ウィーン発 『コンフィデンシャル』

 ウィーンに居住する筆者が国連記者室から、ウィーンの街角から、国際政治にはじまって宗教、民族、日常の出来事までを思いつくままに書き送ります。

2024年06月

精神科医フランクルと「モーセの十戒」

 ウィーン生まれのユダヤ人精神科医ヴィクトール・フランクル(1905〜1997年)についてこのコラム欄でも書いたばかりだが、一つ大切なエピソードを忘れていたので、ここで紹介することを許してほしい。以下のエピソードはオーストリア国営放送(ORF)がウィーンの3人のユダヤ人精神科医について放映した番組の中でフランクル自身が語ったものだ(「3人のユダヤ人精神科医の『話』」2024年6月7日参考)。

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▲花咲かすぺラルゴ二ウム(2024年4月13日、ウィーンで撮影)

 時代はナチス・ドイツ軍がオーストリアに迫っていた時だ。フランクルは医者だったので、ナチス・ドイツ軍は彼に対し他のユダヤ人とは異なり、少しは融和的な扱いをしていた。フランクルのもとには「早く米国に逃げたらいい」というアドバイスとビザも届いていた。フランクルは亡命するべきか否かで悩んだ。自分が医者だからドイツ軍も自分の家族、父、母、妹たちを強制収容所送りをしないことを知っていたから、もし自分が亡命したならば、家族はどうなるかを考えていた。

 フランクルが米国に亡命しない決意を固めたのには理由があった。家に置いてあった石について父に尋ねると、それは破壊されたウィーンのシナゴークの瓦礫から見つけた石の破片を父親が持ち帰ったものだった。そこにヘラブライ語の文字が刻まれていて、それはモーセの十戒の「あなたの父と母を敬え」の一節だった。強く心打たれたフランクルは両親を残してアメリカに亡命することを止めてウィーンに残ることを決意したという。老齢になったフランクルは列車の中でインタビューでこの話をしながら涙ぐんでいた。

 しかし、ドイツ軍は次第に、医者であろうと関係なく全てのユダヤ人を強制収容所に送り出した。その結果、フランクルは家族と共に強制収容所送りとなった。ドイツ軍が敗走し、収容所から解放されると、妻や両親の安否を尋ねたが、家族全員が殺されてしまったのを知った。

 精神科医としてフランクルはナチス・ドイツ軍が侵攻する前から、精神科医として悩む人々の相談相手として歩んでいた。そのフランクルも収容所から解放された直後は、家族全てを失い、生きる意味、価値、喜びを無くして鬱に陥った。しかし精神科医として再び人々を助ける道に戻っていった。暫くして、オーストリア人でカトリック教徒の女性と知り合い、再婚する。フランクルは死ぬまで妻と共に生きた。世界で多くの読者を感動させたフランクルの著書「それでも人生にイエスと言う」はフランクル自身の体験談に基づいた証だ。フランクルは「人は人生で意味、価値を見いだせない時、悩む。人は先ず『生きる意味、価値』を見出していくべきだ」と語っている。

 フリードリヒ・ニーチェ(1844〜1900年)は「20世紀はニヒリズムが到来する」と予言したが、ローマ・カトリック教会の前教皇ベネディクト16世(在位2005〜2013年)は2011年、「若者たちの間にニヒリズムが広がっている」と指摘している。欧州社会では無神論と有神論の世界観の対立、不可知論の台頭の時代は過ぎ、全てに価値を見いだせないニヒリズムが若者たちを捉えていくという警鐘だ。簡単にいえば、価値喪失の社会が生まれてくるのだ(「“ニヒリズム”の台頭」2011年11月9日参考)。

 人は価値ある目標、人生の意味を追及する。そこに価値があると判断すれば、少々の困難も乗り越えていこうとする意欲、闘争心が湧いてくる。逆に、価値がないと分かれば、それに挑戦する力が湧いてこない、無気力状態に陥る。同16世によると、「今後、如何なる言動、目標、思想にも価値を感じなくなった無気力の若者たちが生まれてくる」というのだ。残念ながら、21世紀に入り、状況は次第にベネディクト16世が警告した世界に近づいてきている。

 バラの一片から‘神の善意’を感じた名探偵シャーロック・ホームズのように、私たちも自身の周囲にある数多くの‘神の善意’を見出し、生きていく意味を学ぶべきではないか(「バラの美は『神の善意』の表れ?」2024年4月12日参考)。

カフカ没後百年とユダヤ人の「運命」

 今年はプラハ生まれのユダヤ人作家フランツ・カフカ(1883〜1924年)の没後100年目だ。世界各地で様々な特集やイベントが行われている。カフカは40歳で結核で亡くなったが、3人の妹ら家族は後日、強制収容所送りになって、そこで全員が亡くなった。カフカはナチス・ドイツが侵攻する前に病死したので、ナチス・ドイツ軍の蛮行の直接の犠牲とはならなかった。カフカが強制収容所送りを体験しなかったことは、カフカ自身にとって幸せだったのかもしれない。

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▲没後100年を迎えたユダヤ人作家フランツ・カフカ(ウィキぺディアから)

 カフカの友人、ユダヤ人作家マックス・ブロート(1884〜1968年)はドイツ軍が西側行きの列車を閉鎖する直前、最後の列車に乗ることが出来て西側に亡命した。ブロートがナチス・ドイツ軍に拘束され、強制収容所送りになっていたならば、「審判」「変身」「城」といったカフカ作品は世に出ることがなかっただろう。カフカは生前、自身の作品をほとんど公表していない。カフカの作品の価値を理解していた友人ブロートはカフカの原文を鞄に詰めて国境を出ることが出来たわけだ。オーストリア国営放送(ORF)はカフカ没後100年を祝って6回のシリーズでTV映画を放映したが、ブロートがドイツの国境警察に鞄を開けさせられ尋問される場面があった。カフカ文学の運命の瞬間だったわけだ。

 第二次世界大戦中、杉原千畝氏は日本領事館領事代理として赴任していたリトアニアで、ナチス・ドイツによって迫害されていた多くのユダヤ人にビザを発給した話は有名だ。ドイツ軍の侵攻前に亡命で来たユダヤ人、亡命が遅れたたために強制収容所送りになったユダヤ人など、様々な運命があった。

