ウィーン発 『コンフィデンシャル』

 ウィーンに居住する筆者が国連記者室から、ウィーンの街角から、国際政治にはじまって宗教、民族、日常の出来事までを思いつくままに書き送ります。

2016年09月

オルバン政権の情報工作の疑いも

 ハンガリーの首都ブタペスト市内で24日午後22時36分ごろ、バーや喫茶店で賑わっている繁華街で爆発事件が起き、パトロール中の警察官2人が重傷を負った。ハンガリー警察側は25日夜、記者会見で「犯行は明らかに警察官を狙ったものだが、警察官全体への攻撃か、負傷した2人の警察官を狙ったものかは不明だ」と語った。負傷した2人の警察官は、「爆発した場所を特別にパトロールしていたのではなく、通常のパトロール中だった」という。同爆発事件とテロと関連については、「捜査担当の検察庁が目下7つのシナリオを検討中で、何も断言できない」という。犯行は単独説から2人説まで流れている。

 ハンガリーのMI放送は、「市内の監視カメラには爆発場所にカバンを置いた不審な男が映っていた。自家製の爆弾の可能性があり、爆発現場には無数の釘が路上に散らばっていた」と報じている。ハンガリー議会は26日、安全問題委員会を招集し、事件の背景について協議している。

 ハンガリーでは10月2日、欧州連合(EU)の難民12万人の分担案への是非を問う国民投票が実施されるが、その数日前に爆発事件が起きただけに、さまざまな憶測が流れている。

 シリア、イラク、アフガニスタンから昨年夏、多数の難民・移民が欧州に殺到したが、ハンガリーにもバルカン・ルートから多数の難民がブタペストに入りした。ハンガリーでは国境警備隊が対セルビア国境沿いでフェンスを越えて入ろうとした難民・移民に放水する一方、催涙スプレーを使用するなど厳しい対応に出た。このニュースが流れると、欧州諸国や人権グループからハンガリー政府の対応に非難が飛び出したことはまだ記憶に新しい。


 国際人権団体「アムネステイ―・インターナショナル」(IA)は27日、ハンガリーのオルバン政権の難民政策について、「難民は殴打され、警察犬に追われるなど乱暴に扱われ、時には数カ月も拘留されるなど、難民の人権は蹂躙されている」と批判している。
 ハンガリーの新法によれば、治安関係者は不法に入国した難民に対しては即セルビアに強制送還できる権利がある。一方、公認された難民の状況も厳しく、非衛生な環境圏におかれ、医療治療も受け入れられない状況下にある。国民の間では難民への恐怖やイスラム・フォビアが広がっている。

 さて、来月2日に予定されているEUの難民分担政策の是非を問う国民投票の行方だが、国民はオルバン政権の厳格な難民政策を支持していることは間違いないものの、今年に入って難民の数も減少、また難民問題に対する国民の関心が薄まってきているため、国民投票の投票率が懸念されだしているほどだ。投票率が50%を割れば、投票は無効となり、国民投票を推進してきたオルバン政権にとって大きなダメージとなる。

 政府寄りの日刊紙「MagyarIdoek」は28日、昨年11月13日のパリのバタクラン劇場を襲撃した3人のテロリストが昨年9月9日、ブタペストのホテルに宿泊し、そこからベルギーのテロリストのサラ・アブデスラム容疑者にピックアップされ、欧州入りしたという内容の記事を掲載した。すなわち、ブタペスト駅でオーストリア、ドイツ入りを待っていた多くの難民の中にパリ同時テロ事件の実行犯がいたというわけだ。その情報源は不明だが、国民に難民、移民への嫌悪感・恐怖感を煽るのに十分な衝撃度がある。

 ブタペスト市内の爆発事件、そして今度は暴露記事。難民受け入れ政策を問う国民投票を直前にしてオルバン政権の懸命な情報工作が進行中だ、と受け取られている。

北核問題の解決チャンスはあった

 前日のコラムで創設60周年を迎えた国際原子力機関(IAEA)の核エネルギーの平和利用の歩みをは早足で紹介した。今回はIAEAの歴史の中で大きなダメージをもたらした北朝鮮の核問題について、簡単にまとめる。

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▲北朝鮮使節団と協議するIAEA査察関係者(ウィーンのIAEA本部で撮影)

 IAEAは北の核問題を解決できる機会が少なくとも1度はあった。そのチャンスを生かしきれなかったIAEAは、北が過去5回の核実験を実施するのをただ「遺憾」の思いで眺めているほかはなかった。

 IAEAと北朝鮮の間で核保障措置協定が締結されたのは1992年1月30日だ。今年で24年が経過した。1994年、米朝核合意が実現したが、ウラン濃縮開発容疑が浮上し、北は2002年12月、IAEA査察員を国外退去させ、翌年、核拡散防止条約(NPT)とIAEAから脱退。06年、6カ国協議の共同合意に基づいて、北の核施設への「初期段階の措置」が承認され、IAEAは再び北朝鮮の核施設の監視を再開したが、北は09年4月、IAEA査察官を国外追放。それ以降、IAEAは北の核関連施設へのアクセスを完全に失い、現在に至っている。

