ウィーン発 『コンフィデンシャル』

 ウィーンに居住する筆者が国連記者室から、ウィーンの街角から、国際政治にはじまって宗教、民族、日常の出来事までを思いつくままに書き送ります。

2015年06月

産業拠点が会社・工場から「家庭」に

 アルプスの小国オーストリアでは16歳で選挙権がある。すなわち、16歳になれば、一人前の大人と見なされるわけだ。14歳になれば早い子供は技術教育を受けて職人の道に入る。ギムナジウムに通い将来大学に進学する数は最近、増えてきているが、その割合は日本と比べれば少ない。(「『16歳の選挙権』を問う」2007年5月18日参考)。
 要するに、オーストリアを含む欧州では早い段階で乳離れをして、家庭から出ていく子供たちが多い。もちろん、イタリアなど少数の国では30歳になっても両親のうちに留まり続ける者も少なくないが、経済的理由もある。

 家庭から出ていくということは、親の庇護から離れることを意味する。親も出ていく子供を引き留めることは基本的にしない。クリスマスや記念日などには家に集まる。特に、クリスマスは全ての家族が親の家に戻ってくる時だ。

 就職すると、会社や工場に通う。そこは家庭とは全く違ったルールと目的のもとに機能している。工場では生産の為に歯車のように働く者もいる。会社では上司の指令の元に多くの書類を整理したりする。家庭をもった者は朝、食事を済ますと会社や工場に出かける。生産場所が会社であり、工場だからだ。
 この産業構造は久しく続いてきたが、コンピューターが発達し、家でも仕事ができるようになってきた。すなわち、職場が会社や工場から再び家庭に戻りつつある。特定の産業分野ではそれは既に現実化している。

 米未来学者アルビン・トフラー(Alvin Toffler)は、「新しい生産方式は、工場やオフィスに集中した何百万という職場を再びそれ以外の場所へ戻そうとしているのである。つまり家庭が仕事の場になるのだ」と言っている。トフラーが主張する第3の波の「脱産業社会」の到来だ。彼は「生産消費者」なる造語を作り出している。

 子供は大きくなり、「家庭」から出て行き、結婚して新たに「家庭」をつくり、社会の産業拠点である会社や工場に通う。しかし、近い将来、人々は会社や工場に通わず、「家庭」が職場となり、生産活動に参加する。もちろん、職種によっては「家庭」が直接、生産拠点とはならないが、時間の経過と共に、その方向に発展していくのは間違いないというわけだ。

 まとめる。「家庭」が成長拠点だけに留まらず、情報革命にとって生産拠点となっていくという未来像だ。トフラーの考えはとても啓蒙的だ。単なる生産拠点の変動ではなく、 人生の生活サークルが「家庭」から始まり、一旦外に出た後、再び「家庭」に戻ってくるというわけだ。

 マザー・テレサは、「世界のために何ができるかですって?、家に帰って家族を愛しなさい」と語り、「愛は家庭に住んでいる」と述べている。テレサの言葉はㇳフラーの未来像にも通じる。「家庭」は愛の実践の場所としてだけではなく、価値あるものを生産する拠点ともなっていくからだ。

難民・避難民と神の「約束の地」

 20日は「世界難民の日」」(World Refugee Day)だ。ローマ・カトリック教会のフランシスコ法王は17日、一般謁見の場で武力紛争地からの難民の保護と共に、難民が生まれる原因の解明とその対策を訴えた。ローマ法王は、「故郷を追われ、新しい住む地を探す兄弟姉妹が不安なく生活できますように祈ろう」と呼び掛けている。

 ジュネーブに本部を置く国連難民高等弁務官事務所(UNHCR)は9日、今年に入って地中海を超えて欧州諸国に渡った難民数は同日現在10万3000人に達したと発表した。そのうち、イタリアが最も多く、5万4000人、そしてギリシャの4万8000人という。UNHCRによると、昨年末の時点で難民、避難民の総数が5950万人だったという。

 欧州諸国は、海路や陸路を通じて欧州の地に殺到する難民の収容に腐心し、難民の公平な受け入れ枠を検討しているが、積極的に難民を受け入れる国はないのが現実だ。

 以下、2、3の欧州の難民事情を紹介する。

 先ず、オーストリアでは各州の難民収容所は既に超満員。そこで収容所内の空地にテントを設置して難民たちを収容しているほどだ。冷戦時代、旧ソ連・東邦諸国からの難民収容所だったニーダーエステライヒ州のトライスキルヒェン難民収容所では、収容しきれない400人以上の難民がテント生活を強いられている。