 7日のコラムでも紹介したが、精神分析学のパイオニアのジークムント・フロイト(1856〜1939年)、アルフレット・アドラー(1870〜1937年)はナチス・ドイツがオーストリアに侵攻する前にロンドンや米国に亡命できた。一方、ヴィクトール・フランクル(1905〜1997年)は家族と共に強制収容所送りになった。収容所から解放された直後、妻や母、姉妹たちが全て殺されたことを知って絶望し、一時期生きる力を無くして鬱に陥ったといわれる。フランクルは鬱を乗り越え、「それでも人生にイエスと言う」という本を出している。

 興味深い例としては、ユダヤ系作家フランツ・ヴェルフェル(1890〜1945年)は非常に太っていたために、山を越えフランスへ亡命するのが大変だった。そこで「この山を無事超えて亡命出来たらルルドの聖人ベルナデットの話を小説にする」と神に約束したという。ヴェルフェルは最終的に米国に亡命した後、神との約束を果たし、小説「ベルナデットの歌」を書いている。

 ところで、ユダヤ人を亡命に強いた張本人アドルフ・ヒトラー(1889〜1945年)はウィーンで画家の道を歩むことが出来たならば、ユダヤ人大虐殺といった蛮行に駆り立たれなかったかもしれない。アドルフ・ヒトラーは1907年、08年、ウィーン美術アカデミーの入学を目指していたが、2度とも果たせなかった。ヒトラーの入学を認めなかった人物こそ、グリーケァル教授だ。

 もしヒトラーが美術学生となり、画家になっていれば、世界の歴史は違ったものとなっていたかもしれない。ウィーン美術学校入学に失敗したヒトラーはその後、ミュンヘンに移住し、そこで軍に入隊し、第1次世界大戦の敗北後は政治の表舞台に登場していく。

 歴史で「イフ」はタブーだが、グリーケァル教授がヒトラーを入学させていたならば、その後の歴史は変わっていただろうか。ナチス・ドイツ軍は存在せず、ユダヤ民族への大虐殺はなかったかもしれない(「画家ヒトラーの道を拒んだ『歴史』」2014年11月26日参考)、「ヒトラーを不合格にした教授」2008年2月15日参考)。

 米映画「オーロラの彼方へ」(原題 Frequency、2000年)は、人生をやり直し、失った家族や人間関係を回復していくストーリーのパイオニア的作品だ。米俳優ジェームズ・カヴィーゼルが警察官役で登場している。オーロラが出た日、警察官になった息子が無線機を通じて殉職した消防士の父親と話す場面は感動的だ。ストーリーは父親の殉職と殺害された母親の殺人事件を回避し、最後は父親、母親と再会する。同映画は人生の失敗、間違いに対してやり直しができたら、どれだけ幸せか、という人間の密かな願望を描いている(「人生をやり直しできたら・・・」2017年12月30日参考)。

 「運命」が存在するか否かは分からないが、選択が間違ったゆえに、全く予期しない人生を歩みだす人も少なくない。サクセスフルな人生を歩み、多くの富と名声を得た人でも、生まれて死ぬまで100%計画通りに歩んできた人間はいないだろう。程度の差こそあれ、さまざまな後悔や無念の思いを抱きながら生き続けている。「運命はわれわれを導き、かつまたわれわれを潮弄する」と述べたフランスの哲学者ヴォルテールの言葉を思い出す。

スイスは「パレスチナ国家承認」を否決

 イスラエル軍とパレスチナ自治区ガザを実効支配しているイスラム過激テロ組織「ハマス」間の戦闘は8日で9カ月目に入った。イスラエル側にはガザ紛争は年内まで続くだろうという声が聞かれる中、イスラエル軍の戦闘で多数のパレスチナ人が死傷していることを受け、国際社会ではイスラエル批判の声が高まっている。

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▲踊りだしたパレスチナの人々(2012年11月29日、ウィーン国連内にて撮影)

 そのような中、ノルウェー、アイルランド、スペインの欧州3カ国は先月28日、パレスチナを国家承認すると発表した。現在、193カ国の国連加盟国のうち145カ国がパレスチナ国家を承認している。欧州連合(EU)の27カ国の加盟国では、スウェーデン、キプロス、ハンガリー、チェコ、ポーランド、スロバキア、ルーマニア、ブルガリアはパレスチナ国家を承認済みだった。

 欧州3カ国のパレスチナ国家承認でEU内で承認への動きが加速するのではないかと予想されている。それを裏付けるように、スロベニア議会は4日、パレスチナを国家承認する動議を可決した。動議は、中道左派の与党が提出し、4日、議会の90議席中52人が賛成した。野党側は多くのEU加盟国と同じく現時点での承認には反対として、投票をボイコットした。スロベニアが国家承認した結果、EU27カ国中、11カ国が承認したことになる。次はマルタが国家承認するのではないかと見られている。

 一方、北欧のデンマーク議会は先月28日、パレスチナ国家承認を「必要な条件が整っていない」として否決した。その直後、スイス国民議会(下院)も今月4日、パレスチナを独立国家として承認する内容の動議を否決した。EU加盟国の北欧デンマーク、そして中立国・スイスの「国家承認」否決は「パレスチナ国家承認」が複雑な問題であることを改めて明らかにした。

 ちなみに、スイス公共放送協会(SRG)のスイスインフォ(日本語版6月5日)によると、「社会民主党(SP/PS)が提出した動議は、イスラエルとパレスチナという2つの主権国家が存在することが永続的で公正な平和の基盤になると訴えている。ハマスが昨年10月7日に拉致したイスラエル人人質を解放するという条件で、国家承認するよう提案していた。賛成票を投じたのは社会民主党と緑の党(GPS/Les Verts)だけだった。討論は白熱し、時に感情的になった」という。

 パレスチナ国家承認では、「パレスチナ国家をイスラエルとの和平合意の一部としてのみ承認する」というのが西側諸国の基本的方針だった。その観点からいえば、ガザ紛争の状況はそのような情勢からほど遠い(「パレスチナ国家承認は時期尚早だ」2024年5月30日参考)。

 スイスは過去、イスラエル・パレスチナ間の領土紛争を巡っては、「1967年境界線により、イスラエルと将来の独立したパレスチナ国家が平和かつ安全に共存することを目指す『2国家解決案』を支持し、パレスチナの主権国家の樹立を支持してきた。国連の安全保障理事会は4月、パレスチナの国連加盟の勧告を求める決議案の採決を行ったが、スイスはパレスチナの国連加盟が「現時点では適切ではない」「中東情勢の沈静化と和平努力につながらない」として投票を棄権している。