 それでは北の核問題が解決できるチャンスは“いつ”だったのか。


 90年代初め、IAEAではドイツ出身のビリー・タイス博士が北朝鮮の査察担当の課長だった。タイス氏は当時、北当局の信頼を受けて、IAEAの査察活動は順調であった。同氏は北朝鮮人民軍ヘリコプターで上空査察も許された唯一のIAEA関係者だったが、米国と連携して平壌に政治圧力を行使する政策に転換したハンス・ブリクス事務局長(当時)と対立し、結局、他の部署に左遷させられた。

 IAEAは1993年2月、北に対し「特別査察」の実施を要求したが、北は特別査察の受け入れを拒否し、その直後、NPTから脱退を表明した。それ以降、北はIAEAを「政治的に運営された機関であり、公平ではない」と批判してきた。

 タイス氏は当時、当方の取材に対し、「北は信頼を重視する。信頼を失えばもはや何もできなくなる。ブリクス事務局長は米国の要請もあって力の外交を選択してしまった」と説明していた。

 タイス氏は北の軍ヘリコプターで寧辺周辺の核関連施設を上空から査察したが、同施設周辺が地対空ミサイルで防衛されていたのを目撃している。北は当時、IAEA査察官にそこまで視察を許したわけだ。タイス氏を信頼していた北がIAEAの特別査察要求に接し、その信頼を完全に失い、対立路線に変更していったわけだ。

 思い出してほしい。ノーベル平和賞を受賞したエルバラダイ事務局長(当時)が2007年3月、核合意の早期履行のため勇んで訪朝したが、北政府高官との会談はやんわりと断られている。国際通信社からは、平壌の3月の寒さに震えるエルバラダイ氏の姿が映った写真が配信されたが、それは北のIAEAへの不信感を端的に表していた。北はエルバラダイ氏を特別査察作成者と受け取り、嫌ってきた。ノーベル賞の威力は北には通じなかったのだ。

 もちろん、IAEA査察官の一人に対する信頼で北の核計画が解決されるとは考えないが、少なくとも、北との対話路線を堅持して解決のチャンスを待つことはできたかもしれない。そのチャンスは、ろうそくの火のように、小さく、ささやかなものであったかもしれないが……。(IAEAは昨年、13年の歳月をかけて交渉してきたイランの核問題協議を国連安保常任理事国(米英仏露中)にドイツを加えた6カ国と連携して解決の道を開いた)

 故金日成主席、故金正日総書記の時代は過ぎ去り、北は3代目の金正恩党委員長時代に入った。北は核保有国の認知を目指し、もはや核計画を放棄する考えはないだろう。IAEAにとって、北朝鮮の核問題は大きな教訓として残されている。

 なお、天野之弥事務局長の3選はほぼ間違いない。天野事務局長は任期中にイランの核問題の検証を進める一方、北朝鮮の核問題解決の“第2のチャンス”を待ち続けることになるわけだ。

核エネルギーの平和利用「60年」

 国際原子力機関(IAEA)の第60回年次総会が26日、5日間の日程でウィーンの本部で開幕した。天野之弥事務局長は開会演説の中でIAEA創設60年間の歩みを紹介し、「IAEAは過去、多大の実績を挙げてきた」と強調、核エネルギーの平和利用を主要目標に掲げで創設されたIAEAの成果を紹介した。以下、IAEAの使命とその歩みを簡単にまとめた。

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▲開会の演説をする天野事務局長

 先ず、核査察協定(セーフガード)では、今年9月現在、181カ国がIAEAとの間でセーフガードを締結し、そのうち、173カ国が包括的核査察協定を発効させている。IAEAに強力な検証手段を提供する追加議定書を発効させている加盟国は現在128カ国だ。

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▲IAEA第60回年次総会の全景(2016年9月26日、IAEA年次総会会場で撮影)

 核査察協定の検証問題では昨年7月14日、国連安保常任理事国(米英仏露中)にドイツを加えた6カ国とイランとの間で続けられてきたイラン核協議が「包括的共同行動計画」で合意し、2002年以来13年間に及ぶ核協議に終止符を打ったばかりだ。IAEAは現在、イラン核計画の全容解明に向けて検証作業を続けている。

 今年1月と9月に2回の核実験を実施した北朝鮮の核問題では、天野事務局長は、「北の核実験は国連安保理決議に対する明確な違反だ」とシリアスな懸念を表明し、北に核拡散防止条約(NPT)加盟とIAEAとの核査察協定の締結を促している。

 IAEAと北朝鮮の間で核保障措置協定が締結されたのは1992年1月30日だ。今年で24年目を迎えた。1994年、米朝核合意が実現したが、ウラン濃縮開発容疑が浮上し、北は2002年12月、IAEA査察員を国外退去させ、翌年、NPTとIAEAから脱退。06年、6カ国協議の共同合意に基づいて、北の核施設への「初期段階の措置」を承認し、IAEAは再び北朝鮮の核施設の監視を再開したが、北は09年4月、IAEA査察官を国外追放。それ以降、IAEAは北の核関連施設へのアクセスを完全に失い、現在に至っている。


