ウィーン発 『コンフィデンシャル』

 ウィーンに居住する筆者が国連記者室から、ウィーンの街角から、国際政治にはじまって宗教、民族、日常の出来事までを思いつくままに書き送ります。

2015年06月

「夫婦」で聖人となる時代の到来

 非常に象徴的な決定だ。ローマ・カトリック教会では中世以降、聖人に列聖された人物は個人であり、夫婦が共に列聖されたケースは殉教の場合を除いてなかった。それが今年10月、1組のカップルが列聖されることになったのだ。バチカン放送独語電子版が28日、報じた。以下、オーストリアのカトリック通信「カトプレス」の記事の概要を紹介する。

150px-Louis_Martin150px-Zelie_Martin
▲列聖されるルイ・マルタン、ゼリー・マルタン夫妻

 フランシスコ法王は、「夫婦は聖人への王道だ」とツイッターで呟いたことがあったが、ローマ・カトリック教会の聖人カレンダーを見る限り、過去500年の間、殉教した夫婦以外で聖人となったカップルはいない。その教会歴史上初めて、夫婦が模範的な生き方をしたという理由から列聖されるというのだ。その夫婦とは、フランス人のルイ・マルタン(1823〜94年)とゼリー・マルタン(1831〜77年)夫妻だ。
 
 フランシスコ法王は27日、枢機卿会議で同夫婦を将来聖人とすると発表、今年10月18日、「福音宣教からみた家庭司牧の挑戦」をテーマに協議する通常の世界司教会議(シノドス)の枠組みの中で列聖式を挙行すると述べた。それによって、教会近代史で初の“聖家族”が生まれることになる。なぜならば、同夫婦は聖人のカルメル会修道女リジューのテレーズ(Therese von Lisieux、1873〜97年)の親だ。両親と娘が聖人となるからだ。同夫婦の聖遺物は昨年10月の特別シノドスの時、サン・ピエトロ大聖堂とサンタ・マリア・マッジョーレ大聖堂で設置済みだ。

 カトリック教会で過去、列聖された夫婦がまったくいなかったわけではない。例えば、マリアとヨゼフ夫妻、マリアの両親のヨハヒムとアンナ夫婦だ。ただし、同2組の夫婦や列聖された夫婦は中央ローマ列聖手続が導入された1588年前だ。それ以後は、日本と韓国のキリスト教迫害時代に殉教した夫婦が列聖されただけだ。

 独ケルンの聖人問題エキスパート、ヘルムート・モル氏は、「ルイとゼリー・マルタン夫妻は列聖される初の夫婦となる」という。ゼリーは2008年、第2番目の夫婦として列福されている。その7年前、イタリア人の夫婦、Luigi(1880〜1951年)とMaria(1884〜1965年)Beltrame Quattrocchiが列福されたが、まだ列聖されていない。カトリック教会では、列福(福者)は列聖(聖人)の前段階に当たる。

 マルタン夫妻の場合、「娘が列聖されているから、その恩恵で列聖されるだけだ」といった憶測が審議段階で流れたことがあるが、夫婦は19年間、9人の子供を産み、全ての5人の娘は修道女となっている。すなわち、親として子供たちを立派に教育してきたというのだ。

 カトリック教会では聖人はスターだ。そして夫婦が今回、初めて一緒にその栄光を受ける。これは明確なシグナルだ。教会のスターは過去、信仰を守り、誘惑に勝利した個人が受けてきたが、これからは夫婦が共に聖人への道を歩むことになる。少し神学的表現をすれば、ローマ・カトリック教会で「個人救済」の時代は終わり、「家庭救済」の時が訪れてきたというわけだ。マルタン夫妻の列聖はカトリック教会の新しい歴史の幕開けを意味する。


 ちなみに、「どうしたら夫婦は聖人となれるか」の問いに対し、フランシスコ法王は「毎日、犠牲と献身で生きることだ」とツイッターで述べている。

「中立性の原則」を破った潘基文氏

 米連邦最高裁判所が26日、同性婚を合憲と認めた、というニュースが流れると、バチカン放送は「悲劇的な過ち」と批判した米国カトリック教会司教会議のコメントを掲載する一方、「米国の勝利だ」と述べたというオバマ米大統領のメッセージも伝えた。立場と信念が異なれば、評価も異なるが、同性婚問題で一方は「悲劇的ミス」と評し、他方は「米国の勝利」と称えたのだ。これほど好対照な評価は珍しい。

wurst2
▲同性愛歌手ヴルストさんを歓迎する潘基文国連事務総長(2014年11月3日、ウィーン国連内で撮影)