 スイスの代表紙「ノイエ・チュルヒャー・ツァイトゥング」(NZZ)は「パレスチナ国家承認は、イスラエルとの改革と和平プロセスを成功させるためのゴールであり、インセンティブ(誘因)でなければならないが、ノルウェー、アイルランド、スペインは現在、パレスチナ人にアメを与え、同時に、イスラエルに一方的に圧力をかけている。それにより和平は1センチも前進していない」と報じている。全く正論だ。

 最後に、スイスインフォ(日本語版)が報じていた面白いエピソードを紹介する。

 スウェーデンが2014年、西側で初めてパレスチナ国家承認をした時だ。「イスラエルのアヴィグドール・リーベルマン外相(当時)は『スウェーデン政府は、中東関係は自分で組み立てるイケアの家具よりも複雑であることを理解すべきだ。この問題は責任と繊細さをもって処理されるべき』と述べた。それに対して、スウェーデンのマルゴット・ヴァルストローム外相は『私は喜んで(リーベルマン外相に)組み立て式のイケアのフラットパック(家具などを部品に分けて隙間なく梱包したもの)を送りたい』と返答した」

3人のユダヤ人精神科医の「話」

 オーストリアの首都ウィーンはモーツァルト、シューベルトといった作曲家が活躍した‘音楽の都’として知られているが、同国はフロイト、アドラー、フランクルという3人の世界的な精神科医を輩出している。3人の精神科医はいずれもユダヤ人であり、精神分析学、心理療法を確立していったパイオニアだ。

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▲オーストリアの3人のユダヤ系精神科医(左からフロイト、アドラー、フランクル)(2024年6月4日のオーストリア国営放送(ORF)の「Kreuz und quer」からスクリーンショット)

 オーストリア国営放送(ORF)は4日夜、文化番組でジークムント・フロイト(1856〜1939年)、アルフレット・アドラー(1870〜1937年)、ヴィクトール・フランクル(1905〜1997年)の3人の精神科医を紹介する30分余りの短い番組を放映した。3人に共通しているのはオーストリアに住んでいたユダヤ人ということだ。

 フロイトは生前、毎水曜日、精神科医の集いを開いていたが、ある日、新しいゲストが入ってきた。カール・グスタフ・ユング(1875〜1961年)だ。ユングはユダヤ人ではなく、スイス人生まれの精神科医であることを知ったフロイトは喜んだという。なぜならば、当時、精神科医といえば“ユダヤ人の学問”と受け取られるほど、ユダヤ系学者が多数を占めていたからだ。

 ここで3人の精神分析学の業績を紹介するつもりはない。それらは既に知られていることで、世界には数多くの専門家が語りつくしているからだ。ここではアカデミックの世界では余り知られていない話を拾って紹介したい。

 3人の精神分析学者の中でもフロイトは文字通り精神分析学の創設者だ。彼は「無意識の世界」を分析し、夢の分析で知られている。患者をソファーに寝かせ、話を聞きながら患者の過去を分析していく。フロイトは骨や細胞ではなく、精神(魂)に刻み込まれた過去、無意識の世界を解析していった。それゆえに、フロイトは「魂の考古学者」と呼ばれたほどだ。

 フロイトはナチス・ドイツ軍が1938年3月、オーストリアに侵攻する直前、ロンドンに亡命したが、その時は既に末期がんに冒され、自由にしゃべることすらできなかった。亡命1年後、フロイトは亡くなった。

 興味深い点は、フロイトは当時、精神分析学の開拓者として絶対的な権威を有していたが、それゆえにというか、フロイトにひかれて集まってきたアドラーやユングは最終的にはフロイトと袂を分かっている。アドラーはフロイトのもとで学んでいたが、過去の原因論ではなく、現在、未来の課題を重視する未来志向の分析学を目指していく。専門家はアドラーの精神分析学を「個人心理学」と呼ぶ。フロイトの原因論ではなく、現実の課題を重視する目的論を標榜し、他者との比較などで生れる劣等感などを克服していく生き方を鼓舞した。21世紀の現代人にとってアドラー心理学は人気がある。アドラーは精神分析を社会生活の中で応用し、多くの貧者や少数派の人々を癒していくことに専念していった。

 ちなみに、ユングは個人的な過去の無意識の世界を模索するフロイトのもとで学んでいたが、無意識の世界の解明だけに満足せず、個人の無意識の世界を超えたものが現在の存在に影響を及ぼしていると感じたユングは後日、「集合的無意識における原型の理論」で有名となっていく(「人類歴史が刻印された『集合的無意識』」2022年4月20日参考)。

 フロイトとアドラーはナチス・ドイツがオーストリアに侵攻する前に米国やロンドに亡命したが、フランクルは家族と共に強制収容所に収容された。そこでの体験は名著「夜と闇」の中で描かれている。彼は生き延びるためには意味、価値を見出すことが不可欠と主張し、民族や国家の「集団的罪」を否定し、収容所にもいいドイツ兵士がいたと証言したため、他のユダヤ人から批判にさらされた。彼の精神分析はロゴセラピーと呼ばれる心理療法で、多くの学者が継承している。

 収容所で家族を全てを失ったフランクルは解放直後、深い鬱に悩んだという。人生の意味を見いだせなかったからだ。新しい女性と出会い、再婚することで人生に意味を再び発見していく。著書「それでも人生にイエスと言う」は世界で多くの人々に読まれている。

 フロイトは無神論者だった。アドラーは1896年にプロテスタントに改宗しているが、「神がいると思って生きるほうがいい」と述べていた。フランクルはユダヤ教徒だった。再婚した女性はオーストリアのカトリック信者だった。その相手とフランクルは死ぬまで50年余り共に生きた。

 当方の個人的なエピソードだが、ナチ・ハンターで有名なサイモン・ヴィーゼンタール氏とウィーンで会見した時、同氏は「自分は世界から多くの名誉博士号を得たが、私以上に多くの名誉博士号を得た人物が一人いる、それはフランクルだ」と述べていたことを思い出す。

 ユダヤ人の世界的物理学者アインシュタインはフロイトがノーベル生理学・医学賞を獲得したいと考えていることを知って、フロイトに「心理学は科学ではないよ」とノーベル賞受賞の対象外と諭す一方、「君はノーベル文学賞ならば得られるかもしれないよ」と述べたという。心理学は当時、まだ科学とは見なされていなかったからだ。同時に、フロイトの表現力、記述力にアインシュタインは感動し、フロイトの文才を高く評価していたという。

 なお、オーストリアでは過去も現在も反ユダヤ主義が根強い。パレスチナ自治区ガザを実効支配しているイスラム過激テロ組織「ハマス」がイスラエルで奇襲テロを実行して以来、オーストリア国内でも反ユダヤ主義的犯罪が急増、2023年は1147件が登録されている。実数はそれ以上多い。フロイト、アドラー、フランクルの3人のユダヤ人の世界的な精神科医を生み出したオーストリアは同時に、アドルフ・ヒトラーが生まれた国でもある。