 一方、福島第1原発事故(2011年3月)を受け、IAEAは「原子力安全に関する行動計画」を作成し、加盟国に福島第1原発の教訓をまとめ、原発の安全性強化に乗り出している。特に、「改正版核物質防護条約」(CPPNM)は核安全とテロ対策で重要な一歩だ。今年5月、同改正版は発効した。CPPNMの採択後、発効まで11年の年月がかかったわけだ。

 IAEAは核査察協定の検証問題だけではない。核関連技術の平和利用の促進も重要な分野だ。がんで死亡する患者数は現在、エイズ、マラリア、結核で死亡した人を合わせた数より上回っている。その大部分は開発途上国の国民だ。
 そこでIAEAは開発途上国への核医療の啓蒙を訴えている。具体的には、「ガン治療のためのIAEA行動計画」(PACT)では「胸部健康グローバル・イニシャティヴ」(BHGI)と共同で開発途上国のガン医療を促進。2014年には西アフリカのシエラレオネで猛威を振るっていたエボラ出血熱(EVD)の迅速な診断を下せる逆転写ポリメラーゼ連鎖反応(RT−PCR)関連技術の利用促進を支援してきた。また、ブラジルなど中南米諸国で感染が広がるジカ熱対策では今年2月2日、ジカウイルスを媒介する蚊の繁殖を抑えるため、放射線で蚊の不妊化を進める技術(Sterile Insect Technique)の移転を明らかにしている、といった具合だ。

 IAEAが23日に発表した核エネルギーの予測では、原油価格の低下や再生可能エネルギーの広がりで核エネルギーの拡大テンポは緩やかになっているが、「核エネルギーは将来も世界的に広がっていく」(原子力エネルギー局長のミハイル・ Chudakov事務次長)と予測している。IAEAは、「人口の増加で電力需要は増加している。核エネルギーは信頼性のある安全なエネルギーであり、温室効果ガスを削減させる」としてクリーン・エネルギーとしてア核エネルギーの重要性をアピールしている。天野事務局長によると、「約30の開発途上国が原子力の導入を検討している」という。

 なお、天野事務局長は総会の開会演説の中で、「私は理事会で自身の3選出馬の意思を表明した。加盟国の支持を受けて3選を果たし、IAEAの健全なマネージメントの促進を継続していきたい」と表明した。ちなみに、IAEAでは過去、ハンス・ブリックス元事務局長は4選、通算16年間(1981〜97年)、モハメド・エルバラダイ前事務局長は3選、12年間(1997〜2009年)事務局長を務めている。

ボスニアの和平は大丈夫か

 20万人の犠牲者、200万人の難民・避難民を出した欧州戦後最大の民族紛争、ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争(1992〜95年)を終焉させたデイトン和平協定がパリで締結されて今年12月で21年目を迎えるが、ボスニアから気がかりなニュースが届いた。

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▲クロアチア系住民とイスラム系住民間を結ぶボスニアの「スタリ・モスト橋」(2005年11月、ボスニアのモスタル市で撮影)

 デートン和平協定に基づき、ボスニアはイスラム系とクロアチア系が多数を占めるボスニア連邦とセルビア系住民が支配するスルプスカ共和国の二つの構成体からなる連邦国家だが、サラエボの憲法裁判所が9月17日、セルビア側が一方的に導入した建国記念日1月9日を憲法違反とし、その撤廃を命じる判決を下した。それに対し、スルプスカ共和国のミロラド・ドディク大統領(Milorad Dodik)の呼びかけで、セルビア側は25日、憲法裁判所の判決撤回を求める住民投票を実施したのだ。

 スルプスカ共和国側の首都バ二ャ・ルカからの情報によると、投票結果(暫定)は連邦憲法裁判所の判決に反対が99・8%だったという。結果は事前に予想されたことだが、ほぼ全てのセルビア系住民が反対したわけだ。セルビア側は住民投票の結果を受け、1月9日を建国記念日とする決定を堅持する意向だ。

 住民投票の実施に対しては米国や欧州連合(EU)はセルビア側に住民投票の実施断念を要請し、最高裁判所に当たる憲法裁判所の決定を受け入れるように求めてきた。米国やEUは、住民投票が国民の民族主義を煽り、ボスニア連邦から離脱を求める運動に発展することを恐れている。

 スルプスカ共和国の住民投票に対して、セルビア人の母国、セルビア共和国も歓迎していない。EU加盟を模索しているセルビア側としてはブリュッセルが強く反対している住民投票を支持できない。スルプスカ共和国の住民が願っている母国セルビアへの併合はボスニア紛争再発の危険性が出てくる。EU接近、国民経済の復興に全力を投入しなければならない時だけに、ボスニアの民族紛争に介入する余裕はない、というのがベオグラード政府の考えだからだ。