 同性婚問題ではその少数派への差別撤回という点では多数の支持を得てきたが、同性婚をどのように認知するかで意見は分かれている。例えば、欧米諸国では同性婚を認める傾向が強い一方、旧ソ連・東欧諸国では拒否姿勢が強い。ロシアは同性婚を拡大するような言動に対して法的に強い姿勢で対応しているほどだ。同性婚問題では依然、コンセンサスはないのだ。

 ところで、共同通信によると、潘基文国連事務総長は26日、同性愛者の権利促進に貢献したという理由でハーヴェイ・ミルク勲章を受賞した。同勲章は米政治家で同性愛者の活動家だった故ハーヴェイ・ミルク氏(1930〜78年)の遺族が創設したもので、同性愛者運動に寄与した人物に贈られる賞だ。事務総長は米サンフランシスコ市庁舎で「ミルク勲章」受賞演説をしている。すなわち、事務総長は同性婚の支持者だということを内外に明らかにしたわけだ。

 潘基文事務総長は昨年11月3日、ウィーンの国連を訪問し、欧州ソング・コンテスト、ユーロヴィジョン(Eurovision)で優勝したオーストリアの同性愛歌手コンチタ・ヴルスト氏と会合し、「国連内では人種、性的指向の差別は存在しません。ヴルストさんが性的差別の克服するために健闘していることを評価します」と歓迎スピーチをした。事務総長は同性愛問題では久しく熱心な支持者だ、というわけだ。ミルク勲章の受賞は納得できるわけだ。

 しかし、問題が出てくる。国連は193カ国の加盟国から構成されている。その事務局のトップ、国連事務総長が同性婚を率先して支持することはその立場上好ましくはないのだ。米連邦最高裁判所は合憲と判断したが、あくまでも米国内の判決だ。世界には同性婚を公認しない国も多数存在する。国連憲章第100条1を指摘するまでもなく、国連事務総長はその職務履行では中立性が求められているのだ。

 ドイツを公式訪問中のエリザベス英女王が24日、晩餐会で「欧州の分裂は危険だ」と発言したことに対し、2017年末までに実施予定の欧州連合(EU)離脱を問う国民投票を意識した政治発言ではないか、といった批判の声が飛び出している。英王室は政治問題では中立性を守るという不文律があるからだ。中立性という問題では加盟国間の調整役を演じなければならない国連事務総長も同様だろう。

 多分、事務総長は、「私はこれまで差別されてきた同性愛者の権利を擁護しただけで、同性婚問題については何も表明していない」と反論するだろう。しかし、事務総長が支持している同性愛者は同性婚の権利を要求している人々だ。すなわち、同性婚を要求する人々を事務総長は応援していることになるわけだ。宗教や民族の少数派支持とは異なるのだ。同性婚問題はその家庭観、人生観、世界観まで網羅しているテーマなのだ。

 ちなみに、潘基文氏は自身の「宗教の有無」を明らかにしていない唯一の国連事務総長だ。宗教紛争が絶えない現状を考慮して、どの宗派にも属さない中立の立場をキープするために、「宗教の有無」を公表していないとしたら、賢明かもしれない。その国連事務総長が同性婚問題ではなぜ安易に支持側に立つのだろうか。例えば、国連事務総長は同性婚を強く拒否する国連加盟国ロシアの国益を無視していることになるのだ。

 2期目の任期も後半に入る事務総長はこれまでこれといった実績がない。焦る気持ちは理解できるが、加盟国間で意見が一致しない同性愛問題で国連事務総長が率先して同性愛者支持の姿勢を示すことはその職務上、好ましくない。

ローマ法王の爆弾発言「離婚の勧め」

 神の前に永遠の絆を誓って結婚した夫婦は生涯、尊敬しあい、助け合って生きる。その絆を断つことは許されない。このようにカトリック教会で結婚した信者たちは神父から聞かされてきた。
 しかし、南米出身のローマ法王フランシスコは、「時には離婚は避けられないというより、道徳的に必要な場合がある」と語ったのだ。イギリスのヘンリー8世は離婚を認めないカトリック教義に反発して、独自の教会(英国国教会)を創設したが、同8世がフランシスコ法王の「離婚の勧め」を聞いたらビックリしただろう。

 フランシスコ法王の爆弾発言、「離婚の勧め」を少し紹介しよう。バチカン放送独語電子版によると、フランシスコ法王は24日、一般謁見で、「家庭は自動的に幸福な世界ではない。傷つけあい、罵声が飛び交う場所でもある。多くの子供たちは親が互いに罵り合っているのを見て傷つく。夫婦間の葛藤の最大の被害者は子供たちだ」というのだ。

 さらに、「家庭内で互いに傷つけあうことは残念ながらよく見られる病だ。後で後悔して互いに償いができる段階ならいいが、罵倒が限度を超え、敵意と非情となれば状況は悪くなる。夫婦間のいがみ合いの悪循環は最終的には男と女の繋がりを破壊してしまう。それだけではない。それを目撃する子供たちの魂も傷つくのだ。人々は魂が傷つくことがどのような意味かを理解していない。家庭内の両親の不和が子供たちの魂に取り返しがつかない傷を残すのだ」と繰り返し指摘する。

