ウィーン発 『コンフィデンシャル』

 ウィーンに居住する筆者が国連記者室から、ウィーンの街角から、国際政治にはじまって宗教、民族、日常の出来事までを思いつくままに書き送ります。

2015年05月

ブラッター氏の「弁明」の論理

 腐敗の泥沼に陥った国際サッカー連盟(FIFA)の総会で29日、会長選挙が行われ、大方の予想通り、現会長のゼップ・ブラッター氏が5選された。欧州サッカー連盟(UEFA)のプラティニー会長はFIFA脱退の可能性すら示唆していたが、ブラッター氏の5選を阻止できなかった。
 ブラッター氏に幸いしたのは、対抗候補者がカリスマ性の乏しいヨルダンのアリ王子1人だけだったことだろう。一方、ブラッター氏を支えたのはアフリカとアジアのサッカー連盟代表だった。会長選直前にFIFA幹部の腐敗・逮捕が報じられたが、ブラッター氏の牙城は崩れなかった。同氏は当選直後、「われわれは皆、完全ではない」と述べ、幹部たちが腐敗容疑で起訴されたことを弁明している。

 目を韓国大手日刊紙「朝鮮日報」のコラムに移す。「徳を持って恨みに報いる」というタイトルのコラム記事(29日付)の中で、記者は、「人も国も完全無欠ではない」と書いている。そして「長所があれば短所もあるのは当然だ。大事なことは、相手の長所を正確にとらえると同時に、自分の短所を直視する勇気を持つことだ」と述べている。

 上記の2件の共通点は、「完全」という言葉が出てくることだ。
 当方は昔、この「完全」という言葉について考えたことがある。その直接の切っ掛けはモントリオール夏季五輪大会女子体操でルーマニアの妖精ナディア・コマネチが10年満点を挙げた時だ。テレビ放送の解説者が、「10年満点などは考えられません」とあっさり述べたのだ。体操演技で10点は満点だ。ルーマニアの妖精はその前にも数回、満点を挙げていた。それに対し、解説者は、「本来、完全は存在しません」と語ったのだ。当方は驚いた。

 10点満点は完全だ。体操選手は限りなく満点、完全を目指して厳しい練習を繰り返してきた。そして満点の演技をした瞬間、「完全はあり得ない」と指摘されたのだ。選手は騙されたような気分になるかもしれない。「完全はあくまで目標で完全な演技はマシンでない限り、難しい。どこかミスがあるからだ」という一見、理性的な声が飛び出し、最終的にはその声が多数派となるのにあまり時間はかからなかった。

 当方は当時、スポーツ・コラムを書きながら、「完全」とは何かと考えた。完全は目標だが、到達は出来ない、というのでは、完全を目標に掲げる意味があるか。スポーツの世界だけではない。どの分野でも目標は完全な仕事であり、中途半端ではない。しかし、同時に、「90%達成したのだから、満足すべきだろう」という声が必ず出てくる。私たちは他者だけではなく、自身に対しても詐欺行為をしているのではないか、と考えた。

 FIFA会長の「われわれは完全ではない」という場合、「われわれは腐敗する可能性のある人間に過ぎない。腐敗したとしても驚くことはない」という意味が含まれている。幹部たちの腐敗事件に遭遇したFIFA会長の弁明の論理だ。誰かが、「それは責任逃れだ」と批判したとする。その時、「それではあなたは完全ですか」と聞き返され、答えに窮してしまうだろう。ブラッター氏一流の弁明だ。相手に反論を許さないのだ。もし、「私は完全だ」という人間が出てくれば、ブラッター氏ばかりか他の代表からも笑いがこぼれただろう。ブラッター氏はそこまで考えたうえであの台詞を吐いたのだ。

 韓国のコラム記者の「完全ではない」にはブラッター氏流の反論を許さない狡猾さはない。完全は元々存在しないから、妥協を模索しようという現実的知恵があるだけだ。記者には「完全はない」という確信があるから、宗教者のように「完全」な世界を信じることはないのだ。