なぜ「左翼」はイスラエルを憎悪するか

 パレスチナ自治区ガザを実効支配しているイスラム過激テロ組織「ハマス」が昨年10月7日、イスラエル領に侵入し、1200人余りのイスラエル人を虐殺し、250人以上を人質にした奇襲テロ事件が起きて今月7日で8カ月目を迎える。イスラエル側はハマスに報復攻撃を即実施、ネタニヤフ首相は「ハマスの壊滅」を掲げて激しい攻撃を開始した。パレスチナ保健当局の発表では、イスラエル軍の攻撃で3万5000人以上のパレスチナ人が犠牲となった。イスラエル側の激しい軍事攻勢に対して、国際社会からはイスラエル批判の声が高まっている。

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▲ガザ北部のジャバリアで瓦礫の中に座る少年、2024年6月4日(国連パレスチナ難民救済事業機関(UNRWA)の公式サイトから)

 欧米諸国ではガザ紛争勃発直後、エリート大学内や路上でイスラエル批判の抗議デモや集会が開催されてきた。抗議デモ集会は当初、主にパレスチナ人、アラブ人が中心となって行われたが、その主役がここにきて左翼勢力に移ってきている。

 ドイツ民間ニュース専門局ntvのウェブサイトでヴォルフラーム・ヴァイマ―記者は「なぜ多くの左翼がイスラエルを憎むのか」をテーマに興味深い記事を掲載していた。同記者は「カール・マルクスからグレタ・トゥーンベリに至るまで、150年間驚くべきことに、ユダヤ人に対する激しい憎悪が左翼運動のDNAの一部として存在している」と書いているのだ。

 ヴァイマ―記者は「イスラエルに対する抗議はエスカレートしている。世界中のパレスチナ支持活動家や抗議する学生たちは、大声でイスラエルの存在権を否定し、文化人は舞台でガザにおけるイスラエル軍のジェノサイドを訴えている。イスラエル批判は初めはイスラム教徒が熱心だったが、今では左翼の支持者たちがその主導権を奪い、イスラエルを非難するケースが増えている。グレタ・トゥーンベリからジュディス・バトラーまでイスラエルを批判し、ますます露骨な反ユダヤ主義の様相を帯びてきた」と指摘している。

 「左翼と反ユダヤ主義の関係について」考えなければならない。同記者によると、「反ユダヤ主義の根は深い。一見、反射的なポストコロニアリズムから来ているように見える。イスラエルは帝国主義的、人種差別的、植民地的な拡張政策を行ってきたと受け取られ、パレスチナ人は一種の先住民と再定義されているからだ。典型的な階級闘争の世界観だ。そこではパレスチナ人、アラブ人、イスラム教徒は被害者であり、イスラエル、ヨーロッパ、アメリカは加害者だ」というのだ(「『加害者』と『被害者』の逆転現象」2023年11月4日参考)。

 キリスト教社会ではユダヤ民族はイエス・キリストを十字架で処刑した「メシア殺害民族」と呼ばれてきた。フランスの初期社会主義でも反ユダヤ主義が広まっていた。ロスチャイルド家と共に「ユダヤ金融封建主義」が全ての悪の根源だと考えられ、左翼は長い間、「ロスチャイルド家」、「ロックフェラー家」、「アメリカの東海岸」をユダヤ人の隠喩として囁き続けてきた。

 そしてカール・マルクスの登場だ。「ユダヤ人問題によせて」(1843年)で露骨な反ユダヤ主義的な憎悪を主張し、「ユダヤ教の世俗的な根源は何か?実用的な欲望、利己主義だ。ユダヤ人の世俗的な礼拝は何か?それは商売だ。彼らの世俗的な神は何か?それは金だ」と描写している。ヴァイマ―記者は「マルクスの主張はナチス・ドイツのその原文のように感じる」と述べている。マルクスの反ユダヤ主義はソ連共産主義政権に継承され、スターリンの下では「ユダヤ人の陰謀」に対する粛清キャンペーンが行われた(「ユダヤ民族とその『不愉快な事実』」2014年4月19日参考)。

 左翼の反ユダヤ主義は反資本主義と関連している。「労働者の天国」を掲げてきた左翼共産主義者は結局、世界の資本世界を牛耳っているユダヤ人資本家への戦闘を呼び掛けているわけだ。左翼にとって、パレスチナ紛争は自身の革命を推進するうえで不可欠な戦いであり、ユダヤ社会に支配されたパレスチナ人の解放運動(共産革命)ということになる。

 そのうえ、共産主義の革命論がヘーゲルの弁証法を逆転して構築(唯物弁証法)されているように、左翼の世界では常に被害者と加害者は逆転される。左翼は「ハマスが昨年10月7日、イスラエル領に侵入し、約1200人のイスラエル人を虐殺し、250人余りを人質にした奇襲テロ事件から現在のガザ戦争が始まった」というファクトを完全に無視し、パレスチナ側を被害者、イスラエルを加害者として、イスラエル打倒を叫んでいる。例えば、1972年9月5日、パレスチナ武装組織「黒い9月」の8人のテロリストは警備の手薄いミュンヘンの五輪選手村に侵入し、イスラエル選手団を襲撃。2人を殺害し、9人を人質にするテロ事件が起きた。その時もパレスチナのテログループは民族解放戦士のように扱われた、といった具合だ(「『ミュンヘン五輪テロ事件』の教訓」2022年9月3日参考)。

 いずれにしても、左翼共産主義者は「宗教をアヘン」と蔑視するが、その思想は非常に宗教的だ。真偽、上下を恣意的に逆転し、世界革命(地上天国)を標榜する似非宗教だ。
 
<参考資料>
 「『反ユダヤ主義』のルーツの深さ」2013年11月6日
 「反ユダヤ主義は耐性化ウイルスか」2013年11月20日
 「なぜ反ユダヤ主義が生まれたのか」2015年1月28日
 「『輸入された反ユダヤ主義』の脅威」2019年3月26日
 「なぜ反ユダヤ主義が消滅しないのか」2020年12月6日 
 「ユダヤ人『DNAに刻み込まれた恐怖』」2023年11月3日
 「パレスチナ人はアラブの危険な番犬?」2023年11月6日