 「ウィーン国際比較経済研究所」(WIIW)の上級エコノミスト、ウラジミール・グリゴロフ氏は、「ボスニア紛争後の過去20年は残念ながらサクセス・ストーリーではなかった。民族紛争によって大部分の産業インフラは破壊され、多くの国民は国外に逃げていった。失業率は現在30%に近い。特に、青年の失業率は50%にもなる。政治的、社会的不安定なボスニアに投資する欧米企業は少なく、過去20年間でボスニアに流れ込んだ資金は海外出稼ぎ組の送金と国際社会からの経済支援だ」という。

 なお、グリゴロフ氏は、「スルプスカ共和国では母国セルビアへの併合を要求する声が聞かれるが、“ロシアがウクライナのクリミア半島を併合したように、セルビアがスルプスカ共和国を併合する”というシナリオは非現実的だ」とみている。

“奇跡”はどのようにして作られるか

 “貧者の聖人”と呼ばれた修道女マザー・テレサは9月4日、列聖された。テレサ自身が聖人入りを願っていたかは分からないが、南米出身のローマ法王フランシスコは世界的に著名な修道女を列聖したばかりだ。喩えれば、列聖入りは米大リーグでいえば、殿堂入りを意味するもので、神に仕える者が願うことができる最高の立場だろう。

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▲イタリアのベルガモのヨハネ23世博物館(2013年9月26日、ヨハネ23世博物館で撮影)

 ちなみに、聖人の前段階には福者と呼ばれる立場がある。列福された人物が列聖へ進む。そして福者や聖人になるためには各段階で2件の奇跡(ヨハネ23世の場合、フランシスコ法王が奇跡調査を免除)が実証されなければならない。バチカンはそのために奇跡を検証する委員会を設置し、数年間をかけて調査する。そのハードルをクリアした人物だけが、福者、聖人クラブ入りできるわけだ。

 ところで、バチカンとはいえ、生の人間が調査するわけだから、その福者、聖人手続きプロセスでさまざまな不明瞭なことが生じることがあるし、過去、実際あった。例えば、奇跡を調査する医療関係者への謝礼から、奇跡の証人の信ぴょう性まで、不審な点が囁かれたことがある。
 そこでバチカンは23日、新しい奇跡調査に関する規約を作成し、このほど公表した。ローマ法王フランシスコのバチカン改革の一つといえる。奇跡鑑定でこれまで曖昧だった点を明確にする一方、その手続きプロセスの透明化を促進する狙いからだ。

 奇跡の認知に関するこれまでの規約は1976年版で、1983年一部改正して今日に至る。列聖省次官のマルチェッロ・バルトルッチ大司教は「40年前の規約であるから、今日に適応できない点もある。そのため、2、3の改正が不可欠となった。改正の焦点は奇跡に対する疑惑を払拭する処置の強化だ」と説明している。

 カトリック教会には奇跡が常に必要だ。亡くなった信仰の模範者への崇拝が消滅しないようにするため、バチカンは列福と列聖の手続きを実施するわけだ。そこで関係者が高い徳の持ち主であり、その人への崇拝心は合法的であることを確かめることになる。その証拠として関係者が行ったといわれる奇跡が出てくる。バルトルッチ大司教によると、聖性に関する人間的な評価を検証する“神の指針”というわけだ。

 中世時代は奇跡的な出来事だけで、その人の名誉を高めることで十分だった。しかし、12世紀、13世紀に入ると、奇跡の検査手続きが行われ出した。ミラノ大司教カルロ・ボッロメーオ の列聖(1610年)の場合、医学者による検証が初めて行われた。1743年のバチカン公文書の中には、医学専門家評議会が常設委員会として初めて登場している。

 1917年の教会法には超自然な出来事を奇跡と認定する神学的な評価は科学的な検証後に行うと明記されている。この内容は今日まで適応されてきた。自然科学者は事実を語り、その意味解きは神学の課題となった。

 23日に公表された新しい鑑定委員会の規約は鑑定の公正さの強化だ。焦点は奇跡の中でも最も多い“説明できない病の治癒”現象に対してその真偽を検証する固有の専門家委員会の設置だ。医学鑑定者の任期5年間、バチカン列聖省長官によって任命される。そのメンバーの再選は一度だけに限定する。

 専門家の課題は自称説明できない治癒について科学的鑑定を作成し、疑問や批判点について説明する。鑑定のやり方は、2人の専門家が独立して調査し、その奇跡が医学の常識や経験と一致していないと判断された場合、7人、少なくとも6人の医学者で討議する。そして5人、ないしは4人の専門家が「この治癒は説明できない現象だ」という結論になった場合、次は神学が介入する。

 逆に、最初の2人の鑑定家が「そうではない」と判断した場合、第3の鑑定人が調査し、同じ意見だった場合、その列福、列聖手続きは停止される。ただし、鑑定家の意見が割れた場合、列聖省は別の鑑定家に依頼できる。奇跡の検証には通算3回の鑑定チャンスがあるが、それ以上はない。