 法王の発言はそこで留まらない。一歩、前に出る。「夫婦間の不和、葛藤がある段階を超えると離婚が避けられなくなる状況が出てくる。そうなれば、離婚が道徳的にも必要となるのだ」と強調し、離婚に理解を示したのだ。もちろん、「厳しい状況下にある夫婦は神への信仰と子供への愛を思い出して困難を乗り越えて再出発してほしい」と付け加えたが、法王はそれが容易ではないことを知っているのだ。

 カトリック教会の信者たちはフランシスコ法王の「離婚の勧め」をどのように受け止めるだろうか。カトリック教会は男と女が一旦結婚すれば、永遠に連れ添いあうと考えてきたし、教会側もそのように教えてきた。歴代のローマ法王の中で離婚を勧めた法王はいなかった。フランシスコ法王は誤解を恐れず、現実の多くの絶望的な家庭を意識したうえで、「離婚が道徳的にも避けられない状況がある」と判断しているのだ。
 ちなみに、離婚の場合、夫婦が共にカトリック教徒の場合、教条上は離婚は許されないが、一方がプロテスタント信者や無宗教者の場合は状況は少し変わる。また、教会側に「婚姻無効宣言」をしてもらい、再婚する信者もいる。

 バチカン法王庁で今年10月4日から通常の世界司教会議(シノドス)が開催される。バチカンは昨年10月、特別シノドスを開き、「福音宣教からみた家庭司牧の挑戦」について協議したが、通常シノドスではその継続協議が行われる。フランシスコ法王の離婚容認発言はシノドスの主要議題の一つ、離婚・再婚者への聖体拝領問題に大きな影響を及ぼすのは必至だろう。カトリック教義ではこれまで離婚・再婚者への聖体拝領は許されていないのだ。

 欧米社会では3組に1組、多いところでは2組に1組の夫婦が離婚する。カトリック教会が離婚・再婚者への聖体拝領を拒否し続けた場合、信者たちを教会に引き止める手段がなくなる。フランシスコ法王は離婚・再婚者への聖体拝領を認める方向で検討に入っているのかもしれない。法王の「離婚の勧め」が教会の教義と一致するかなどの神学議論は今後、活発化するのではないか。

「ハルモ二の恨」を利用したのは誰か

 韓国の尹炳世外交部長官(外相)は24日に聯合ニュースのインタビューに応じ、日韓国交正常化50周年の記念行事を期に日韓の関係修復に意欲を示したが、その中で、慰安婦問題に対して、「被害者のハルモニ(おばあさん)の恨(ハン)を晴らすことが必要」と訴え、薬の処方に喩えて、「慰安婦被害者問題においても、細かい分野で痛みを和らげる効果がある処方にならなければならない」と答えている。

 外相は「ハルモニの恨」を晴らさなければならないというが、韓国政府はそのためにこれまで何をしてきたのか。ソウルの日本大使館前に少女像を建て、米国にも慰安婦少女像が建てられたが、それで「ハルモニの恨」が本当に晴らされると信じていたのか。それとも、「ハルモニの恨」は日本側が晴らさなければならない問題と考えてきたのだろうか。

 われわれは隣国を選ぶことは出来ない。同時に、どの国に生まれるかも選ぶことはできない。ハルモニのことを考えてみよう。生まれた国が日本に併合された韓国だった。慰安婦とならなければ生きていけなかったハルモニには恨があったかもしれない。しかし、終戦を迎え、多くのハルモニは解放された。その段階で、ハルモニは慰安婦であった人生に終止符を打って新しい人生を歩み出したはずだ。当然、慰安婦であったことなど誰にも告げず、生きていこうとしただろう。彼女たちの家族も同様だろう。娘たちが過去を忘れて新しく出発してくれることを願っていたはずだ。

 そこに旧日本軍の慰安婦問題が韓国の政治議題となって浮上してきた。そして慰安婦として政治の舞台や集会に呼び出され、その恨をもう一度想起するように強いられてきたのだ。

 外相は、「ハルモニは自身の過去を世界に証言したいと願っている」というが、本当にそう考えているのだろうか。どの国の慰安婦がその過去を公の場で語りたいだろうか。彼女らは本来、静かに余生を過ごしたかったはずだ。しかし、韓国側は反日攻撃の武器として慰安婦問題を活用してきたのだ。時間の経過と共に癒されつつあった「恨」に塩を摺り込み、目覚めさせた張本人は韓国政府だったのではないか。