 「難民がテント生活」というニュースが流れると、野党「緑の党」から「難民の人権を傷つける。早急にテントを回収し、収容所に移すべきだ」という声が飛び出した。ローマ・カトリック教会の慈善組織「カリタス」関係者も、「雨が降ればテント生活では濡れてしまう」と指摘、早急に収容所を探すべきだと主張。それに対し、ヨハナ・ミクルライトナー内相は、「緊急処置だ。難民が収容できる場所が見つかればテントは回収する」と説明。国防省は4カ所の兵舎を新たに難民収容所に提供する意向だ。

 隣国ハンガリーではセルビア経由で殺到する難民対策のため対セルビア国境線に高さ4メートルの塀を作る計画が進行中だ。同国ではシリア、イラク、アフガニスタンなどの紛争地から多数の難民がセルビア経由でハンガリー入りし、これまで4万5000人が難民申請をしたという。ちなみに、ハンガリーでは昨年4万3000人の難民がハンガリー入りした。2012年はその数は約2000人に過ぎなかった。

 2011年のシリア内戦勃発以来、ブルガリアでは陸続きで欧州入りを目指す難民たちがトルコ経由で殺到している。それを防ぐため、ブルガリア政府は13年、トルコ国境線沿いに30キロメートルの鉄条網を建設したが、それでは十分でないとして、ハンガリーと同様に、鉄条網をトルコ国境線全160キロに拡大する計画という(「21世紀の“招かれざる客”と『壁』」2015年5月9日参考)。


 難民の中には欧州でよりよい生活を夢見る経済難民も多く、人身売買グループに大金を払ってきた難民もいる。一方、欧州諸国も金融危機以来、国内経済は低迷、失業者は増加し、その対策に追われている。だから、難民への人道的支援と具体的な収容能力の間で苦悩する国が少なくないわけだ。ここにきて、「経済難民と判明すれば、即送還すべきだ」という声が高まってきている。

 エジプトから出国したユダヤ民族は、“乳と密の流れる神の約束の地カナン”を目指して荒野の流浪の日々を過ごした。そして民族が待ち望んできた救世主イエス・キリストが2000年前降臨したが、彼を十字架にかけてしまった。その後、ユダヤ民族は再びディアスポラ(離散)となって世界に散らばっていった。一方、中東・北アフリカの紛争から逃れ、避難する21世紀の難民たちは、より安全で、より豊かな欧州の地を目指す。迎える側の欧州の国民は、「われわれのボートはもはやいっぱいだ」と叫ぶが、難民の耳には届かず、彼らは欧州の地が安全で豊かだと信じている。欧州の地が彼らの“神の約束の地”ではない、と分かっていてもだ。

統一教会を「宗教団体」に公認

 オーストリア通信(APA)は16日、「ムーン運動で知られている通称・統一教会(世界基督教統一神霊協会)は国家に登録された『宗教団体』となった」と速報した。オーストリア連邦首相府文化局の責任者オリバー・ヘンハぺル氏(Oliver Henhapel)はAPA通信の問い合わせに応えたもの。

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▲ウィーンの国連でスピーチする韓鶴子夫人(2015年5月11日、ウィーン国連で撮影)

 1998年からスタートした「宗教信仰団体」への登録は「公認宗教法人」への前段階で、オーストリアでは今回の統一教会を含め8団体がそのステータスを有する。同資格条件は少なくとも300人以上の会員を擁し、宗教的団体として独自の教義を有していることだ。統一教会は昨年8月、文化局に申請した。

 オーストリア連邦首相府文化局の今回の決定に対し、グラーツの著名な憲法学者クリスチャン・ブルンナー氏は、「多様性を容認することは法治国家の基本だ。信仰の自由が保障されたことは、民主主義が機能していることを実証したことになる」と評価した。APA通信とのインタビューの中で語っている。
 オーストリアは欧州ではスペイン、ポルトガルなどと共にローマ・カトリック教国だ。同国では統一教会は久しく“セクト”として中傷されてきたが、連邦首相府文化局が宗教団体として公認したことから、今後は同教会をセクト呼ばわりすることはできなくなる。
 統一教会の「宗教信仰団体公認」ニュースは、同国のローマ・カトリック教会系通信社「カトプレス通信」も16日、APA通信の記事を掲載しながら、大きく報道した。

 統一教会といえば、合同結婚式で有名だが、オーストリアの統一教会ペーター・ツェ―ラー会長は、「統一教会は合同結婚式を通じて国際社会の和解と文化の多様性を訴えてきた。家庭の価値は社会の福祉と世界の平和の鍵を握っている」と説明している。

 APA通信は統一教会の歴史を紹介し、現在の最高指導者が2012年に死去した創設者・文鮮明師の夫人・韓鶴子女史であること、故文鮮明師が現在の北朝鮮で出生し、1954年に統一教会を創設し、独自の神学を確立したこと、1996年には「世界平和統一家庭連合」が創設されたことなどをかなり詳細に紹介している。
 
 なお、欧州で統一教会がスタートして今年で50年目を迎えたことから、オーストリアのウィーンで先月10日、韓鶴子女史を迎え、「欧州統一運動50周年」記念集会が国際会議場オーストリア・センターで開催されたばかりだ。主催者側の発表によると、欧州35カ国から統一運動のメンバーたち約2500人が参加した。会場には、統一運動を支持する“平和大使”の政治家、大学教授らも同席した。ちなみに、韓鶴子女史は翌日の11日、ウィーンの国連で世界の平和と国連の役割に関してスピーチを行っている。

国際都市ウィーンの地盤が沈下?