 いずれにしても、「完全」は常に目標とされるが、達成されてはならない運命にある。実際、達成された場合、それ以上の目標はその瞬間なくなってしまい、途方に暮れてしまう。「完全」は室生犀星の「ふるさとは遠くにありて思うもの、そして悲しくうたふもの」の詩を思い出させる。「完全」は遠くにある時にしかその価値を発揮しないのだ。

 ちなみに、イエスは「あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい」(「マタイによる福音書」5章48節)と諭している。イエスは「完全」の存在を確信し、その意味を理解している。その点、「完全」を目標としながらそれを信じることが難しいわれわれとは違うわけだ。

韓国に示された「時の印」

 韓国の最大手日刊紙「朝鮮日報」日本語電子版に以下の小記事が載っていた。

 「28日未明の午前1時30分ごろ、江原道華川郡史内面竜潭里付近にある生態探訪路周辺の道で夜間戦術訓練を行っていた韓国陸軍部隊の将兵21人が、木製の橋の倒壊により3メートル下の渓谷まで落下した。事故現場に出動した史内119安全センターのチョ・ボンヒョン第2チーム長は、『木製の橋の中央部が切れて、渓谷に将兵が倒れていた』と語った」

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▲モスタル市の「スタリ・モスト橋」(2005年11月、モスタル市で撮影)

 先ず、怪我された将兵の回復を祈りたい。

 上記の記事を読んで、その状況が当方の脳裏に鮮明に浮かんできた。それにしても、余りにも象徴的な出来事ではないか。「将兵」は国家を守る軍人だ。そして「橋」は両サイドを結ぶ役割を担っている。その木製の橋が突然壊れ、行軍中の将兵は橋を渡りきらず転落した。

 聖書には以下の聖句がある。

  「いちじくの木からこの譬を学びなさい。その枝が柔らかになり、葉が出るようになると、夏の近いことがわかる」(マタイによる福音書24章32節)。
 「まことなる主なる神は、そのしもべである預言者にその隠れた事を示さないでは、何事をもなされない」(アモス書3章7節)。

 当方はその聖句の内容を信じる一人だ。現前に展開する全ての現象には偶然はなく、何らかの関連性がある。同時に、その現象には「意味」が含まれていると考える。日々の出来事や出会いも、必ず何らか関連性と意味があるはずだ。だから、上記の記事を読んだとき、その記事内容が絵画のように当方の脳裏に浮かび上ってきたのだ。

 それでは朝鮮日報の記事の意味解きを始めよう。キーワードは2つだ。「将兵」と「橋」だ。「将兵」は国の安全を守る立場だ。その将兵が転落したということは、戦いで敗戦し、国を守れず、国民の安全が脅かされることを示唆している。
 一方、「橋」は先述したように両サイドを結ぶ役割がある。将兵が行軍中ということは、両サイドは敵対関係かもしれない。「橋」の役割を象徴的に示す歴史的橋が存在する。欧州戦後最大の民族紛争の舞台となったボスニア・ヘルツエゴビナのモスタル市には「スタリ・モスト橋」がある。ノーベル文学賞受賞作家イヴォ・アンドリッチに「ドリナの橋」という小説があるが、そのモデルとなった橋が「スタリ・モスト橋」だ。

 モスタル市中心部をネレトバ川が静かに流れている。オスマン帝国時代に繁栄した旧市街には主にイスラム系市民が住んでいる。それを包囲するように広がる新興住宅地には近代的な建物が目立ち、クロアチア系住民が多く住んでいる。その町の風情はオーストリア・ハンガリー帝国の影響が色濃い。「橋」が異なる2つの民族を結んでいる。


 「将兵」と「橋」の意味を理解したうえで、まとめてみよう。韓国将兵が行軍中、「橋」が壊れて転落した、ということは、想定外のことが生じ、「橋」は崩壊し、前進できなくなった。そこで韓国とその近隣諸国との関係を思い出す必要が出てくる。韓国将兵が進もうとした先は、日本海を渡った日本を意味していたと受け取れる。韓国が反日攻勢をかけ、相手側(日本)に侵攻するが、突然、その両サイドを結ぶ「橋」が壊れ、将兵は行進できなくなった、というわけだ。もう一つの解釈は、隣国・北朝鮮との関係で問題が生じ、南(韓国)と北を結ぶ「橋」が壊れたことを意味しているのかもしれない。