 繰り返し聞きたい。韓国政府は過去70年間、「ハルモニの恨」を晴らすためにどれだけの努力を払ってきたのか。もし、「わが国はハルモニの恨を十分晴らしてきた」と主張するのなら、日本側に慰安婦への経済的支援を求める必要などないはずだ。

 国民の幸せに対して、国側が先ず責任を担う。慰安婦の幸せ、恨を晴らす最初の責任は韓国側にある。外相は、「細かい分野で痛みを和らげる効果がある処方にならなければならない」と答えている。韓国側が恨を晴らす処方箋を熟知しているのならば、どうして彼女たちの恨みがこれまで晴らされなかったのか。韓国側には十分な時間があったはずだ。

 朴大統領は今月、ワシントン・ポストとのインタビューの中で、「慰安婦問題の協議は最終段階に来ている」と述べたという。この発言は慰安婦問題を国主導で推進してきたことを半ば認めたようなものだ。慰安婦問題とは、「ハルモニの恨」云々ではなく、対日交渉で有利な状況を勝ち得るための政治道具だったことを、朴大統領の発言は図らずも明らかにしているのだ。「ハルモニの恨」を晴らすことが主要関心事なら、「慰安婦問題の協議が最終段階に来ている」とは絶対に表現しないだろう。「恨」には最終段階や初期段階など存在しないのだ。

 日本側は過去、「河野談話」、「村上談話」などを通じて謝罪を表明してきた。そして、「アジア女性基金」を創設して慰安婦救済に乗り出してきた。慰安婦たちもそれを聞いてきたはずだ。
 一方、韓国では、慰安婦問題で日本側から謝罪を勝ち取りたいという誘惑に駆られてしまう政治家が余りにも多いのだ。これは韓国の「政治の後進性」を示すものだ。

私の本当の友人は誰?

 17世紀のイギリスの神学者トーマス・フラー(Thomas Fuller)は「見えないところで私のことをよく言っている人は、私の友人だ」(He's my friend that speaks well of me behind my back)と語ったという。とすれば、私がいる前で私のことをよく言っている人がいたら、ひょっとしたら私の友人でない可能性があるということになる。

 内部告発サイト「ウィキリークス」は23日、「米国の国家安全保障局(NSA)が3代のフランス大統領の通信を傍受していた」と指摘し、その関連文書を発表し、大きな波紋を投じている。このニュースを読んだ時、先述のイギリス神学者の言葉を思い出した次第だ。少し説明する。

 メディア報道によると、NSAはフランスのシラク元大統領、サルコジ前大統領、オランド現大統領の通話を傍聴していたという。オランド大統領は24日、緊急の国防会議を開催して対応を検討したほどだ。
 隣国ドイツではメルケル首相の通話がNSAに傍聴されていたことが発覚し、米独両国関係が一時、険悪化した。独連邦情報局(BND)がNSAと久しく連携して情報工作を行ってきたことも次々と明らかになっていった。ワシントンからの情報では、メルケル首相の通話を今後傍聴しないことで独米両国は一致したというが、NSAとBNDの連携は今後とも続けられる、と受け取られている。

 米国は他国の首脳の通話を傍聴できる技術的能力を有している。その国がその能力を行使せず、押し入れにしまって置くことなどは考えられない。メルケル首相もそのことを十分知っているはずだ。だから、オバマ大統領が、「あなたの携帯電話は盗聴しません」と表明したとしても、メルケル首相は完全には信じないだろう。

 冷戦後、世界は情報戦争に突入している。他国より、より早く、正確な情報を入手できる国が情報戦で勝利し、経済活動でも相手に先行して有利な商談を進めることができる。その情報戦争でトップを走っているのが米国だ。

 外交の表舞台では、お互いに相手を褒めるが、相手国の代表がいないような場所では相手の悪口や弱点を言いふらす。そのいやらしさは、どの国でも程度の差こそあれ同じだろう。外遊先で日本を批判してきた朴槿恵大統領の“告口外交”はその典型的な例だ。ただし、朴大統領の告口外交は余りにもストレートすぎて、変化球ではないから、相手側に読まれてしまう欠点がある。

 「大統領は素晴らしいですね」と安倍首相がオバマ米大統領の前で述べた場合、賢明なオバマ大統領は「ありがとう」と礼をいったとしても、安倍首相の言葉をそのまま信じないだろう。しかし、オバマ大統領がいない場所で安倍首相が「オバマ大統領は本当に素晴らしい大統領だ」と絶賛するならば、そのニュースは人の口から口へと伝わり、オバマ大統領の耳にも届くだろう。そうなれば、オバマ大統領はどう思うだろうか。「晋三もいいやつだ」と笑顔を見せながら呟くだろう。安倍首相がそこまで計算したうえでオバマ大統領を称賛するならば、安倍首相は情報戦で勝利者となれるだろう。安倍首相を外交の表舞台で批判する朴大統領の“告口外交”は情報戦がいかなるものかを理解していない最悪の外交だ。