 音楽の都ウィーンはベートーベン、シューベルト、モーツァルトなど大作曲家の足跡が残る街だが、同時に、国連を含む様々な国際機関の本部がある国際都市だ。イランや北朝鮮の核問題を監視する国際原子力機関(IAEA)、国連工業開発機関(UNIDO)、包括的核実験禁止条約機関(CTBTO)、国連薬物犯罪事務所(UNODC)などの国連本部や事務所がある一方、石油輸出国機構(OPEC)や欧州安全保障協力機構(OSCE)など30を超える国際機関がある。変わったところでは、北朝鮮主導の国際テコンドー連盟(ITF)の本部がウィーン郊外にある、といった具合だ。

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▲ウィーンの国連機関の正面入口(2013年4月撮影)

 その国際都市ウィーン市の地盤が揺れ出した最初の出来事は、OPECの引っ越し時だ。OPECは当時、ドナウ水路沿いにあった古い事務所から広く、近代的な事務所を探していた。その時、カタールなどがOPEC事務所の誘致に乗り出してきたという噂が流れたのだ。オーストリア外務省は大慌てとなり、OPECの新事務所の家賃をダダにするなど好条件を提示し、OPEC加盟国を説得することに成功した経緯がある。

 最近では、「宗教・文化対話促進の国際センター」(KAICIID)騒動がある。同国際センターは2013年11月26日、サウジのアブドラ国王の提唱に基づき設立された機関で、キリスト教、イスラム教、仏教、ユダヤ教、ヒンズー教の世界5大宗教の代表を中心に、他の宗教、非政府機関代表たちが集まり、相互の理解促進や紛争解決のために話し合う世界的なフォーラムだ。その機関がサウジの宗教弾圧に対しては黙認しているとして、メディアやオーストリア政府から批判が出てきた。ホスト国の批判に嫌気が差したサウジは本部をアラブ諸国に移動する計画を示唆。最終的には、オーストリアとサウジ両国は、KAICIIDの設立目的を重視、他国の人権問題に対しても積極的に関与していくことで妥協が成立したばかりだ。

 やれやれと思っていた矢先、次は潘基文国連事務総長が2013年に新設した「全ての人のための持続可能なエネルギー」(SE4ALL)機関をウィーンからデンマークの首都コペンハーゲンに移動する話が浮上してきたのだ。オーストリア日刊紙プレッセによると、コペンハーゲンが積極的に誘致に乗り出している。SE4ALL側は、事務局長カンデ・ユムケラー氏が今年7月をもって辞任するのを受け、新しい出発を考えているというのだ。ちなみに、ユムケラー氏は出身国シェラレオネの大統領選(2018年)に出馬するために事務局長のポストを断念したという。

 オーストリア外務省はIAEA,CTBTO、そしてSE4ALLの本部をウィーンに結集させ、世界のエネルギー問題のメッカとしたいという野心を持っている。それだけに、SE4ALLの本部が他の欧州都市に取られれば、構想はつぶれてしまうだけに、コペンハーゲンの誘致工作に神経質となっている。

 ここにきて予想外の処からバット・ニュースが流れてきた。イラン学生通信が15日、イランの核協議をウィーンとジュネーブで協議中の国連安保常任理事国とドイツの6カ国が今月末の最終合意の協議舞台をウィーンからニューヨークの国連本部に移動させる計画を検討中、と報じたのだ。イラン核協議の拠点となったウィーンのホテルがサイバー攻撃を受けるなど、その情報管理上にも問題が浮かび上がってきたためという。
 イランの核協議は世界のメディアの注目が集まる大イベントだ。それだけに、その華やかな外交舞台を奪われてしまったら大変というわけで、オーストリア側は舞台裏で必死の外交を展開させているという。

 ウィーン市は過去、国際機関を積極的に誘致し、国際都市の呼称を享受してきたが、ここにきて新しい対抗都市や誘致都市が出現する一方、ウィーンに拠点を構えてきた国際機関の引っ越しの噂が浮上し、防戦を余儀なくされてきた。国際都市ウィーンの地盤沈下が見られだしたのだ。