 明確な点は、両者には警告が含まれていることだ。文字通り、解釈すれば、「韓国の安全・外交」が危機に直面していること、そして韓国の国運が傾いてきていることを象徴的に表していると解けるのだ。


 忘れてはならない点は、「時の印」はあくまで警告だ。その印を深刻に受け止め、対応するならば、事が具体化する前に解決できるはずだ。「完全予定説」を主張したジャン・カルヴァンの神学の世界ではない。個人、民族、国家がその責任をシリアスに受け取り、悔い改め、再出発するならば、国運を立て直すことができるはずだ。朝鮮日報の記事は短いが、韓国民族に「時の印」を知らせているように感じるのだ。

北でも「3度目の正直」は本当?

 北朝鮮朝鮮中央通信(KCNA)は9日、潜水艦発射弾道ミサイル(SLBM)の水中発射実験に成功したと報じだが、米国や韓国から早速、「実験に成功しておらず、SLBMの開発レベルに過ぎない」という懐疑的な反応が聞かれた。そこで北は27日、SLBMの水中発射実験を映した動画を公開して、「それ見たことか」と胸を張った直後、今度は「その動画はユーチューブに掲載された米国のSLBM発射場面を編集したものだ」という声が上がってきた。

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▲宇宙監視中央センター(2013年1月14日、駐オーストリア北大使館の写真展示ケースから)

 韓国の聯合ニュースによると、「北朝鮮が公開した動画は、画面の構図や背景、ミサイルの様子などから、ユーチューブに掲載されている米のSLBM『トライデント1』の水中発射シーンと同様のものとみられる」と報じている。北がSLBM発射実験成功に拘るのは、「米国の核の傘を無効にし、米本土への直撃が可能となることで、米国の安全を脅かすことが可能となる」からだという。
 
 それにしても、北側が大成功と誇示する度に、米国からその真偽を疑う声が飛び出してくるのだが、そのパターンは今回も同じだ。想起してほしい。北は1998年8月、最初の試験衛星「光明星1号」を打ち上げ、宇宙軌道に乗せたと主張したが、同衛星から信号がキャッチできないこともあって、国際社会は「北朝鮮の初の人工衛星打ち上げ成功」説を否定した。そこで北は2009年、再び人工衛星「光明星2号」の打ち上げに成功したと表明し、宇宙から革命讃歌「金日成将軍の歌」や「金正日将軍の歌」が流れていると報じた。しかし、国際機関が北の人工衛星を必死に探したが、見つからなかった。人工衛星から発信される信号をキャッチできない場合、その人工衛星は墜落したか、軌道に乗らなかったことになる。

 北は国際社会の冷笑にも負けず、12年12月12日、銀河3号で光明星3号2号機を打ち上げ、衛星軌道への投入に成功し、ようやく同国初の人工衛星とした経緯がある(人工衛星の運用には失敗)。すなわち、北は、人工衛星打ち上げ成功宣言から14年後、本当に打ち上げに成功し、国際社会から認知を受けたわけだ(「北の若き独裁者と『人工衛星』の話」2014年10月17日参考)。

 北朝鮮は過去、3回、核実験を実施し、「核保有国」を宣言した(2006年10月、09年5月、そして13年2月の核実験)。核実験の場合、放射性物質が検出される。1回目は核実験2週間後、カナダの放射能監視所で北核実験による放射性物質(希ガス元素のキセノン133)が検出された。3回目も4週間後に放射性物質が検出されたから、「北が核実験を行った可能性がある」と一応受け取られた(2回目は発見されず)。

 しかし、北の核実験成功説に対して、欧米の科学者の中には依然、懐疑的な意見が強いのだ。ドイツ出身の物理学者は06年10月の北朝鮮の核実験直後、「核実験ではなく、通常TNT爆弾を利用した偽装実験の可能性が高い」と主張したが、同科学者は今でもその意見を変えていない。彼は机上の計算や偏見から言っているのではない。北朝鮮を何度も訪問し、同国の学者たちに授業をしてきた体験の持ち主だ。その彼曰く、「自分が知っている北朝鮮の科学水準では核兵器は製造できない」と断言する。