 NSAの仏大統領盗聴工作が発覚した後、オバマ大統領がにやにやしながらオランド大統領に近づいてきたとする。オランド大統領は、「オバマ大統領はNSA関係者から自分の夜の行動に関する情報を手にいれたな」と考え、警戒するだろう。

 情報戦ではオバマ大統領は世界のどの指導者より有利な立場にいる。NSAがオバマ大統領の個人的な通話内容もひょっとしたら傍聴しているかもしれないが、基本的にはあり得ない。ただし、完全には排除できない。

 イギリス神学者の名言は21世紀の情報戦の勝利の秘訣を提示している。相手国は自分の通話を必ず傍聴していると考え、電話では相手を称賛すればいいのだ。その通話内容は必ず相手の耳に届き、相手はあなたを本当の友人と誤解するかもしれないだろう。もちろん、相手はあなたの褒め言葉すら計算済みかもしれないが……。
 それにしても、17世紀の神学者が21世紀の情報戦に生きる知恵を既に知っていたということは驚きだ。

フランシスコ法王の「謝罪」表明

 ローマ法王フランシスコは22日、イタリアのトリノ市のワルドー派教会を訪問し、「ローマ・カトリック教会が過去、キリストの名でワルドー派教会信者たちに対して行ってきた非キリスト的、非人間的な蛮行を許してほしい」と謝罪を表明した。

Waldo
▲ワルドー派の創設者、ピーター・ワルドー(ウィキぺディアから)

 ワルドー派は12世紀にフランス人のピーター・ワルドー(1140〜1218年)によって始まったキリスト教会内のグループで、中世のローマ・カトリック教会から異端といわれ、関係者や信者たちは迫害されてきた。ワルドーは1182年、リヨン大司教から破門され、1184年には当時の法王ルキウス3世によって異端宣言を受けている。
 ただし、ここにきて、「ワルド―派教会はルターたちの宗教改革に先駆けて現れた改革派教会であり、その教えは清貧を重視、聖書を翻訳し、原始キリスト教社会を理想としてきた」と高く評価する声が宗教学者の間で出てきている。

 ワルドーの生き方、思想はアッシジの聖フランチェスコと酷似している。裕福な商人だったが、富と享楽の生活の虚しさを感じ、イエスの「山上の垂訓」に感動し、神の道を求めて修道僧として歩み出した。イエスの教えを守らない腐敗した当時のカトリック教会指導者を批判し、聖書で記述されていないことを行う教会を糾弾した。ワルドーは「リヨンの聖人」と呼ばれた。

 バチカン放送独語電子版によれば、トリノのワルドー派教会指導者 Eugenio Bernardi 牧師は、「われわれは多くの共通点を有している。われわれは兄弟姉妹だ。カトリック教会から謝罪を受けた以上、われわれもいつまでもカトリック教会に恨みを持ち続けてはいけない。起きたことは起きたことであり、変えることは出来ない。重要な点はローマ法王がこのようなことを2度と起こしてはならないと表明したことだ」と述べている。バチカン放送はワルドー派教会指導者とローマ法王との会合を「兄弟姉妹の歴史的出会い」というタイトルで大きく報じた。


 ワルドー派教会は現在、約10万人の信者を有する。彼らは主にイタリアに住んでいるが、一部はドイツ南部や南米諸国にいる。ワルドー派教会は、ローマ法王フランシスコのトリノのワルドー派教会の訪問を評価し、その謝罪表明を歓迎している。

 フランシスコ法王は、「私の母国アルゼンチンでもワルドー派は非常に活動的で、社会分野で貢献している。カトリック教会とワルドー派教会は連携して、貧者救済に取り組むことができる」と喜び、「キリストの名で洗礼を受けた全てのキリスト者たちは互いに尊重しあって助け合うべきだ」と呼び掛けている。

 故ヨハネ・パウロ2世は西暦2000年の新ミレニアムを「新しい衣で迎えたい」という決意から、教会の過去の問題を次々と謝罪し、ヤン・フス(1370〜1415年)に対しても謝罪を表明した。フスはボヘミア出身の宗教改革者だ。免罪符などに反対し、コンスタンツ公会議で異端とされ、火刑に処された。フランシスコ法王のワルドー派教会への謝罪表明はそれに匹敵するものであり、キリスト教の再統合と和解を促進させる狙いがあると受け取られている。

ギリシャ哲学者の「韓国人への助言」

 ギリシャの哲学者アナカルシスは「賢者は原因を検討し、愚者は原因を決めつける」という言葉がある。ブリタニカ国際大百科事典によると、アナカルシスは紀元前6世紀ごろの哲学者で、スキチア人で七賢人の一人に数えられた人物だという。
 賢明な人は、不祥事が生じた時、なぜ生じたか、その原因をとことん考えるが、愚かな人は不祥事が再発しないように原因を考える前に、早急に原因を決めつけてしまう、といった意味だろうか。

