憎しみを持ち続けることが出来ないだけではないか。だから、「憎しみ」という感情が時間の経過と共に変質し、一種の諦観が生まれてくると、「憎み続ける」ことの意義が次第に薄れていく。それを日本人は昔から「水に流す」といって表現してきたのではないか。
 一方、相手が50年前や数世紀前の事件を挙げ、こちらを憎んできた場合、正直言って戸惑いを感じてしまう日本人が多いのではないだろうか。例えば、中国人や韓国人から、直接犯したことがない戦争犯罪について糾弾されたり、批判された時、当方は「申し訳なく思う」と一応謝罪するが、内心は相手側の憎しみの持続力に言い知れない違和感を感じてきたものだ。
 当方は仕事柄さまざまな分野の人間と会見してきたが、「この人は自分とは全く違う世界にいる」という強い印象を受けた人物がいる。ナチ・ハンターで世界的に有名だったサイモン・ウィーゼンタール氏だ。同氏のウィーン事務所で会見し、そこで「戦争が終わって久しいが、なぜ今も逃亡したナチス幹部を追い続けるのか」と聞いたことがある。同氏は鋭い目をこちらに向けて、「生きている人間が死んでいった人間の恨み、憎しみを許すとか、忘れるとか、言える資格や権利はない」と主張し、「『忘れる』ことは、憎しみや恨みを持って亡くなった人間を冒涜する行為だ」と強調した。「水に流す」世界に生きる当方は、ユダヤ人の生死観に少なからず衝撃を受けた。
 ウィーゼンタール氏の世界観からみれば、日本の戦争犯罪を忘れず、日本人に憎しみを抱き続ける中国人、韓国人の生き方の方が自然かもしれない。ただし、ウィーゼンタール氏は世界を駆け巡りナチス戦争犯罪人を追跡していったが、オーストリアのワルトハイム大統領がナチ戦争犯罪容疑で国際社会から激しくバッシングされていた時、「ワルトハイム氏が戦争犯罪に関与した証拠はない」と弁護しているのだ。同氏は死者の「憎しみ」を忘れない一方、「憎まれる側」の世界にも一定の理解を有していた証拠だろう。「憎しみ」や「恨み」が一人歩きする時、歴史への謙虚な姿勢が失われていく危険性を、同氏は体験を通じて熟知していたのだろう。