 人工衛星打ち上げ、核実験……本来、高度の科学技術知識とそれを支えるインフラが必要な実験で、北は少なくとも数回の実験を繰り返し、3度目で一応、国際社会から認知らしきものを手にしてきた。過去の例からみて、北がSLBM発射実験成功の認知を受けるまで少なくともあと2回の実験が必要となるわけだ。北でも「3度目の正直」は当てはまるのかもしれない。

 いずれにしても、SLBM発射実験成功報道に関連した北側の対応を見ていると、「1つの嘘を本当らしくするために、7つの嘘が必要となる」と述べた宗教改革者マルティン・ルターの言葉をどうしても思い出してしまう。

法王は革命家となれるか

 日本の天皇は民族の伝統の相続者だ。だから、天皇に「時代の潮流」に呼応して制度改革を求めることは本来出来ない。同じように、イエスの復活後、誕生したキリスト教の第1弟子ペテロの後継者、ローマ・カトリック教会最高指導者、ローマ法王は教会2000年の伝統の相続者と見なされてきた。だから、法王に教会機構の刷新を求めることは法王職の性格からいって少々無理がある。

 その「無理」があるローマ法王職に就いたフランシスコ法王に世界のカトリック教徒たちは固陋で頑迷な教会の刷新を願っている。信者たちに“ミッション・インポッシブル”な期待を抱かせた責任は南米出身のフランシスコ法王自身だ。

 コンクラーベ(法王選出会)で第266代のローマ法王に選出されたアルゼンチン・ブエノスアイレスのホルヘ・マリオ・ベルゴリオ大司教は法王名を“貧者の聖人”と呼ばれた「アッシジのフランチェスコ」を選んだ時、世界は南米出身のローマ法王が教会の伝統継承者ではなく、革命家として登場してきたことを直感したはずだ。フランチェスコの名前を法王名にしたローマ法王は歴代法王の中にはいなかった。当然だ。フランチェスコは当時のローマ法王イノケンティウス3世の教会の伝統を否定していった革命家だったからだ。どの法王が選出直後、革命家を名乗り出るだろうか。

 その革命家の名前を付けたフランシスコ法王は名前負けをせず、2013年3月の就任直後からバチカン法王庁の伝統を無視し、独自のカラーを出していった。選出直後の新法王の挨拶の時、教会の近代化を決定した第2バチカン公会議(1962〜65年)の提唱者ヨハネ23世の台詞を恣意的にコピーし、バチカン法王宮殿ではなく、ゲストハウスのサンタ・マルタに宿泊し、電話も自身でかけ、法王から直接電話を受けたブエノスアイレスのキオスクのおばさんが驚いたという話はメディアにも歓迎され、連日報じられた。復活祭や教会の記念日の説教は短く、礼拝後は警備員の注意を無視して、聴衆の中に飛び込んでいった。新法王が信者たちから寵愛を受けるのに多くの時間はかからなかった。南米出身の法王の一挙手一投足が信者たちにとっても新鮮であり、教会の雰囲気も激変していった、まさしく、新法王は革命家のイメージをまき散らしていったわけだ。

 その法王も今年3月で在位3年目に入った。世界の教会脱会者数は依然増加しているし、教会の日曜礼拝参加者は老人が多く若者たちの姿は少ない。神学生の数は減少を続けている。バチカンが公表した「2013年教会統計」によると、聖職者の予備軍ともいうべき神学生数はアフリカ教会を除くと世界的に減少している。11年から13年の間で神学生数は2%減少した。すなわち、南米初の法王がもたらした“フランシスコ効果”は法王周辺を除くとまったく見られず、教会は停滞し、信者は離れて行っているのだ。 