 この哲学者の言葉を読んで、韓国のことを思い出さざるを得なかった。決して、批判したいからではない。韓国の国民性をうまく言い当てていると感じたからだ。

 そんなことを考えていた時、韓国最大手日刊紙朝鮮日報電子版で盗作問題に関する社説記事(6月23日付)が掲載されていた。朝鮮日報は「韓国の著名な小説家、申京淑(シン・ギョンスク)氏の作品をめぐる盗作疑惑が収まらない。発端は小説家のイ・ウンジュン氏が16日、申氏の短編小説『伝説』(1996年)の一部が故・三島由紀夫の短編小説『憂国』(韓国で83年出版の小説集に収録)の盗作だと主張したことだった」と書いている。申氏は盗作を否定する一方、同氏の小説を出版した創批は最初は小説家を擁護していたが、ここにきて盗作の可能性があることを示唆しているという。

 ここでは申氏の盗作問題の真偽を検討するつもりはない。注目すべき点は、以下の記事内容だ。
 「盗作問題は韓国の文壇が必ず乗り越えねばならない課題だ」と指摘したうえで、「韓国の文壇はここ数年間、注目すべき作品や作家が現れない低迷期に陥っている。作家や文学評論家は互いに指摘することはすべきだが、内輪でのいがみ合いに熱を上げているという印象を与えれば、読者たちはもっと文学から離れていくだろう。文壇は今回の論争を、韓国文学を一段と成熟させる契機とすべきだ」と要求しているのだ。

 この社説記事を読んで、「この論調はこれまでとは少し違うな」と感じ、新鮮な驚きと感動すら覚えた。先のギリシャ哲学者の言葉を思い出してほしい。社説の書き手は賢者だ。原因を決めつけ、批判に同調したり、糾弾するのではなく、韓国文学界の未来を踏まえながら考えていこうとする姿勢が見られるのだ。

 韓国では過去、国民もメディアも不祥事が起きる度に、即「裁決」してきた。昨年4月16日、仁川から済州島に向かっていた旅客船「セウォル号」の沈没で約300人が犠牲となるという大事故が起きた時も、救援活動よりも船舶会社批判、ひいては政府批判でもちきりとなった。MERS(中東呼吸器症候群)では、感染を防ぐことが出来なかった病院や行政機関、ひいては大統領府まで批判の矢は飛んできた。この種の実例は韓国では残念ながら余りにも多い。
 どうか誤解しないでほしい。韓国国民を愚者と考えているのではない。考える前にすぐに批判したり、糾弾する傾向は韓国国民だけではない。日本人にも見られだした傾向だ。

 ソーシャルネットワークが発達し、情報は迅速に広がっていく。一方、情報の受け手である私たちは時には考える時間もなく、即判断し、対応しなければならないことが多くなってきている。それだけに、不必要な誤解や批判が飛び出しやすくなってきた。
 シンプルなことだが、原因を決めつける前に考える習慣を身につけたいものだ。ギリシャ哲学者の言葉は、歴史問題で対立する日韓両国国民にとって、今必要としている啓蒙的な内容が含まれているのではないか。

確かに、日本列島は揺れている

 産経新聞電子版を読んでいると、「鳴動する大地、各地で頻繁する噴火・地震」というタイトルの記事があった。それによると、「鹿児島県屋久島町の口永良部島・新岳は噴火を続け、浅間山(群馬、長野県)では小規模な噴火があり、箱根山は噴火警報が出されている」という。そして先日、小笠原で震度5強を記録したばかりだ。産経新聞が指摘するように、日本列島は揺れ続けている。

f69dd
▲揺れる日本列島

 ご無沙汰しているとはいえ、日本は当方の母国だ。その日本列島がこんなに揺れ続けているとは考えていなかった、というより、ニュースとして聞いて知っていたが、それが統合されて「日本列島が……」といった認識には至っていなかった、というべきかもしれない。

 確かに、日本列島は揺れている。その原因について、地震学者からさまざまなシナリオを既に聞いているが、心の隅にある不安は容易には消滅しないのではないか。なぜならば、火山の噴火や地震はやはり天災であり、人知で完全には掌握できない現象だからだ。

 世界の地震学者たちはいつ地震が起きるか正確に予知できないことを知っている。しかし、それゆえに私たちが「不安」を感じるのではないだろう。何月何日にM5程度の地震が発生しますといった予知が可能になったとしても、私たちの不安は解消されないのではないか。なぜならば、地震や火山噴火といった天災は人間の理解を超えたエネルギーを放出し、その影響は莫大だからだ。予知が可能となったとしても、巨大なエネルギーの前に余り意味がない。天災は回避するのではなく、それを潔く甘受する以外に他の選択が本来ないのだ。

