イタリアのローマ・カトリック教会聖職者たちは、同国週刊誌記者が教会の聴罪室に行って神父に偽の懺悔をして、聖職者がどのように反応するかを試み、その調査結果を記事にしていたことが明らかになって、怒りを爆発させている。
 問題の週刊誌記者は、通常の信者のように装って聴罪室に行き、聖職者がバチカン法王庁(ローマ・カトリック教会総本山)の路線に忠実か、それとも教会の路線に反して、免罪などしていなかなどを調べ、その結果を記事にしていたわけだ。
 同国カトリック教会司教会議のべトリ事務局長は「宗教感情を深く傷つける行為だ。記者は教会の中枢部、神聖な告解を侮辱したのだ」と強く批判した。バチカン日刊紙「オッセルバトーレ・ロマーノ」も社説の中で週刊誌記者の行動を厳しく追及している。「ラジオ・バチカン」放送も28日、「ニセ懺悔へ怒り」と報じている、といった具合だ。
 教会や教会メディア側の批判は当然だ。「言論の自由」は詐欺行為をけっして認めてはいない。特に、教会で神聖視されている秘蹟を悪用して聖職者の反応を探る、といった行為はどのようない理由があっても許されるものではない。
 ちなみに、ニセ懺悔問題の背後には、同性愛問題や安楽死問題などで同国国民の意見が分かれているばかりか、教会内でも保守的聖職者と改革派聖職者間で見解の相違があるため、聖職者がそれらのテーマをどのように考えているかが大きな話題となるという社会背景がある。
 フランスのロワイヤル大統領候補がカナダのケベック州首相を装った男からニセ電話を受け、そこで重要な政治的発言(ケベック州の独立問題)をしたことが明らかになったばかりだ。数年前には、英国のバッキンガム宮殿職員となって王室の実相を暴露しようとしたジャーナリストもいた。
 ニセ懺悔、ニセ電話、ニセ王室職員も相手を騙して相手の本音、実相を聞き出そうとするものだ。それは人間間の対話が信頼関係の上で初めて成り立つという基本的な原則を破る行為に等しい。「社会の木鐸」を目指す以上、ジャーナリストは正統な手段で勝負すべきだ。
 なお、ローマ法王べネディクト16世は作家やジャーナリストの守護聖者、聖フランシスコ・サレジオの記念日(1月24日)に、メデイア関係者に「社会に責任を担うためにも倫理的基準を持つべきだ」と注文をつけている。