「神に祈るボクサー」と王者たち

 元世界ジュニアフライ級王者の具志堅用高氏が14日、国際ボクシング殿堂の殿堂入りの表彰式に参加したというニュースを読んで、スポーツ記者時代、静岡県三島市でキャンプインの具志堅選手と会見したことを思い出した。練習後の僅かな時間、トレーナーと共にインタビューに応じてくれた具志堅さんの印象は寡黙なボクサーといった印象を受けた。具志堅さんは13回連続防衛に成功している。

 1970年代、日本ではボクシングはスポーツの中でも国民の人気が高かった。スポーツ記者になったばかりの時、日本でクリスチャンのボクサーが活躍していた。残念ながら名前は忘れてしまったが、メディアは「神に祈るボクサー」としてかなり大きく報道していた。神を信じながら相手ボクサーを殴打できるものだろうか、と当方は当時、単純に考えたものだ。欧米のボクサーには敬虔なクリスチャンが少なくないことを後で知った。ちなみに、米国の元チャンピオンの中には、引退後、聖職者になったボクサーもいる。
 リングの近くで写真を撮っていた時、殴打されたボクサーの鼻血が飛んできて、当方の白いワイシャツに付いたことがあった。ボクシングはテレビで観るよりも野性的なスポーツだと、その時分かった。

 当方はスポーツ記者時代、具志堅選手のほか、輪島功一選手とインタビューする機会があった。日本人ボクサーとしては重いクラス(スーパーウエルター級)の王者となった輪島さんは当方のような新人スポーツ記者に対しても丁寧に応じてくれた。会見の日、10人余りの記者たちが輪島さんとのインタビューの為にジムで待機していた。当方は最後だった。輪島さんも多分、疲れていただろうが、屈伸運動をしながら笑顔を見せて応じてくれた。単に世界チャンピオンというより、人間輪島の生き様が当方にも伝わってきたものだ。

 日本では当時、スポーツといえば、野球、大相撲、ボクシングが人気があった。当方はその中でもボクシングが好きだった。個人スポーツであり、そこにドラマを感じたからだ。逃げることができないリング上で2人のボクサーが全ての力を振り絞って相手に向かう。ボクシングは非常に孤独なスポーツだ。それが好きだった。

 欧州に住んでからも時たま、ボクシングの試合をテレビ観戦する。先月、世界ウエルター級王座メイウェザーとパッキャオの王座統一戦が大きく報じられたばかりだ。ただし、欧州ではスポーツと言えばやはり、サッカーだ。スポーツ放送局では1年中、どこかのサッカー試合を中継している。ボクシングの場合、放送権の問題も絡んでか、テレビ観戦できないことが結構多いのは残念だ。

 米ニューヨーク州カナストータで行われた表彰式に参加した具志堅さんの写真をみながら、「あれから40年余りの時間が経過したのだな」といったシミジミとした思いが湧いてきた。それにしても、そのアフロヘアーの髪型もあるが、具志堅さんはまだまだ若々しい。具志堅さんの殿堂入りを祝いたい。

失業者を「占い師」に再教育?

 当方の友人の中にはウィーン市の職安で“人生アドバイサー”(Lebensberater)として勤務している者がいる。彼はプロテスタント系教会の元聖職者だった。毎日曜日は礼拝をしていた人間だ。しかし、ある日、その定職を失った。そこで家族を養うために最寄りの職安に通うことになった。職安では、仕事がないうえ、人生の目的を失った多くの失業者と出会った。彼らは教会の礼拝で会う人々とは異なっていた。人生に疲れた人、失業期間が長くなって次第に無気力となった中年男性たちが屯していた。友人は職安で別の人生に出会った。

 友人は彼らを鼓舞し、生きる力を与えたいと思った。職安に顔を見せ仕事を探す一方、失業者に声をかけて励ましていた、その友人の姿は職安関係者の目に留まった。職安上司が友人に、「君、職安で失業者に人生の意義や目的を教える講習を担当してくれないか」と尋ねてきたのだ。もちろん、友人は喜んでその仕事を引き受けた。そして既に2年余りが経過したが、人生アドバイサーとしての友人の評判はいいという。

 友人の転職がどのように伝わったのか、単なる偶然かは知らないが、オーストリア日刊紙プレッセ(13日付)を読んでいると、オランダの職業斡旋所でも失業者対策の一環として“電話人生アドバイサー”の育成に乗り出すというのだ。要するに、オランダでもオーストリアの友人のような人材を育成していこうというのだ。

 失業者を電話人生アドバイサーにどのように育成するのだろうか、と考えたが、記事の中には詳細な情報は記述されていなかった。ひょっとしたら、アイデアだけで具体的な教育カリキュラムはこれからかもしれない。