 キリスト教社会の欧米諸国の国民は幸いだ。天災が起きれば、神に怒りをぶつけることができる。哲学者ならば、「神の不在」を糾弾できるだろう。しかし、地震・火山国の日本では神は久しく不在だ。不在の神を批判する国民は皆無だろう。それでは、恨み、つらみをぶつける神がいない日本人は地震や噴火によってもたらされた破壊、痛みをどのように止揚してきたのだろうか。

 ひょっとしたら、日本人は天災の前に諦観し、宿命として甘受してきたのかもしれない。しかし、頻繁に襲ってくる天災で日本民族が自暴自棄となったり、無気力な国民性となったとは聞かない。逆だ。荒廃した大地から這い上がり、崩れた家屋を再建し、土地や山を切り広げていったのだ。その原動力はどこからきたのか。

 当方はしばらく考えた。答えは天災から来るのではないかという結論となった。すなわち、天災は破壊だけではなく、未来に向けた建設的なエネルギーも同時に放出するのではないか。日本人は天災の膨大なエネルギーの中から新しく建設するために必要なエネルギーも同時に受け取ってきたのではないだろうか。

 終戦後、日本国民は荒廃した社会から立ち上がり、国を再建していった。決して生易しいことではなかったはずだ。奇跡だ。日本民族の勤勉性、優秀性は手助けとなったが、それが主要な要因ではないだろう。ましてや、日米安保条約のお蔭でもない。
 天災大国の日本民族が歴史を通じて知らず知らずに体得していった森羅万象の背後にある存在への“畏敬心”と生かされていることへの“感謝”があったからではないか。それが、敗戦という人災の時にも役立ったのだ。

 ちょっと飛躍するが、「神から多く赦された人であればあるほど、その人は多く愛する」という内容の聖句が新約聖書の「ルカによる福音書」にある。常に天災に遭遇してきた日本民族はそれだけ生かされていることへの感謝の心が他の民族より深いのではないか。

 日本列島は揺れている。われわれは天災に備えなければならないが、過剰な不安や恐れを抱く必要はない。日本国民が歴史を通じて培ってきた畏敬心と感謝する心を失わない限り、天災は良きエネルギーをわれわれに与えてくれるはずだからだ。

グラーツで「無差別殺傷事件」発生

 オーストリアの第2の都市、同国南部のグラーツ市(Graz)で20日正午過ぎ、26歳の男性がゲレンデヴァーゲンに乗って時速100キロを超える猛スピードで歩行者天国を走り、通行人を轢き殺したり、ナイフで襲いかかるという無差別殺傷事件が発生した。グラーツ市警察当局の発表によると、少なくとも3人が死亡(4歳の男子も含む)、34人が重軽傷を負った。グラーツ市はシュタイアーマルク州の州都で人口約25万人の都市。

 グラーツ市警察当局が公表したところによると、犯人はトラック運転手で家庭を持ち、妻と2人の子供がいる。過激な思想、宗教、政治とは関係なく、家庭生活で精神的葛藤があったという。具体的には、先月28日、家庭内暴力が理由で家から追放され、妻とは別居中という。メディア報道によれば、妻は子供を連れて既に母国ボスニア・ヘルツエゴビナに帰国したという。

 偶然にも事件の目撃者となったSiegfried Nagl 市長は、「運転手は意図的に通行人にぶつかってきた。一人の女性がはねとばされるのを目撃した」と証言。別の目撃者によると、犯人は車から飛び降り、スーパーの前にいた男性をナイフで刺したという。同事件では、4機の救援ヘリコプター、83台の救急車、16人の医者を含む110人の救助員が動員され、負傷者の救援に当たった。

 事件が報じられると、グラーツ市出身のフィッシャー大統領は、「深い衝撃を受けた」と述べ、ファイマン首相は、「驚いた。犠牲者に哀悼の意を表明する」と語っている。

 犯人の犯行動機など事件の詳細な背景については、警察側の捜査結果を待たなければならない。いずれにしても、週末の真昼、無差別殺傷事件が起きたことに、オーストリア国民は大きな衝撃を受けている。

 ちなみに、グラーツ市の無差別殺傷事件の内容は、2008年6月8日で起きた秋葉原無差別殺傷事件と驚くほど酷似している。犯人はいずれも20代の男性であり、歩行者天国を車で走り、手にナイフを持って通行人を襲っている。以下の表を参考にしてほしい。