ガザ紛争とアラブ諸国指導者の「困惑」

 パレスチナ自治区ガザを実効支配しているイスラム過激テロ組織「ハマス」がイスラエル領に侵入し、奇襲テロを実行、約1200人のイスラエル人を虐殺し、250人以上を人質にしてから今月7日で8カ月目を迎える。イスラエルはハマスの奇襲テロへの報復攻撃を開始し、ガザ区でハマスとの戦闘を展開。その間、パレスチナ人側には3万5000人以上の犠牲者が出、国際社会はイスラエル軍の軍事攻勢を批判し、ガザでの軍事行動の即停止を要求する一方、国際刑事裁判所(ICC)は5月20日、イスラエルのネタニヤフ首相、ガラント国防相を戦争犯罪人として逮捕状を請求するなど、ガザ紛争が長期化するにつれてイスラエルへの批判が高まっている。

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▲岸田文雄首相を迎えるサウジのムハンマド皇太子(2023年7月16日、首相官邸公式サイトから)

 戦闘が長期化し、パレスチナ人に多くの犠牲が出るにつれてサウジアラビア、ヨルダン、エジプト、アラブ首長国連邦(UAE)などアラブ諸国ではイスラエルへの批判が強まる一方で「ハマス」への支持が高まってきている。それに対し、アラブ諸国の指導者たちはイスラエルの軍事行動を批判する一方、国内での「ハマス」支持の高まりに警戒心を強めている。

 オーストリア代表紙「プレッセ」(5月31日付)でイスタンブール特派員トーマス・ザイベルト記者は「窮地に陥るアラブの世界」という見出しで、アラブ諸国の指導者がガザ紛争、「ハマス」の台頭に直面して苦悩する状況を分析している。

 アラブ諸国は公式にはイスラエル側を批判している。ガザ最南部ラファの避難民エリアをイスラエル軍が空爆し、多くの犠牲者が出るとサウジからクウェートまでアラブ諸国で一斉にイスラエル批判のトーンがさらに高まった。特に、ガザ南部の国境でエジプト兵士がイスラエル軍兵士に殺害された時、イスラエルとエジプトの両国関係は一時緊迫した。米国のシンクタンク「ウルソンセンター」の中東専門家ジョー・マカロン氏は「イスラエルは中東では益々不可触民(パーリア)国家となってきた」と表現している。

 しかし、イスラエルと外交関係を締結しているエジプト、ヨルダン、アラブ首長国連邦などのアラブ諸国はガザ紛争後、イスラエルとの関係を断つといった動きは見られないという。

 例えば、トルコのエルドアン大統領は昨年12月、ネタニヤフ首相を「ヒトラーと変わらない」と罵倒し、イスラム諸国に対してイスラエルと関係を断つべきだとアピールしたが、トルコはイスラエルとの関係を完全に断つ考えはもともとない。イスラエルの背後に米国がいること、米国からの軍事、経済支援は欠かせられないという事情があるからだ。アラブ指導者がイスラエルへの対応で中途半端な立場を維持するにつれ、国内から批判が聞かれ出している(「エルドアン氏よ、『ハマス』はテロ組織」2024年5月16日参考)。

 その一方、アラブ諸国内で「ハマス」の支持が高まっている。サウジでは「ハマス」への支持率は昨年10月7日の奇襲テロ前は約10%の支持だったが、テロ事件後40%に膨れ上がった。今年1月実施された調査によると、アラブ16カ国の国民の3分の2は「ハマス」の奇襲テロを正当化し、80%は「米国とイスラエルが中東の安全を脅かしている」と受け取っていることが明らかになっている。

 「ハマス」の支持が高まったということは「ハマス」を軍事的、経済的に支援しているイランの成果と考えられる。スンニ派の盟主サウジとシーア派の代表イランは歴史的に中東のヘゲモニー争いを展開してきた関係だ。そのサウジで「ハマス」への支持が高まっているのだ。そして「ハマス」の背後には「ムスリム同胞団」がいる。アラブ諸国の多くは「ムスリム同胞団」をテロ組織と受け取っている。エジプトがガザ最南部ラファの検問所を避難民のために開放しないのは、避難民の中に「ハマス」のメンバーが潜入することを恐れているからだ。

 まとめるなら、ガザ戦闘が長期化し、イスラエル軍の攻勢が激しくなり、パレスチナ人の犠牲者が更に増えれば、ハマス戦闘士はアラブ諸国の国民に英雄視される。その結果、アラブ諸国の指導者は窮地に陥るという構図だ。

 なお、サウジのムハンマド皇太子は米国との安全保障協定の締結をここにきて躊躇しだしているという。なぜなら、同協定ではイスラエルとの関係正常化が義務づけられているからだ。ガザ紛争の停戦なく、同皇太子は同協定を締結できないのだ。

 以上、ザイベルト記者の記事の概要を紹介した。ガザ紛争でのアラブ諸国の事情を理解するうえで助けとなる。

戦略的「曖昧さ」が引き起こす不安

 21世紀の今日、「曖昧さ」が恣意的に広がってきている。ハーフ・トゥルース、イン・ビトゥイーンといった中間的な立場を意味するのではなく、「曖昧さ」というはっきりとした選択肢として台頭してきているのだ。「イエス」か、「ノー」か、それとも「曖昧さ」か、といった3者選択の世界だ。

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▲エドヴァルド・ムンク作「叫び」(ウィキぺディアから)

 米CNNはファクト・チェッキングという番組で政治家の発言の真偽を確認している。そのターゲットは主にトランプ前大統領の発言だ。正しいか、間違いか、ファクトかフェイクか、の2者選択で判断するわけだ。ここでテーマとするのは「イエス」でも「ノー」でもない第3の選択肢「曖昧さ」がここにきて主流となってきている、という点だ。

 「曖昧さ」を考える場合、軍事用語の「戦略的曖昧さ」(strategic ambiguity)を考えれば一層理解しやすい。敵に対して恣意的にはっきりとした手の内を明かさない。分かりやすい例を挙げれば、パレスチナ自治区ガザでイスラム過激テロ組織「ハマス」と戦闘中のイスラエルは核兵器を保有しているか否かだ。イスラエル側は過去、一度も公表したことがない。これなどは明らかにイスラエル側の恣意的な「戦略的曖昧さ」というべきだろう。

 ただ、興味深い点は、イスラエルが核保有しているか否か、完全には分からない状況下では、多くは「保有している」と考える傾向があることだ。ちなみに、スウェーデンのストックホルム国際平和研究所(SIPRI)などによれば、イスラエルは約200発の核兵器を保有していることになっている。