 ドイツ人作家のマルティン・モーゼバッハ氏は独週刊紙シュピーゲル最新号(5月22、23日号)とのインタビューの中で、「フランシスコ法王は教会組織、聖職者を批判することで人気を高めた法王だ」と指摘している、法王の人気は高まったが、教会や聖職者の信頼は益々地に落ちていったわけだ。厳しい批判だが、正鵠を射っている。
 実際、フランシスコ法王は就任直後から、バチカン関係者を“官僚主義者、キャリア思考者”と批判し、教会内に引っこまず外に飛び出し、苦しむ人々に福音を述べ伝えよ、と発破をかけていった。教会に批判的なメディアや信者たちも「その通りだ」と法王に喝采を送ってきた。教会を批判することで教会最高指導者フランシスコ法王は世界の寵愛を受けてきたのだ。

 ところで、新法王の実績といえば、教会の雰囲気を明るくしたことだろう。憂鬱な雰囲気が漂う欧州教会に南米の太陽をもたらした。それ以外では、財政問題を抱えていたバチカン銀行に専門家を投入し、改革を任せ、13年4月には、8人の枢機卿から構成された提言グループ(C8)を創設し、法王庁の改革<使徒憲章=Paster Bonusの改正>を委ねていったことだ。

 「法王就任3年目に入ったばかりだ。多くを期待することはできない」という意見がある。しかし、考えてほしい。フランシスコ法王が法王に就任した時、彼は既に76歳だった。今年12月で79歳になる。その法王にどれだけの時間が残されているのだろうか。
 フランシスコ法王は今年に入り、メキシコのテレビ放送とのインタビューの中で、「自身の法王の在位期間は4年から5年、ひょっとしたら3年から2年と短くなるように感じる」と語り、健康が悪化して職務が履行できなくなったならば、生前退位した前法王べネディクト16世の前例に倣って、退位する考えであることを示唆しているのだ。

 バチカン法王庁で今年10月4日から通常の世界司教会議(シノドス)が開催される。バチカンは昨年10月、特別世界司教会議(シノドス)を開き、「福音宣教からみた家庭司牧の挑戦」ついて協議したが、通常シノドスではその継続協議が行われる。そこでどのような改革が決定されるか、フランシスコ法王はリーダーシップを発揮するだろうか。

 バチカンのナンバー2、ピエトロ・パロリン国務省長官は、同性婚の合法化を明記した憲法修正案の是非を問うアイルランドの国民投票で賛成が過半数を占めたことについて、「教会の敗北だけではない。人類の敗北だ」と述べている。ということは、教会は同性婚問題ではそのドグマを変える意思はないことを明確にしたわけだ。今年1月に駐バチカン大使に任命された仏外交官Laurent Stefanini が同性愛者ということでバチカン側から信任を拒否されている。バチカン側はこの件ではこれまで正式には何も発言していないが、新任大使の人物を好ましくないと考えているはずだ。

 シノドスでひょっとしたら変化が考えられるテーマは、再婚・離婚者への聖体拝領だろう。信者たちの現実と教会の教えの間に乖離が広がり、信者の教会離れが急速に進んできた。そこで教会は現実問題への対応を強いられてきたからだ。教会が選んだ解決策は「寛容と慈愛」という魔法の言葉だ。教会の教えでは絶対に受け入れられない問題についても、「寛容と慈愛」で取り組んでいこうというのだ。換言すれば、教会のポピュラリズムだ。その最先頭で走っているのが南米出身のフランシスコ法王だ。
 ちなみに、フランシスコ法王は2013年11月28日、使徒的勧告「エヴァンジェリ・ガウディウム」(福音の喜び)を発表し、信仰生活の喜びを強調した。同法王は「教会の教えは今日、多くの信者たちにとって現実と生活から遠くかけ離れている。家庭の福音は負担ではなく、喜びの福音でなければならない」と主張している。

 フランシスコ法王への期待が大きければ、その願いが実現されない場合、失望は一層、大きくなる。フランシスコ法王が歴代の法王と同様、伝統の相続者に留まるか、それとも名前が示唆しているように、教会の既成秩序を根本から変える革命家であることを実証するか、その答えはまもなく出るだろう。