 失業者は字のごとく仕事場を失った人々だ。解雇された人、上司の言われた通りに仕事するのが嫌になった人、上級公務員に飽きて起業したが失敗した人、定年退職まで同じ職業に従事することが急にやり切れなくなった人、さまざまな理由が考えられるが、共通点は、朝起きて顔を洗い、食事した後、新聞をゆっくりと読む時間があるが、直ぐに取り組まなければならない仕事はないうえ、会社に行くために電車に乗る必要もなくなった人々だろう。

 欧州諸国を見渡すと、スペインやポルトガルの南欧では青年たちの失業率(約50%)が非常に高く、大学卒のアカデミカーの失業者が珍しくはないという。アルプスの小国オーストリアでも大卒失業者が増えてきた。逆にいえば、失業者の知的レベルは以前と比べ高まってきているわけだ。人生アドバイサーへの資格の条件は整っているのだ。

 次に、人生アドバイサーについてだ。友人の成功談を参考にしながら、人生アドバイサーの資格、気質などを考えてみた。先ず、人が好きでなければならない。友人は話すことが大好きだ。その上、話上手でもなければならない。もちろん、大卒程度の基本的教養は不可欠だ。もう一つ付け加えるとすれば、失業者が何を求めているか、何が欠け、何を教えなければならないか、などを直感的に把握できる人間洞察力が重要だ。

 元聖職者の友人の場合、人生アドバイサーの下地があったが、普通の失業者がある日突然、人生アドバイサーに転身するということは容易ではないだろう。オランダの職安が失業者を電話人生相談者に再教育するというニュースが流れた時、その真剣さを疑う声があったという。しかし、友人のように、その道を開拓した元失業者がいるのだ。やってみる価値のあるプロジェクトだ。

 ちなみに、オランダからの報道によれば、人生アドバイサーは水晶占い、タロット占いなど占いの世界についても学ぶという。人生に悩む人々に適切なアドバイスを与えるためには、時にカードを取り出して、悩む人の為に最善の道を占うことも必要というわけだ。リベラルな国柄らしいアイデアだ。ウィーンとはちょっと違った人生アドバイサーが失業者の中から生まれてくるかもしれない。

PKO要員も神父たちも堕ちた

 国連平和維持活動(PKO)要員と聖職者はその職務上、精神の高貴性が求められる。両者は私欲を抑え、他者、公の利益を優先しなければならない立場だ。そのPKO要員が2008年から13年の過去6年間で派遣先で約480件の性的虐待を犯していたことが国連内部監査部の報告書で明らかになった。一方、世界に12億人以上の信者を擁するローマ・カトリック教会の聖職者が過去、数万件の未成年者への性的虐待を行っていたことが発覚し、世界を震撼させたことはまだ記憶に新しい。

 高貴な課題を抱えるPKO要員や聖職者による性犯罪は何を意味するのだろうか。国連憲章を想起するまでもなく、国連は世界の平和と紛争解決という高い目標を掲げている。それゆえに、というか国連で勤務する職員は、“国連ファミリー”という言葉を好み、同僚意識と一種の使命感を共有する。
 一方、聖職者はいうまでもなく、人間の在り方、生き方を諭し、信者たちを神に導く使命を有している。社会の模範とならなければならない、といった意識も高い。ローマ法王フランシスコを見ても分かるように、清貧を友とした生活を送る人々だ。

 そのPKO要員が紛争地に派遣され、現地の人々を救援するという高貴な使命を実施する一方、紛争で傷ついた人々に対し性的搾取を繰り返してきたという。ある時は救援物質と交換で性的サービスを求めたという。相手の弱みを利用した性犯罪だ。
 神父たちの性的虐待事件は教会の信者ではなくても大きなショックを与えた。神の愛を説き、隣人愛を訴える立場の人間がその祭壇の裏で未成年者に対し性的虐待を繰り返していたこと、それを知りながら教会側は対応しなかったことなどが次々と暴露された。「彼らはわれわれとは少なくとも違うだろう」といった淡い期待は吹き飛び、「彼らもやはりわれわれと同じだった、いやそれ以下だ」という沈鬱な気分にさせた。

 PKO要員や聖職者に精神の高貴性を求めること自体が間違いだ、と指摘されるかもしれない。現実をみれば、その意見は正しい。簡単にいえば、人間は精神の高貴性を求める一方、利己的な思いを達成するために他者を利用する存在だ。「ジキルとハイド」的存在といえばそれまでかもしれない。

 政治家の汚職問題や青少年の麻薬問題は政治の議題となり、社会の関心も高いが、人間が常に対峙するこの性問題については政治テーマとはならない。「人間はもともとそういう存在だ。人間も他の動物とその分野で変わらない」といった諦観がいつの間にか社会に定着してしまったからだろう。