 ウクライナを侵略したロシアのプーチン大統領はこれまでも何度もウクライナや欧米諸国に対し、核兵器の使用をちらつかせている。プーチン大統領は2022年9月21日、部分的動員令を発する時、ウクライナを非難する以上に、「ロシアに対する欧米諸国の敵対政策」を厳しく批判し、「必要となれば大量破壊兵器(核爆弾)の投入も排除できない」と強調し,「This is not a bluff」(これははったりではない)と警告を発している。ロシアが核大国であることは周知のことだが、いざとなれば核兵器を使用すると威嚇したわけだ。「使用しない」「使用するかもしれない」という2者選択の中で、プーチン氏はどちらとも断言せず、結論を受け手に委ねているのだ(「プーチン氏『これはブラフではない』」2022年9月23日参考)。

 その結果、相手側はロシアの真意を巡って不安になる。「プーチン氏は使用すると断言しなかったから、ロシアは使用しない」と結論を下す人より、多くの人は「ひょっとしたら使用するのではないか」という結論に傾きやすい。プーチン氏はそのことを知っているのだ。

 「戦略的曖昧さ」は自軍にとって攻撃に幅を付ける一方、敵側は負担が増すことになるわけだ。「曖昧さ」が大きな武器となるのは、決して新しいことではないが、現代人が世界の動向に対して楽観的より、悲観的に考える傾向が強まってきていることも手伝って、その効果が増しているのだ。

 バイデン米大統領はウクライナ戦争が勃発すると、ロシア側を批判する一方、「北大西洋条約機構(NATO)は戦争には関与しない」と即発言している。バイデン氏の発言は世界の指導者としては愚の骨頂だ。戦争の動向次第ではNATOはモスクワを攻撃する、と示唆する発言をしていたならば、プーチン氏は考えざるを得なかったが、バイデン氏は早々と「米軍は戦争に関与しない」と言ってしまったのだ。「戦略的曖昧さ」を自ら葬ってしまったのだ。

 ちなみに、バイデン大統領の任期中、ウクライナ戦争、そしてガザ紛争と2つの大きな戦争が勃発したが、決して偶然ではないだろう。バイデン氏は外交専門家を自負しているが、残念ながら実際は外交音痴、戦争音痴と言われても仕方がないだろう。世界最強国の米国の指導力はバイデン氏の任期中、急落してきた。

 身近な例を挙げる。北朝鮮は先月28日から約1000個の「汚物風船」を韓国に送り込んだ。北風に乗って韓国に入った汚物風船に対し、韓国側は撃ち落とすいった対応はとらず、国民に風船に触れないように警告を発した後、落下後、防備服を着た軍隊が慎重に風船を処理した。なぜならば、ひょっとしたら汚物風船の中に化学・生物兵器、放射性ダーティ爆弾が入っているかもしれないからだ。

 北側は韓国側が「汚物風船」に不安と脅威を感じることを織り込み済みだったはずだ。北側は事前に「風船の中はたばこの吸い殻やゴミが入っている」とは言っていない。これなどは低次元だが、北側の戦略的曖昧さといってもいいだろう(「『汚物風船』を巡る北の戦略的曖昧さ」2024年6月2日参考)。

 いずれにしても人は「白」か「黒」か判明できない曖昧な状況下では不安、恐怖を感じるものだ。「ヨーロッパに幽霊が出る―共産主義という幽霊である」……これはカール・マルクス(1818年〜1883年)とフリードリヒ・エンゲルス(1820年〜1895年)によって書かれた書籍「共産党宣言」の冒頭に出てくる有名な一節だ。それに真似ていうならば、「世界に幽霊がでる。曖昧さという幽霊だ」ということになる。

ウクライナ和平サミット会議の行方

 スイスで今月15日、16日の2日間、「ウクライナ和平サミット会議」がルツェルン湖を望むホテル「ビュルゲンシュトック・リゾート」で開催される。サミット会議の開催地はスイスが誇る最高級のリゾート地だが、ウクライナ和平会議の成功に懐疑的な声が開催日が近づくにつれて大きくなってきた。

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▲ストックホルムで開催された第3回ウクライナ・北欧首脳会議サミットに参加したゼレンスキー大統領(2024年5月31日、ウクライナ大統領府公式サイトから)

 和平会議のスイス開催案は、世界経済フォーラム(WEF)の年次総会(ダボス会議)でウクライナのゼレンスキー大統領が要請したことがきっかけだ。会議は中立国スイスとウクライナ政府が共催する形で開催されるが、戦争の侵略国ロシアが招待されていないばかりか、ゼレンスキー大統領が期待していた中国も「ロシアの参加がない和平会議には意味がない」として参加を見送る意向を明らかにしたばかりだ。

 中国外務省の毛寧報道官は先月31日、「会談の性質は中国の要求や国際社会の期待を満たしていないため、中国の参加は困難だ。和平会議にはすべての当事者による平等な参加と、すべての和平計画に関する公正な議論が含まれるべきだ。そうでなければ、会議が平和を回復する上で実質的な役割を果たすことは困難になるだろう」と述べている。要するに、紛争当事国の一国、ロシアが欠席した和平会議では本当の解決は期待できないというわけだ。

 ロシアのプーチン大統領は先月16日に訪中し、習近平国家主席と首脳会談を行い、そこでスイス開催の和平会議には参加しないでほしいと強く要請してきたが、その甲斐があったわけだ。中国側はウクライナ戦争ではこれまで中立の立場を装ってきた経緯がある。中国が「会議に参加する」と決めたならば、ロシアとの関係が一挙に悪化することが予想されただけに、中国側は欠席以外の他の選択肢はなかったのが実情かもしれない。欧米の情報機関は、中国がロシアに武器などの軍事物質を支援していると指摘している。

 ちなみに、中国外務省は2023年2月24日、ウェブサイトで12項目の和平案を掲載し、両国に紛争の「政治的解決」を求めている。「和平案」という言葉は響きがいいが、実際は中国共産党政権の思想と合致している内容を「和平」という言葉でカムフラージェしているだけだ。和平案第12項目では、「一方的な制裁と圧力は問題を解決できず、新しい問題を生み出すだけだ」と明記している(「中国発『ウクライナ和平案』12項目」2023年2月25日参考)。

 クレムリンのドミトリー・ペスコフ報道官は、「中国は当初から、ロシアの参加なしではこのような首脳会談は無益だと警告してきた。ロシアなしでの平和の模索はまったく非論理的で、無意味で、時間の無駄だ」と主張した。