    <秋葉原無差別殺傷事件>
 事件発生日・・2008年6月8日(日曜日)正午過ぎ
 被害・・7人が死亡、10人が重軽傷
  犯人・・25歳の男性(独身)
 犯行状況・・ナイフで通行人襲撃
 犯行の車・・2トンのトラック
 犯行時間・・5分から10分
 犯行後・・抵抗後逮捕
 犯行当日・・歩行者天国で買物客や観光客で一杯
 裁判・・犯行時、完全責任能力を有していたとして死刑判決。現在拘置所で収監



   <グラーツ無差別殺傷事件>
 事件発生日・・2015年6月20日(土曜日)正午過ぎ
 被害・・3人死亡、34人が重軽傷
 犯人・・26歳の男性、トラック運転手、妻と2人の子供
 犯行状況・・ナイフで通行人を襲撃
 犯行の車・・ゲレンデヴァ―ゲン
 犯行時間・・約5分
 犯行後・・抵抗なく逮捕
 犯行当日・・歩行者天国で市内は買物客で一杯
 裁判・・?

「政治家」にあって「学者」にないもの

 「学者」でも「政治家」でもない当方が両者について書くのは不適切で、過分なテーマかもしれないが、寛容の心で忍耐して読んでいただければ幸いだ。

 「学者」と呼ばれる人々は通常、過去と現在の主要な学説、文献に精通している。だから、自身の思想を主張する時でも必ず過去の多くの文献と理論に言及し、その後で自身の説のユニーク性、論理性を主張する。文献や理論に通じていない普通の人々にとって、学者の主張を理解するためには大変な努力が求められる。普通の人々が安易に「分かった」といえば、学者はひょっとしたら気分を害し、神経質な学者ならば、侮辱されたと受け取るかもしれない。

 一方、「政治家」は普通の人々(有権者)が聞き手であり、彼らに政策や法案を分かりやすく説明しなければならない。学者のように難しい自説を語って、自己満足で終わらせるわけにはいかない。それだけではない。政治家は相手に理解され、支持されなければ意味がない。なぜならば、政治家はその政策や法案を作成するだけではなく、それを実際に履行しなければならないからだ。

 学者にとって、ライバルから自身の思想の非論理性を突きつけられた場合、最大の侮辱だろう。逆にいえば、論理が一貫していたならば、それが実際に履行可能かどうか余り深刻に考えない。なぜならば、学者は行動を要求されることも、その責任を追及されることもないからだ。「第2次世界大戦はあいつの思想、学説が契機となって誘発された」と指摘され、追及された学者はいないだろう。

 読売新聞電子版に、自民党の高村正彦副総裁が13日、富山市内で講演し、衆院憲法審査会で憲法学者が安全保障関連法案を「違憲」と指摘したことに関し、「学者の言うことを聞いていたら日米安全保障も自衛隊もない。日本の平和と安全はなかった」と述べたという記事が掲載されていた。

 高村氏は、「学者は日本の平和と安全に直接責任を担っていない。彼らが国体論や憲法論をまとめたとしても、それが日本の安全に寄与するかは別問題だ」と言いたかったのだろう。
 安倍政権は、衆院憲法審査会で憲法学者が「違憲」と判断した、集団的自衛権行使を可能にする安全保障関連法案を「合憲」とする見解を提示している。

 憲法学者は「論理」を大切にする。具体的に考えてみよう。集団安保法案は憲法9条の内容と一致しないから、「違憲」だろう。憲法学者は、「日本海周辺を潜伏する敵国に対して、国の安全はどうなりますか」という質問に答える義務はない。憲法と現実が一致しない場合、憲法学者が主張できる唯一のことは憲法や関連条項の改正を助言することだ。

 一方、政治家はこれまで国家の安全と憲法が一致しない状況が生じた場合、憲法の改正を要求するか、憲法の解釈でその矛盾を乗り越える努力をする(実際は後者)。政治家は決して、集団安保が憲法違反だという段階で止まらない。なぜならば、政治家は国家の安全と平和に責任を持っているからだ。高村副総裁が「学者の言う通りならば、平和はなかった」という台詞は、学者にはきついが、正鵠を射ている。学者は論理を愛し、その一貫性を大切にするが、政治家は責任と行動を強いられるからだ。

 米国の著名な国際政治専門家 ハーバード大学のジョセフ・ナイ教授はカーター政権下で国務副次官、クリントン政権で国家情報会議議長、国防次官補を務めた人物だ。ナイ氏の見解が欧米メディアで重視されるのは、同氏が学者と政治家の両世界を体験し、熟知しているからだろう。
 ちなみに、日本の永田町界隈には、国会で批判や野次を飛ばせる議員は屯しているが、学者の論理性と政治家の現実感覚を兼ね備えた議員は案外少ないのではないか。日本の学者もまた、書斎を抜け出し、外の空気を吸うのもいいのではないか。
訪問者数
  • 今日:
  • 昨日:
  • 累計:

Recent Comments
Archives
記事検索
QRコード
QRコード
  • ライブドアブログ