 バチカンは列福、列聖プロセスに関わる医学者や関係者に影響を行使してはならない。関係者への接触は禁止されている。新たな関連文書の提示は列聖省事務局を通じてしか許されない。最後に、鑑定人への謝礼の支払いは将来、銀行口座を通じてしかできない。現金の譲渡は禁止される。

 以上、オーストリアのカトリック通信(カトプレス)を参考にして紹介した。

 バチカン列聖省は、「40年前の規約は現代に合致しない面も出てきた」として、新しい規約を作成したわけだが、少し穿った見方をすれば、ローマ法王ヨハネ・パウロ2世(在位1978〜2005年)、ヨハネ23世(在位1958年10月〜63年6月)、そしてマザー・テレサなど教会の著名な人物の列聖が終了した後に今回の新規約が公表されたが、どうして“その前”ではなかったか、という点が疑問として残る。特に、27年間、近代法王として最長の在位期間を誇ったヨハネ・パウロ2世の列聖がその死後9年という最短期間で完了したが、なぜ、急がなければならなかったかという点だ(「4人のローマ法王と『列聖式』」2014年4月22日参考)。

 バチカン側は「鑑定人への謝礼が銀行払いに一括された」という点をあたかも些細な改正に過ぎないというばかりに最後に付け足して説明していたが、ひょっとしたら、この点はバチカンの列福、列聖プロセスで常に大きな問題だったのではないだろうか。

 いずれにしても、バルトルッチ列聖省次官が言うように、「カトリック教会は奇跡が必要であり、福者、聖人が不可欠だ」という点は間違いないだろう(「『聖人』と奇跡を願う人々」2013年10月2日参考)。

オバマ大統領の称賛は有難迷惑だ!

 オバマ米大統領はニューヨークで開催された国連総会で欧州の難民問題に言及し、ドイツ、カナダ、オーストラリア、オランダと共にオーストリアの名前を挙げ、昨年シリア・イラクなど中東からの難民を積極的に受け入れてきたと称賛した。

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▲国連総会で演説するクルツ外相=2016年9月19日、NYの国連総会で(オーストリア外務省の公式サイトから)

 世界大国の米国の大統領から称賛を受けるということはアルプスの小国オーストリアにとってめったにないことであり、本来は光栄だ。実際、同国日刊紙はさっそくNY電で大きく報道していた。

 例えば、経済大国・日本も米大統領の評価はその時の政権に大きな影響を及ぼす。日本では昔、“ワシントン詣で”と呼ばれ、時の為政者は政権発足直後、米国を訪ね、米大統領と会見することが慣例となっていた。日米関係は今日、対等なパートナー関係だが、それでもワシントンの反応は今も時の政治を左右する影響を有している。

 ところが今回のオバマ大統領の称賛はオーストリアの場合はそうではないのだ。ニューヨーク入りしていたオーストリアのクルツ外相は国内のラジオ・インタビューの中で、「わが国は昨年、多くの難民の収容を強いられたが、これは理想ではないし、今年は昨年のような事態の再現は回避しなければならない」と強調し、一方的な難民受け入れは考えられないという姿勢を主張し、オバマ大統領の称賛に対し、“有難迷惑”であることを示唆したのだ。

 クルツ外相が心配する点は、難民歓迎政策を支持している国内の野党「緑の党」や与党社会民主党の一部がオバマ大統領の称賛を政治的に悪用して、社民党・国民党連立政権が主導している厳格な難民政策に支障が生じることだ。

 オバマ大統領は、小国のオーストリアが、紛争地から逃れてきた難民を人道主義的な立場から受け入れているという視点から、「その難民政策は他国の模範となる」と述べたのだろうが、オーストリア国内の現状、難民・移民の増加に対する国民の反発などについての情報がよく伝わっていないのだろう。
 オーストリアでは難民・移民に対する批判や不満の声は急速に拡大している。それを受け、「オーストリア・ファースト」を標榜する極右派政党「自由党」が選挙の度に得票率を拡大している。同国で実施中の大統領選では自由党候補者が当選する可能性すら予想されている。そのような政情下のオーストリアの難民政策を称賛することは政変を煽るようなものだ、という判断がクルツ外相にはあるわけだ。
 
 クルツ外相は、「米国は中東からの難民受け入れを実施していない」と述べ、わが国の難民政策を称賛することより、米国の難民政策を考えるべきだといいたいのだろう。シリア、イラク、アフガニスタンからの難民殺到をもたらしたのは米国の軍事介入の結果ともいえるからだ。

 欧州で難民歓迎政策を継続しているのはもはやローマ・カトリック教会総本山のバチカン市国だけだ。フランシスコ法王は、「紛争地から逃げてきた難民を受け入れるべきだ」という姿勢で一貫している。だから、フランシスコ法王はドイツのメルケル首相を称賛し、その歓迎政策を支援してきた経緯がある。そのメルケル首相も19日、自身が推進してきた難民ウエルカム政策の間違いを認め、修正を余儀なくされたばかりだ。

 ちなみに、オーストリアは冷戦時代、旧ソ連・東欧諸国から逃れてきた政治難民(総数約200万人)を収容し、“難民収容所国家”という称号を与えられたほどだ。その国が今日、西欧諸国では最も厳格な難民政策を実施してきているのだ。