 ゼレンスキー大統領はスイスのサミット会議で、ロシア抜きで米国バイデン大統領、中国の習近平国家主席の参加のもと、ウクライナ側の和平案の支持を勝ち取り、プーチン大統領に圧力を行使するという青写真があったはずだ。開催前からサミット会議の成功が揺れ出してきた感はするが、「中国の欠席」はサプライズではない。

 ゼレンスキー大統領はここにきて欧米諸国だけではなく、ロシアの友好国にも接近し、ウクライナの立場に理解を得るための外交に力を入れ出している。サウジアラビアを訪問し、シンガポールで開催されたアジア安全保障会議にも参加し、キーウの和平への意向を伝えるなど、アラブ・イスラム国の支持を募っている。

 プーチン大統領は、キーウ政府と西側諸国がウクライナ東部での領土獲得を認めることを条件に、交渉する用意があることを呼びかけてきた。ロシアは2014年にクリミア半島を併合し、ウクライナの東部と南部の4地域を不法に占領している。

 一方、ゼレンスキー氏は2022年10月11日、主要7カ国先進諸国(G7)の首脳に対し、10項目から成る「平和の公式」を提唱し、クリミアを含むすべての占領地からのロシア軍の即時撤退などを要求している(「ゼレンスキー氏が愛する『平和の公式』」2023年12月15日参考)。ロシアとウクライナの和平交渉へのスタートポジションはまったく異なっているわけだ。

 ウクライナを取り巻く状況は厳しい。ロシア軍はウクライナで攻勢をかけ、武器と兵力不足のウクライナ軍は守勢に回されている。ウクライナ側の強い要請を受け、米国や英、仏、独はここにきて、「ウクライナに供与した武器をロシア領土内の軍事施設への攻撃に使用してもいい」とその姿勢をチェンジしたばかりだ。

 なお、サミット会議前に実施される欧州議会選挙(6月6日〜9日)ではウクライナ支援に懐疑的な極右政党がその勢力を伸ばすことが予想されている。そして今年11月5日に実施される米大統領選挙がある。「もしトラ」となった場合、ウクライナの最大援助国米国からの武器支援が途絶える可能性も考えられる。

 開催国スイスのメディアは「スイス政府がサミット会議開催を提案したことは国際的な評判を維持するための崇高な努力ではあるが、失敗に終わる可能性が高まっている」と、悲観的に報じ出してきた。

「汚物風船」を巡る北の戦略的曖昧さ

 贈り物をする側は相手がそれを見て喜ぶ姿を見たいという思いがある。受け手が贈り物をみて鼻をつまみ、激怒するならば、それはもはや贈り物ではなくなる。受け手が気分を害している姿を見て、送り手が喜ぶといった構図は少々病的だ。そんな贈り物には相応しくない物を入れた風船が北風に乗って南に飛んできた。それも1つ2つではなく、韓国メディアによると、先月28日から約260個の風船が飛んできたという。その一つはソウルの駐韓日本大使館が入居するビルの上にソフトランディングしたという。

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▲北朝鮮の「汚物風船」(ドイツ週刊誌ツァイトオンラインの動画からスクリーンショット)

 韓国統一省は先月31日、「大量のごみや汚物がはいった風船が先月28日から約260個、韓国領土に届いた」と発表、「今後も北から大量の風船が飛んでくる可能性がある」として警戒態勢を敷いていることを明らかにした。繰り返すが、弾道ミサイルの飛来ではない。汚物やごみの入った風船部隊の飛来に、韓国側は怒りと共に戸惑いを感じているのだ。

 北朝鮮は故金日成主席、金正日総書記、そして金正恩総書記と3代世襲の独裁国家だが、国連にも加盟している一応れっきとした国家だ。その国が隣国の韓国に向けて汚物やごみが入った風船を送り込んではしゃいでいるとしたら、北朝鮮は国家としての品位、威厳の全てを捨ててしまったことになる。韓国統一省は北朝鮮の風船を早速「汚物風船」と命名している。

 韓国聯合ニュースによると、韓国軍は31日、「北朝鮮から飛んできた風船に対しては撃墜などの措置は取らず落下した後に回収している。風船の中身が有害かどうか判断できないからだ」と指摘する一方、「必要な措置を検討しており、より強力な行動を取る準備はできている」と述べている。ただし、「どのような強力な措置か」については説明していない。まさか、対空ミサイルで迎撃するのではないだろう。韓国情報筋からは「第4次休戦協定または国際法への違反とみなされる可能性があるため、国連軍司令部はこの問題を調査している」といった情報も流れてくる。

 なお、韓国統一省は31日、「北の政権の実体と水準を自ら全世界に自白した。全体主義の抑圧統治下で塗炭の苦しみにあえぐ2600万人の住民の暮らしを先に助けるべきだ」(聯合ニュース)と指摘している。もっともな意見だ。

 当方は北風に乗って南に到来した「汚物風船」に関する解説記事をこのコラム欄で書くつもりはないが、「汚物風船」を同民族の韓国に送る北朝鮮指導者の心理状況には強い関心がある。金正恩総書記の実妹、金与正党副部長は29日、「韓国は過去、わが国と指導者を侮辱するビラなど入れた風船を送ってきた」と説明、汚物風船を「誠意の贈り物だ。今後も拾い続けなければならない」と挑発している。

 金与正副部長の発言で気になる点は、彼女が「汚物風船」について真剣にその背景を説明し、いつものように韓国側を脅迫していることだ。そこにはユーモアのかけらすら感じられない。「汚物風船」を説明する金与正副部長の精神状況は常に緊張したままだ。いつかプツーンと切れてしまうのではないかと心配になってしまう。

 北朝鮮の風船にディズニーランドで買ったおもちゃなどを入れて南に向けて飛ばせば、韓国国民は大喜びで、風船の行方を追い回すだろう。その状況を朝鮮中央通信(KCNA)がライブで報道すれば、北朝鮮の最高の宣伝となるだろうし、韓国軍が緊急体制を敷くといった事もなくなるはずだ。

 ところで、北から飛来してきたのは「汚物風船」だけではない。2022年12月26日、北朝鮮の5機の小型無人機が韓国領空に侵入するという出来事があった。北朝鮮問題といえば、核トライアド(大陸間弾道ミサイル、弾道ミサイル搭載潜水艦 、巡航ミサイル搭載戦略爆撃機の3つの核兵器)が主要テーマだったが、無人機が加わることで、北の軍事力、日韓への攻撃力は飛躍的に拡大することが予想された出来事だった(「北無人機の韓国侵入が見せた近未来」2022年12月31日参考)。