若者と対話できる“新しい言葉”とは

 アイルランドの同性婚の合法化を明記した憲法修正案の是非を問う国民投票の結果、支持が60%を超えた。予想外の高い支持だった。反対者は73万4000人に止まった。以下、バチカン放送独語電子版から、国民投票後のアイルランド国民の反応を紹介する。

 アイルランドのローマ・カトリック教会最高指導者、ダブリンの Diarmuid Martin 大司教は同国テレビ局「 RTE News 」とのインタビューの中で、「国民投票の結果は社会革命を意味する」と述べ、そのショックを吐露している。そして「教会は国民、特に青年層の意識からどれだけかけ離れていたか、“現実チェック”をしなければならない」と述べている。
 それだけではない。「社会革命はいま始まったわけではない。若者たちは少なくとも12年間、学校でカトリック教義を学んできた。教会が現在直面している課題は、若者たちと胸襟を開いて語り合い、その考えを理解できる“新しい言葉”を見出すことだ」と強調している。

 同大司教によると、「白か黒か」の2者選択的な思考はもはや役立たない。なぜならば、若者たちの思考は「白」でも「黒」でもない。彼らは「灰色」の地帯に生き、考えているからだという。アイルランド教会は国民投票を前に信者宛に「婚姻の意味」と記した書簡を送り、反対を呼び掛けてきたが、まったく効果がなかったわけだ。そのショックは想像以上だろう。
 アイルランド教会では1970年、80年代に数百件の聖職者の性犯罪が発覚し、欧州全土のキリスト教会に大きな衝撃を投じたことはまだ記憶に新しい。教会側は聖職者の未成年者への性的虐待事件を庇い、隠してきたとして厳しく批判された。多くの国民が教会をもはや信頼していないことを、今回の国民投票結果は明らかにしている。

 一方、反対を支持してきた同国独立上院議員の Ronan Mullen 氏は国民投票結果について、「伝統的な家庭像が崩壊の危機に直面している」と分析している。憲法に「婚姻が性差に関係ない」と明記されることになり、同性婚は憲法が保障する権利を享受できるようになる。今回の国民投票の結果は同性婚問題だけではなく、社会全般に大きな影響を与えることは必至だ。

 エンダ・ケニー首相は、「小国からの大きな福音だ」と評し、「わが国はこれまで以上に公平で寛容、自由な国となった」と喜びを表明している。同国では1993年まで同性愛者は刑法によって処罰を受ける対象だった。すなわち、犯罪者扱いだった。それが同性婚の権利を憲法に明記する国となったわけだ。国民投票結果は文字通り“社会革命”だったわけだ。

 当方は大司教の、「若者たちは12年間、学校で宗教授業を受けてきた」という言葉にショックを受けた。若者たちはカトリック教会の世界観、人生観、そして家庭観を知らないのではない。良く知っているのだ。しかし、彼らの多くは教会が反対する同性婚の合法化を支持した。12年間の宗教授業は全く無駄だったのだろうか。大司教は、「若者たちと対話できる新しい言葉が必要だ」と述べたが、「新しい言葉」とは何か、具体的に何も説明していない。

 南米出身のフランシスコ法王は就任後、清貧を勧め、プロトコールに拘らない新しい法王像を見せている。そのローマ法王が若い世代の心を掴むことができる“新しい言葉”を見つけ出すだろうか。「あれか」(白)、さもなければ「これか」(黒)ではなく、ひょっとしたら、「これかもしれない」(灰色)と揺れ動く世界に生きる若き世代の理解者に、78歳の高齢のローマ法王がなれるだろうか。同性婚の合法化を支持する若き世代に、「人間はこうあるべきだ」と自信をもって語り掛けることができるだろうか。アイルランドの国民投票結果は、ローマ法王に難しい課題を突き付けている。

「お金」に潜む宗教性について

 ギリシャのブチス内相が、「わが国にはもはや支払う金がない」と慨嘆した記事を読んだ時、ドイツの哲学者 Christoph Turcke 氏が独週刊誌シュピーゲルのインタビュー記事(5月16日号)の中で語った内容を思い出した。同氏は「お金」の宗教的ルーツを説明していた。以下、同氏の発言内容を紹介しながら、「お金」について考えていきたい。