「神の召命したジャーナリズム」とは

 AI(人工知能)の登場や職場のデジタル化で人が汗を流しながら仕事をする職場は次第に減少してきたが、大多数の人はその人生の多くの時間を仕事に投入している。その時間が喜びで溢れているのなら、その人の人生は祝福されている。逆に、強いられた、好ましくない時間となるならば、その人の人生は辛いかもしれない。その意味で、どの仕事に就くか、職業を選択するかは人生にとって非常に重要なテーマだ。誰もが自分に適した職場で働きたいと願う。

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▲「イタリアのジャーナリスト協会のメンバーを迎えるフランシスコ法王」(バチカンの日刊紙「オッセルバトーレ・ロマーノ」から)

 ところで、世界最大のキリスト教宗派、ローマ・カトリック教会のローマ法王フランシスコは22日、「イタリア・ジャーナリスト協会」の約400人のメンバーを招き、「神の召命したジャーナリズム」について語った。その内容を紹介する。

 「真理を愛し、人間の尊厳を重視する責任感のあるジャーナリズムが願われる。言葉は人を殺すこともできる。ジャーナリズムは殺害武器であってはならない。うわさ話や風評を広げることはテロリズムのやり方だ。プリント・メディア、テレビ・メディアはデジタル・メディアの台頭でその影響力を失ってきたが、人々の生活と自由で多様性のある社会にとって依然、大切だ」
 「ジャーナリストほど社会に大きな影響力を有する職業はない。それ故に、大きな責任を担っている。ジャーナリズムは、人間社会の発展と真の市民社会構築に貢献することが願われる。その召命を受けた人たちは民主社会の番人のような立場だ。ジャーナリズムは真理を愛し、その仕事を通じて真理の証人とならなければならない。自身が信者であるかどうかは問題ではない。真理に忠実であり、自主独立したレポートはそれだけ価値がある。ジャーナリストは政治的、経済的な利益に屈してはならない。全ての独裁者はメディアを自身の管理下に従わそうとすることを我々は知っている」

 そのうえで、「ジャーナリストが批判し、問題点を糾弾することは合法的だ。ただし、メディアは今日、相手を批判し、翌日は別の問題を扱うが、メディアに不法に批判され、中傷された人は永遠にそのダメージを抱えることになる。ジャーナリズムの職業では人間の尊厳を重視することが非常に大切だ。なぜならば、記事の背後には、関係者の人生がかかっているからだ。相手の人生とその感情を大切にしなければならない」と警告する。

 そして、難民問題にも言及し、「難民に対する不安を煽るべきではない。彼らは飢餓と戦争から逃避を強いられてきた人々だ。言葉で対立や分断を煽るのではなく、文化の出会い、和解を促進することに貢献すべきだ」と述べている。

 フランシスコ法王は「神の召命したジャーナリズム」を主張し、その使命感と責任を求めているわけだ。もちろん、ジャーナリズムも数ある職業の一つだが、社会への影響力を考えれば、それに就く人々の責任と役割はやはり大きい。

 英国の思想家、ジョン・アクトン卿は、「権力は腐敗する、絶対的権力は徹底的に腐敗する」といったが、“第4権力”と呼ばれるジャーナリズムの腐敗は国家、社会に計り知れない悪害をもたらす。朝日新聞の慰安婦報道はその代表的な例かもしれない。フランシスコ法王のメッセージはジャーナリズムの世界に生きる当方も肝に銘じなければならない内容だ。

トランプ氏はレーガンにあらず

 米共和党出身のジョージ・H・W・ブッシュ元大統領(92)は11月の米大統領選では共和党大統領候補者のドナルド・トランプ氏(70)ではなく、ライバルの民主党大統領選候補者ヒラリー・クリントン女史(68)に投票すると表明したという。

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▲ロナルド・レーガン大統領(米連邦政府の公式肖像1981年から)

 様々な理由があるだろうが、この発言はトランプ氏には心穏やかではなかったであろう。クリントン女史の健康問題が再浮上し、トランプ氏は支持率で追い上げてきた矢先だ。その時、身内から反逆の声が上がったのだ。もちろん、ブッシュ元大統領が初めてではない。多くの著名な共和党員がトランプ氏に距離を置いてきている。

 ブッシュ元大統領のクリントン支持のニュースが報じられた直後、大西洋を渡った欧州のチェコのミロシュ・ゼマン大統領(71)が20日付Dnes電子版で、「自分が米国民だったら、トランプ氏に投票する」と述べたというのだ。“捨てる神あれば拾う神あり”といったところかもしれない。トランプ氏は喜び、笑みをもらしたかもしれない。ゼマン大統領は(チェコの)現職大統領だが、ブッシュ元大統領のように米国籍を有していないから、もちろん投票権はない。