 韓国の首都ソウルに姿を現した北の無人機に対し、「なぜ撃墜しなかったのか」といった批判の声があったが、韓国関係者によると、「戦闘機は無人機の撃墜を避けた」という。その理由は「撃墜した場合、地上で民間人が犠牲になる危険性が考えられた。無人機に化学兵器が搭載されていたならば大惨事だ。そのため、韓国空軍パイロットはあえて撃墜しなかった」という。

 「汚物風船」でも同じことが懸念される。今回は北の汚物だったが、生物兵器、化学兵器、放射性ダーティ爆弾が入っていたらそれこそ一大事だ。軍事用語でいう「戦略的曖昧さ」が北側の狙いではないか。ただの「汚物風船」だが、ひょっとしたらダーティ爆弾ではないかと相手側に思わせることができれば、戦場での戦いを有利に展開出来る。これこそ立派な戦略的曖昧さだ。北から飛んできた「汚物風船」は北軍部の高等戦略かもしれない。

 ただ、出来る事ならば、次回は「汚物風船」ではなく、北の特性のおやつか食材入りの「北特産物風船」ならば大歓迎されるだろう。そうなれば、北の風船を朝鮮半島だけに限定せず、日本海を飛び越えて日本国民にもその恩恵を分け与えてほしいものだ。「北特産物風船」は岸田文雄首相の訪朝より日朝友好の上で数段効果的だろう。

ロボット軍用犬が戦場に登場する時

 オーストリアでジョギング中の女性が闘犬(Kampfhund)に襲われて死亡するという事故が生じ、国民に大きなショックを与えたが、以下の話は「闘犬」ではなく、「ロボット軍用犬」の話だ。

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▲中国のUnitree社のロボット犬(Unitree Go 2)(Unitree社の公式サイトから)

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▲Ghost Robotics 社のロボット犬(Ghost Robotics 社の公式サイトから)

 ロボット軍用犬が戦場で導入される、といったニュースが流れてきた。ロボット犬の写真が掲載されていたが、背中には機関銃が設置され、センサーで動く対象をキャッチし、銃撃できるという。SFの漫画では既に登場していたが、現実の戦場にロボット軍用犬が動員される時代圏に入ったのだ。時代がSFの世界に追いつき、ひょっとしたら追い越していくのではないか、といった一抹の不安を感じる。

 ドイツの民間ニュース専門局ntvは5月30日、「中国人民軍の軍事演習で同国の軍事産業Unitree社(ユニツリー・ロボティクス)が製造したロボット軍用犬が登場した」と報じた。

 カンボジア軍との共同軍事演習で、760人の中国人民軍兵士の中に、Unitree Robotics社製の突撃銃を装備したロボット軍用犬が参加している映像が映っていた。英紙ファイナンシャル・タイムズによると、取材した中国国営テレビ関係者に対して、兵士たちは「ロボット軍用犬は敵を発見し、射撃することができ、都市での戦闘や防衛作戦で新しい戦力となる」と豪語していたという。

 その一方、ロボット軍用犬を製造したメーカーやその会社に投資している企業関係者は異口同音に「軍事目的を支援する企業には投資していない」、「ロボット軍用犬を中国人民軍に販売していない」と説明している。Unitree社は「ロボットを中国軍に販売していないので、人民解放軍がどのようにしてわが社のロボット犬を手に入れたかは分からない」と説明している。Unitree社によると、「製品はあくまで民間用途のために製造されており、軍事目的の使用には関与していない」というのだ。

 全てのアイテムはそれを使用する側によって異なってくる。民需目的にも軍事目的にも使用できるデュアルユース・アイテムというわけだ。だから製造者は責任がもてないというわけだが、その説明は余り説得力がない。中国共産党政権下では全ては党が管理し、科学的最新技術に基づく製品は軍事目的に利用されるケースが出てくる。

 Unitreeのロボット犬は2022年に上海で初めて登場した。当時、地元の住宅建設会社がメガホンを背中に取り付け、都市の住民にアナウンスを伝えるために同ロボット犬を利用したという。それが今、中国人民軍のロボット軍用犬となって戦場に駆り出されているわけだ。ちなみに、ドイツの産業用ロボット製造大手「クーカ」が2016年、中国企業に買収されている。中国共産党政権は欧米のロボット関連技術の獲得に躍起となってきた(「輸出大国ドイツの『対中政策』の行方」2021年11月11日参考)。

 もちろん、ロボット軍用犬は中国企業の専売特許ではない。ntvによると、イスラエル国防軍(IDF)が米社「ゴーストロボティクス社(Ghost Robotics)製のロボット犬をガザ戦闘用に購入しているという。

 Ghost Roboticsのロボット犬は、登ることも泳ぐこともできる。バランスを失って倒れても、再び立ち上がることができるようにプログラムされている。また、中国のロボット犬と同様、武装させることも可能だ。Ghost Roboticsのロボット犬は2年前に初めて公開されたが、機関銃とサーマルカメラが装備され、最大1200メートル先の目標を射撃することができる。夜間や悪条件下でも人物や物体を識別できる視覚センサーを搭載しているから、爆発物も探知できる。

 イスラエル軍は現在、米国のメーカーから3台を購入して所有している。イスラエル軍はロボット犬をパレスチナ自治区ガザでのイスラム過激テロ組織「ハマス」との戦いに利用している。イスラエルの経済ポータル「Globus」によれば、米社のロボット犬は一台13万ドルだ。ちなみに、中国のUnitree社のロボット犬は一台平均2300ドルだ。

 ロボット犬の武装化については、米国内では議論を呼んでいる。ntvによると、ロボット業界で最も有名な企業の一つ、ボストンダイナミクス社(Boston Dynamics)は、全てのロボットメーカーに対して製品を武装しないよう求める請願書の署名を開始しているというが、Ghost Robotics社は請願書には署名していない。ちなみに、同社は昨年末、韓国の武器メーカーLIX Nex 1に2億4千万ドルで買収された。

 兵力不足を解決し、人的犠牲を最小限に防ぐために、無人機、ロボット兵器が今後、戦場で益々重要な役割を果たすことになるだろう。それでは、戦争で無人機、ロボット兵器が主要な戦争の武器となることで何が変わるだろうか。戦争の仕方、戦略に変化が出てくることは必至だろう(「北朝鮮無人機の韓国侵入が見せた近未来」2022年12月31日参考)。

 最後に、祖国の防衛のために戦場で戦う若きウクライナ兵士が敵国のロボット軍用犬によって射殺された場合、亡くなった兵士の名誉はどうなるだろうか、といった思いが湧いてきたことを付け足しておく。
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