 人類は「お金」を発見した、というか、考え出した。「お金」の最初はもちろん、今日流通している紙幣やコインではなかった。同氏は「なぜ、人々は金の話となれば冷静に話せなくなるのか。それはお金の誕生には宗教的起源があるからだ」と強調し、その宗教的ルーツについて語る。

 いつからか分からないが、人類は「高き天上にいましたもう存在(神々)」に対して罪意識があった(キリスト教では原罪)。そして、破壊し、全てを無にする天災を恐れてきた。天災を回避するために、神々に対し、罪を償わなければならないと感じてきた。だから、神々の怒りを鎮めるため最も大切なものを供え物として捧げた。最初は人間が供え物となった(例・旧約聖書「創世記」のアブラハムのイサク献祭)。それから贖罪用の動物(古代ギリシャ時代は「牛」)を供え物とした(独語の「お金」Geldはラテン語ではPecuniaだが、その語源は「牛」を意味するPecusだ)。その後、金、銀、銅といった貴金属がその贖罪手段として登場した(金は太陽を、銀は月を、銅は愛と美の女神ビーナスを映し出すと信じられていた)。そして現在、流通している紙幣とコインの「お金」が生まれてきたわけだ。それらに共通している点は、贖罪手段だったということだ。すなわち、私たちが今、利用している「お金」は本来、贖罪手段であり、「支払う」とは、贖罪のために供え物を捧げることを意味していたわけだ。

 贖罪手段(支払手段)は時代が進むにつれて、より軽く、交換しやすく、人間に負担が少ない方法へと変わっていった。21世紀の今日、デジタル通貨も誕生した。それにつれて、「お金」のルーツ、贖罪という宗教性は希薄化していき、「お金」は単なる購買力を表す手段とみなされてきたわけだ。

 実物経済より多くの「お金」が市場に流れ、投機に走る人間も出た。使い切れないほどの「大金」を抱える富豪者が生まれてきた。しかし、巨額の富を抱える資産家も資産減少という悪夢に脅かされる。「お金」が購買力を失えば、その瞬間、紙屑に過ぎなくなるからだ。その意味で、古代から現代まで「お金」には常に恐れが付きまとってきたことが分かる。

 話を現代に戻す。Turcke氏は、「巨額な工費で建設された欧州の欧州中央銀行は神殿であり、その銀行頭取は神父だ。彼は信者たちの罪の贖罪に耳を傾ける聖職者の役割を果たしている」というのだ。すなわち、銀行とは、「お金」の価値を集団で守る場所であり、預金者は銀行の「お金」の管理能力を信じなければならない。その信頼が崩れれば、銀行は存在できなくなる。世界で席巻している金融危機は顧客(信者たち)の銀行(神殿、教会)への信頼喪失がその根底にあるわけだ。

 興味深い点は、ギリシャの財政危機に対する欧州のリベラルな経済学者たちの主張だ。「債務者が困窮生活を余儀なくされたとしても、その債務は返済されなければならない」と説教する。贖罪には苦悩は当然含まれる、という考えがあるからだ。だから、彼らは非情なぐらい節約政策を債務国に迫ることができるわけだ。ギリシャの財政赤字問題を見ていると、「お金」には宗教的側面があることが理解できる。

 ところで、21世紀に生きる私たちは古代人のような罪意識や贖罪感も持ち合わせていない。使えきれないほどの資産を持つ大富豪が慈善活動に走る場合もあるが、多くは贖罪意識などない。だから人々の間に貯金通帳の厚さで格差が出てくる。「お金」に絡んで犯罪や紛争が絶えないのは、われわれが次第に「お金」の宗教的ルーツから遠ざかってきたからだろう。

 「お金」は神々の怒りを鎮め、天災を回避するため罪の償いとして支払ってきた。われわれが罪意識を失い、贖罪意識を無くしたとしても、天災は昔のように襲ってくる。現代人が感じる漠然とした「不安」とは、天災を回避するために必要な贖罪を支払っていない、という後ろめたさに起因するのではないか。経済学的にいえば、われわれは債務未払い状況にある、という不安だ。