 ゼマン大統領は、「クリントン女史はオバマ政権の継続を意味するだけだ。そのオバマという名前は多くの失政を繰り返したダメ大統領のイメージだが、トランプ氏はロナルド・レーガン元大統領(任期1981〜89年)のイメージと重なる。レーガン氏も大統領候補者となった時、馬鹿な俳優と酷評されていたが、レーガン氏は後日、歴代最高の米大統領という称号を得た」と述べている。同大統領のトランプ支持にはそれなりの理由があるわけだ。

 ところで、ゼマン大統領のトランプ氏称賛は東欧諸国の政治家では初めてではない。ハンガリーのオルバン首相に次いで2番目だ。難民政策ではポーランド、チェコ、スロバキア、そしてハンガリーのヴィシェグラード・グループ(V4)首脳はほぼ一致している。すなわち、難民・移民政策では、メキシコからの移民殺到の阻止を主張するトランプ氏と同一路線だ。意気投合するのも当然かもしれない。

 東欧国民は一般的に親米派が多数を占める。共産党政権から解放し、民主化を支援してくれた米国への感謝があるからだ。それだけに、レーガン、ブッシュ時代(任期1989〜93年)の“強い米国”への思いが強い。しかし、オバマ政権の8年間の外交路線は彼らの米国への期待感を懐疑心に変えていった。その一方、ロシアのプーチン大統領の“強いロシア”の台頭に大きな脅威を感じてきている。東欧の為政者の中にはロシアへ傾斜する動きもみられる。東欧周辺の状況が冷戦時代の再現を思わせる兆候が見られるだけに、トランプ氏の登場はゼマン大統領をしてレーガン大統領の再現か、と勘違いさせてしまったわけた。

 参考までに、レーガンとトランプの間の決定的違いは、レーガン氏はカルフォルニア州知事など政治経験を有していたが、トランプ氏は実業界出身で現実の政治にはタッチしてこなかったことだ。それだけに、トランプ氏の発言は既成の政界から批判を受けるケースが多く、その実行性に疑問符がつけられるわけだ。両者もスピーチでメディアの関心を引くが、前者は演説の名手として、後者は暴言と虚言でといった違いはある。

 いずれにしても、米国民は不幸だ。なぜならば、クリントン女史とトランプ氏のどちらかを新しい大統領として選出しなければならないからだ。

新たな「民族の大移動」が始まった!

  私たちは大きな勘違いをしているのかもしれない。彼らは一時的な難民殺到ではなく、欧州全土を再び塗り替えるかもしれない人類の大移動の始めではないだろうか。以下、その説明だ。

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▲記者会見で難民政策の修正を発表するメルケル独首相(2016年9月19日、CDUの公式サイトから)

 メルケル独首相は19日、ベルリン市議会選の敗北を受け、記者会見で自身が進めてきた難民歓迎政策に問題があったことを初めて認め、「今後は『我々はできる』(Wir schaffen das)といった言葉を使用しない」と述べた。この発言は「難民ウエルカム政策」を推進してきたメルケル首相の政治的敗北宣言と受け取ることができるが、来年実施される連邦議会選への戦略的変更と考えることもできる。賢明なメルケル首相のことだから、当方は後者と受け取っている。

 メルケル首相は昨年9月、「我々はできる」という言葉を発したが、それがメディアによって同首相の難民政策のキャッチフレーズのように報道されてきた。メルケル首相自身は、「自分は難民政策のキャッチフレーズとして恣意的に発言したことはない」と弁明している。

 今月実施されたドイツ北東部の旧東独の州メクレンブルク・フォアポンメルン州議会選とベルリン市議会選の2度の選挙で与党「キリスト教民主同盟」(CDU)は大きく得票率を失ったが、その敗北の最大理由がメルケル首相の難民歓迎政策にあったことは誰の目にも明らかだ。メルメル首相も19日の記者会見でその点を認めている。

 しかし、注目すべき点は、同首相は難民受け入れの最上限設定については依然拒否していることだ。首相が頑固だからではないだろう。難民受け入れで最上限を設定しないことはひょっとしたら正しいのかもしれない。なぜならば、どの国が「受け入れ難民数を事前に設定し、それを死守できるか」という点だ。堅持できない約束はしないほうがいい。

 例えば、オーストリアはファイマン政権時代の1月20日、収容する難民の最上限数を3万7500人と設定した。参考までに、17年は3万5000人、18年3万人、そして19年は2万5000人と最上限を下降設定している。すなわち、今後4年間、合計12万7500人の難民を受け入れることにしたわけだ。同国は昨年、約9万人の難民を受け入れている。そして今年9月現在、最上限をオーバーする気配だ。そのため「最上限を超える難民が殺到した場合、どのように対応するか」が大きな政治課題となっている。すなわち、難民受け入れ数の最上限設定の背後には、「殺到する難民を制御し、必要に応じてその上限をコントロールできる」といった自惚れた考えがその根底にある。

 現代の代表的思想家、ポーランド出身の社会学者で英リーズ大学、ワルシャワ大学の名誉教授、ジグムント・バウマン氏は、「移民(Immigration)と人々の移動(Migration)とは違う。前者は計画をたて、制御できるが、後者は津波のような自然現象で誰も制御できない。政治家は頻繁に両者を混同している」と指摘している。