 人類の歴史が始まって以来、性犯罪は常にあったし、解決されたことがなかった。21世紀に入ってもその問題が解決される保証はない。政治家が法案を作成したとしても解決される問題ではない。しかし、この問題は決して些細な問題ではないのだ。極限すれば、人間が直面する諸問題の中でも最大の問題ではないか。多くの人々が悩み苦しむのはそのためではないか。

 PKO要員も神父たちも堕ちる。戦時にも平和時にも性犯罪は起きる。性問題は時代、場所、地位、国、民族の問題ではなく、人間の普遍的な問題であることは明らかだ。戦争という極限状況だけではなく、平和な日々にも性犯罪が多発しているという現実はそのことをより一層端的に示している。

 それにしても、われわれはなぜ精神の高貴性に対し切ないまでの願望を持ち続けるのだろうか。2つの矛盾する異なった性向を一つの個体の中に抱えた存在とすれば、われわれは常に破壊的な状況に置かれていることになる。科学技術が発展し、更に快適な生活環境が整ったとしても、われわれの矛盾が止揚され、癒されることがないとすれば、これほどの絶望はないだろう。
 ちなみに、フリードリヒ・ニーチェは人類の発展には「自由な精神」と共に「高貴な人間性」が必要と説いている。その上で、「われわれの魂の中にある英雄を捨て去ってはならない」と訴えたというのだ。あのニーチェがだ。

「野党精神」は如何に生まれたか

 日本の与党第1党は自由民主党であり、野党第1党は民主党だ。野党の岡田克也代表は与党自民党の安倍晋三政権を批判する立場にある。野党代表が与党の政策を擁護したり、称賛でもすれば野党の立場を失うことになる。ただし、岡田代表をみると、出自が保守派であり、その思考や世界観は完全には野党とは言い切れないのではないか、という印象を受ける。

 野党精神は本来、立場や地位から生まれてくるものではない。岡田代表がある日、民主党議員から自民党議員に変わったならば、立派な与党議員として野党側と堂々と論争できるのではないか。岡田代表はたまたま民主党代表だから、野党としての立場を維持しているだけではないか。すなわち、岡田代表は生来、野党精神とは遠い世界の住人ではないだろうか、と推測する(当方の独断)。岡田代表とは好対照なのは菅直人元首相だろう。菅直人氏からは政権入り後も野党精神を強く感じたものだ。

 野党精神は立場や地位から起因するものではなく、やはりその生い立ちや家庭環境から自然に培われてくるものではないか。岡田代表はその出自からやはり保守的であり、その世界観は改革を叫ぶ人ではなく、現在の環境を守ろうとする気質のほうが強いのではないか。岡田代表を批判しているのではない。人には生来、野党精神が強い人と、そうではない人がいる。岡田代表はたまたま後者に属する政治家ではないか。

 それでは、野党精神がどこから生まれてくるのか。当方は「愛された経験」の有無が決定するのではないか、と考えている。幼少時代から親から愛された経験が豊富な人は野党精神が乏しく、現状を受け入れるようになる。そのような人にとって、変わらないことが重要だ。一方、愛された経験が乏しい人にはやはり野党精神が生まれくる。批判精神と言い換えることもできるかもしれない。愛されなかったのだから、現状を変えない限り、永遠に愛されない。だから、現状を肯定することは出来ないから、批判しなければならない。これこそ個人レベルの野党精神のルーツではないか。私たちにはどんなに強がりいってもやはり「愛されたい」という欲求があるからだ。

 「野党精神」は単に個人レベルだけではない。民族、国家へと拡大、波及していく。長い植民地時代などを経験した民族(愛されず、圧政された民族)には自然と野党精神が培われていくものだ。圧政者への恨みが野党精神を成長させていく。
 2つの民族を例に挙げてみる。ポーランド国民は冷戦時代から野党精神が強い。同国で旧東欧諸国の民主化(独立自主管理労組『連帯』)運動が始まったのは決して偶然ではない。ポーランドの場合、過去、3度、プロイセン、ロシア、オーストリアなどに領土を分割され、国を失った悲惨な経験を味わっている。だから、為政者(統治者)に対する批判精神は鍛えられていったが、統治能力は十分成長せずに今日に到っている。

 チェコ国民も昔から野党精神が強い、同国は欧州連合(EU)加盟国となった後もブリュッセル主導の政治への批判の声が強い。その背景には、ヤン・フスの宗教改革に関連した反カトリック主義があるといわれている。
 ヤン・フス(1370〜1415年)はボヘミア出身の宗教改革者だ。免罪符などに反対したフスはコンスタンツ公会議で異端とされ、火刑に処された。同事件はチェコ民族に今日まで深く刻印されてきた。歴史家たちは、「同国のアンチ・カトリック主義は改革者フスの異端裁判の影響だ」と説明しているほどだ。同国の野党精神は反カトリック主義、反EU精神となって今日まで如何なく発揮されてきた。ちなみに、今年はヤン・フス死後600年を迎える(「『フス事件の克服』を問われるチェコ」2011年5月26日参考)。

 最後に、聖書の世界から野党精神の起源を探ると、やはり人類最初の殺人者となったカインに遡る。神は弟アベルを愛し、その供え物を受け入れたが、カインの供え物は拒否された。カインの「神から愛されなかった」という思いが弟アベル殺しを引き起こしていく。私たちの心にある野党精神は、この「愛されたかった」というカインの切ないまでの叫びがDNAとなって今日まで連綿と継承されてきたのだろう。

 「あいつは批判ばかりする」「協調性のない人間だ」―などと反発され、相手から嫌われる人はどの社会でもいる。俗に言うと、「野党精神」が旺盛な人間だ。彼らは相手の欠点を素早く見つけて、それを追求することに長けている。そのような人間をうまく使いこなせば、組織やグループは活性化するが、使いこなせなかった場合、組織は破壊される危険性が出てくる。「野党精神」のルーツを知り、それを健全に成長させていくことが大切なわけだ。

「わがチームが98対0で勝ちました」

  北朝鮮は今やブロガーにお笑いを提供してくれる数少ない貴重な国だ。今回はニュージランドで開催中のU20ワールドカップ(W杯)で1日、北朝鮮チームが対ハンガリー戦で1対5で大敗した話だ。
 平壌の国営放送は、「わが国は98対0でハンガリーチームを撃破しました」と報じたというのだ。確認しておくが、これはバスケットボール試合の結果ではない。サッカー試合の結果だ。

 当方はYouTubeでその放送場面を見て、「ああー」と深いため息が出るだけで、それ以上何も出てこなかった。北朝鮮国営放送のアナウンサーはサッカー試合を見たことがなく、「98対0」といった得点の試合などは考えられないと知らなかったのかもしれない。最も考えられるシナリオは、米プロバスケットボール(NBA)の大ファンの金正恩第1書記への配慮からバスケットボール試合のような得点を考え出し、それも敗北ではなく圧勝としたのかもしれない。金正恩氏は過去、NBAの元スター選手デニス・ロッドマン氏を何度も平壌に招いている。

 試合はハンガリーチームが勝った。それを平壌側が「わがチームが勝ちました」と虚報した。北朝鮮では事実より、虚報が流通している社会だから、サッカー試合の結果の虚報など珍しいことではない。多分、放送局側は「わがチームが勝利したと報じろ」と上の指示を受けたのだろう。メディア関係者は本来、虚報などしたくない。職業魂に反するからだ。しかし、上の命令に反して事実を報道すれば、その直後から職場を失うだけではなく、最悪の場合、処刑されるかもしれない。
 一方、放送関係者も、「国民は放送など見ていないだろう」と考えても不思議ではない。3食の食事を確保することで1日の大部分のエネルギーを費やす大多数の北の国民にとって、サッカー試合の結果などどうでもいいことだ。勝っても負けても空腹を満たすことはないからだ。

 問題は、なぜ「98対0」かだ。虚報するのならば、「3対2」か、せいぜい「5対2」で留めるべきだったはずだ。それを「98対0で相手チームを粉砕しました」と報じてしまったのだ。

 サッカーを知っている党幹部が当方と同じように「エー!?」と叫び、笑い出す一方、考え出すかもしれない。
 「直ぐに虚報と分かる試合結果を報じたということは、虚報であることを国民に知らせるような狙いがあるはずだ。ただし、ここまでは許される範囲だろう。なぜならば、欧米社会ではわが国が事実を報じるとは信じていないからだ。しかし、98対0は虚報ではなく、わが国を笑い飛ばす狙いが隠されている。すなわち、若き首領様、金正恩第1書記を笑うための反国家的思想が潜んでいる」。
 そして、「98対0」の虚報を流したテレビ関係者は即拘束され、尋問の末、処刑されるかもしれない。金正恩第1書記の暗殺計画を描いた米映画「ザ・インタビュー」の上演問題で明らかになったように、首領様への侮辱行為は絶対許されないからだ(「なぜ金正恩氏は“滑稽”なのか」2014年12月25日参考)。

 嘘も限りなく事実に近いものでなければ、嘘の役割は果たせない。放送関係者はその鉄則を破ってしまったのだ。笑いは常に危険が伴う。特に、独裁国家では相手を信用しない限り、笑えないのだ。