 ここで問題が浮かび上がる。欧州が現在直面している難民、移民の殺到はMigrationではないか、という懸念だ。そうとすれば、欧州はトルコやギリシャに難民監視所を設置し、殺到する難民を制御しようとしても、制御しきれない状況が生じるだろう、という懸念だ。
 
 欧州では3世紀から7世紀にかけて多数の民族が移動してきた。これによって古代は終わり、中世が始まったと言われる。ゲルマン人の大移動やノルマン人の大移動が起きた。その原因として、人口爆発、食糧不足、気候問題などが考えられているが、不明な点もまだ多い。民族の移動はその後も起きている。スペインではユダヤ人が強制的に移動させられている。

 ジュネーブ難民条約によれば、政治的、宗教的な迫害から逃れてきた人々が難民として認知される一方、経済的恩恵を求める移民は経済難民として扱われる。ところで、視点を変えてみれば、21世紀の今日、“貧しい国々”から“豊かな世界”へ人類の移動が始まっているのかもしれない。換言すれば、北アフリカ・中東地域、中央アジアから欧州への民族移動はその一部に過ぎない。この場合、政府が最上限を設定したとしても彼らの移動を阻止できない。

 ドイツで昨年、シリア、イラクから100万人を超える難民が殺到したが、大多数の彼らはジュネーブ難民条約に該当する難民ではなく、豊かさを求めてきた人々の移動と受け取るべきだろう。繰り返すが、制御できない民族の大移動は既に始まっているのかもしれない。

遊牧民べドウィンが示す「終末」の時

 当方は今年2月、駐独のシトナ・アブダラ・オスマン南スーダン大使と会見したが、インタビューを調整してくれたウィーンの「国連ジャーナリスト協会」(UNCAV)会長、アブドラ・シェリフ記者と国連記者室で会ったので、「少々、がっかりしているよ」と当方の思いを伝えた。何のことかというと、南スーダンの現状がインタビューした南スーダン大使が会見で述べた内容とは正反対の方向に流れてきているからだ。大使が強調した政府側と反政府間の和解の動きは暗礁に乗り上げているのだ(「駐独の南スーダン大使に聞く」2016年2月25日参考)。

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▲映画「アラビアのロレンス」のポスター

 「大使は紛争勢力間との統合政権の発足が近いと述べていたが、君も知っているように、現状は再び紛争状況だ。正直言ってがっかりしているよ」といった。それを聞いたシェリフ記者は、「僕も同じだよ。多くの国民が犠牲となっているからね」という。
 「今回も部族間紛争の再熱だ。国民の中には昔のスーダン時代を懐かしく思いだす者が出てきている」という。同記者によると、「スーダン時代の問題は国政上のテーマが主だったが、南北分断後は部族間闘争だ。昔も部族間のいがみ合いはあったが、国政上の対立点の影で部族間闘争は台頭することはなかった」という。

 同記者を糾弾しても南スーダンの現状は彼の責任ではない。そこでテーマを変えて話を続けた。イスラム教過激派テロ組織「イスラム国」(IS)が欧州のイスラム教徒をオルグする背後には、強い終末観があるからだといわれている。そこで聞いてみた。
 敬虔なイスラム教徒のシェリフ記者は、「イスラム教にも終末観の強いグループは存在するがそれは一部に過ぎない。イスラム教徒の終末観といえば、アラブの遊牧民族、ベドウィンが放浪生活を終え、定着して建物を建て出したら、終わりの日が近い兆候だと受け取られていることだ。べドウィン民族のアラブ諸国では現在、高い建物(高層ビル)が無数、砂漠に立っている。その現象を見れば、終末が近い兆候といえかもしれないね」という。ちなみに、世界で最も知られたべドウィンは映画「アラビアのロレンス」の主人公だろう。

 ユダヤ教では、ディアスポラだったユダヤ民族が再び国家を建設する日が終末の到来と受け取られている。すなわち、1948年5月14日のイスラエル建国の日から終末が始まったというわけだ。
 キリスト教の場合にも多くの終末観があるが、最大のキリスト教派、ローマ・カトリック教会では終末観はあまり強調されない。むしろ好まない傾向が強い。ただし、新しいキリスト教グループでは終末観が信者を鼓舞する大きな魅力となっている。

 シェリフ記者は、「イスラム教の場合はあくまで終末の“兆候”というだけで、終わりの日の到来を意味しない。兆候だから、実際の終末は数百年後到来するかもしれないし、もっと長いかもしれない。いずれにしても人知では計り知れないというわけだ」という。

 聖書にも終わりの日がいつかは明記されていないが、その一方、「無花果の木からこの譬を学びなさい。その枝が柔らかにあり、葉が出るようになると、夏の近いことがわかる」(「マタイによる福音書」24章32節)と述べ、目を覚ましていなければならないと警告を発している。

 シェリフ記者は、「南スーダンの和平実現の日も終末の日と同じだね。誰も分からない」と言って苦笑いした。
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