韓国は本当は「後進国」か

 韓国日刊紙「中央日報」日本語電子版を読んでいたら、「またぶり返す後進国トラウマ」というタイトルのコラム記事(10日付)があった。記者は中東呼吸器症候群(MERS)コロナウイルス対策の遅れを指摘し、「通常、後進国の特長には不透明性、閉鎖主義、権威主義と低い市民意識などが挙げられる。これに対し先進国の特長は開放性、自律性、協力などだ。ところがMERS処理過程で見せた韓国社会のシステムは後進国のそれだった。どの病院で発生したかもわからず、患者がその病院を出入りし続けて感染者が広がり、保健当局は無能さの極致に加え閉鎖主義で問題を拡大した」と嘆く。韓国保健福祉省が10日、MERSの感染者が13人増え、計108人に達し、死者も2人増えて計9人になったと発表したばかりだ。

 激しい熱情をもち、何事にも積極的な国民性の韓国だが、いったん危機に直面すると、その熱意は政府や関係省庁批判に向けられるだけで、肝心の問題解決には注がれなくなる。昨年4月16日、仁川から済州島に向かっていた旅客船「セウォル号」の沈没で約300人が犠牲となるという大事故が起きた時も、救援活動よりも船舶会社批判、ひいては政府批判でもちきりとなった。そして遺族関係者は、事故現場に追悼に訪れた朴槿恵大統領すら追い払うほど、その批判や怒りは攻撃的、爆発的だった。

 同じように、MERSで感染を防ぐことが出来なかった病院や行政機関、ひいては大統領府まで批判の矢は飛んできた。朴大統領は10日、14〜19日に予定していた訪米を延期することに決め、国内に留まり、MERS対策に全力を注ぐと発表した。大統領がこの時期、米国に飛び、オバマ大統領と会談したとしても得るものは少なく、国民の批判は一層高まると予想されたための緊急決断だった。

 ちなみに、間近に迫った訪米計画を延期することは通常、考えられない。オバマ米大統領との会談日程は簡単には実現できないからだ。ひょっとしたら、年内の訪米は難しくなるかもしれない。にもかかわらず、朴大統領は国内に留まり、対策に乗り出すと決意したわけだ。それだけ、大統領への国民感情は厳しいというわけだろう。

 中央日報コラム記者は、「わが国は経済的には立派な先進国だ」と指摘し、様々な経済統計を挙げながら強調している。「韓国は後進国なのか。違う。あらゆる指標をすべて突きつけても先進国に分類される。経済的基準では世界10大先進国に属する。国連開発計画(UNDP)が実質国民所得、教育水準、識字率などの指標を統合して調査発表する人間開発指数で見ても世界15位圏。経済協力開発機構(OECD)の高所得加盟国、国際通貨基金(IMF)が分類した先進経済国など国際機関の分類でも上位圏だ」という。

 にもかかわらず、韓国国民は、「自国が後進国ではないか」というトラウマを抱えているというのだ。記者の言葉を借りるならば、「自信がない」のだ。 今回のMERSの対応はその不安を再び浮上させてきたわけだ。「中国ですら2次感染が出ていないのに、わが国は3次感染、2次流行の波だ」というのだ。

 慰安婦問題では強気で反日批判を繰り返してきた韓国メディア関係者ですら、状況が一変すれば、「わが国は後進国ではないか」と自信なさを暴露してしまうわけだ。
 ハッキリとしている点は、先進国のメディアは「自国が先進国か、後進国か」といった意味のない問いかけはしないし、国民がそのような問題でトラウマとなって悩むことは絶対にないということだ。

 韓国は世界第一の整形手術国だ。外観を最重視する国民性は裏返しに言えば、自分に自信がないからだ。だから常に外観を飾り、ナンバーワンを目指し、先進国の日本と全ての分野で競争する。性犯罪発生率では世界トップを走る国が、慰安婦問題となると「道徳の優位性」を主張し、日本を牽制する。しかし、今回のMERS感染問題のように想定外のことが生じると、国民は急に自信を失い、心は一層揺れ動きだすというわけだ。

 記者は「唯一の対案は市民社会の道徳性と責任意識を生き返らせることなのかも知れない」と述べ、コラムを閉じている。その結論は正しいだろう。 孔子の言葉で「躬自厚而薄責於人」がある。問題が生じた時、先ず、自ら内省し、人には寛大に接することが重要だという意味だ。

 韓国国民は戦後、全てのことにパリパリ(早く、早く)といって考えずに走ってきた。そして一応、経済的には先進国入りした。韓国が新たな発展を実現するためには、政府も国民も内省の時を持つべきだろう。禍を転じて福となす、という諺がある。MERS問題も朴大統領と国民が結束して対応していくならば、必ずよき結果が生まれてくるはずだ。日本政府も支援を惜しまないでほしい。
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