 蛇足だが、キリスト教会は、「お前たちは罪人だ。だから汗と涙を流して得たお金を供え物として捧げるように」と説教してきた。そして、教会の「献金」制度が出来た。ところが、献金制度の前提である信者たちの罪意識が乏しくなると、当然のことだが、献金は集まらなくなる。教会側は信者たちに、「お前たちは罪人だ」と繰り返し説教しなければならなくなる。現在のキリスト教会が財政危機に陥るのは、信者の減少、教会への信頼喪失の理由からだけではない。罪意識のない信者が増えてきたからだ。贖罪意識が伴わない「お金」が今、市場に溢れているのだ。

「寛容」は同性婚を支える魔法の言葉

 当方はこのコラム欄で数回、劇作家オスカー・ワイルド(1854〜1900年)の話を紹介した。当方の義兄はワイルドの作品が大好きで、「幸福な王子」を紙芝居にしたほどだ。ワイルドは当時、同性愛者として刑罰に処され、刑務所生活を過ごした人物だ。彼が22日の母国アイルランドの国民投票結果を知ったならば、どのように考えるだろうか。アイルランドで同性婚を合法化する憲法修正案が承認されたのだ。

 アイルランドで22日、同性婚を合法とする憲法修正案の賛否を問う国民投票が実施され、賛成が62・1%で承認された。その結果、同性婚の権利は従来の法的な平等から一歩前進し、憲法にその権利が明記されることになる。

 約320万人のアイルランド国民を対象に、「婚姻は将来、性差を問題としない」の是非が問われた。そして「イエス」が過半数を獲得したことで、「婚姻は男と女の間の夫婦」と規定してきた同国憲法41条は修正されることになった。
 ちなみに、海外居住の若いアイルランド人は今回の国民投票に一票を投じるため母国に帰国するなど、国民投票に対する国民、特に若い世代の関心は高かった。

 同国では2010年以降、同性婚は通常の夫婦と法的には同じ扱いを受けてきた。具体的には、遺産相続、滞在権利などは同等だった。今年に入り、庇護、養子の権利も認められた。そして今回、同性婚の合法が憲法に明記されることになったわけだ。

 同国では1993年まで同性愛者は刑法によって処罰を受ける対象だった。すなわち、犯罪者扱いだった。先述したように、あのオスカー・ワイルドは同性愛行為の罪で刑務所生活を送っている。ワイルドが刑務所生活を送っている時、家族は名前を変え、社会の批判から逃れる生活を送らざるを得なかったのだ(「あのオスカー・ワイルドがいたら」2015年2月11日参考)。

 同性婚問題では同国のローマ・カトリック教会は強く反対してきた。今回の国民投票でも信者宛に「婚姻の意味」とタイトルが付いた書簡を送り、反対を呼び掛けてきた。しかし、教会が国民を説得できる時代は同国では久しく過ぎ去っていた。

 アイルランド教会では1970年、80年代に数百件の聖職者の性犯罪が発覚し、欧州全土のキリスト教会に大きな衝撃を投じたことはまだ記憶に新しい。教会側は聖職者の未成年者への性的虐待事件を庇い、隠してきたとして厳しく批判された。同国のエンダ・ケ二ー首相(当時)は2011年7月、バチカン法王庁を名指しで非難し、議会が非難声明文を採択したのはアイルランドが初めてで、異例のことだった(アイルランド国民の約89%はカトリック教徒)。国民投票の結果、同性愛者の婚姻が憲法上公認されたことで、教会は益々その発言力を失うことになるのは明らかだ。

 最後に、同性婚と「寛容」について当方の考えを少し書く。

 少なくとも欧州では同性婚は市民権を獲得した。そして、それを可能にした最大の原動力は、あの「寛容」という魔法の言葉だ。人は等しく「寛容」でありたいと願っている。なぜならば、自身の弱さも認めてほしいからだ。だから、「同性婚は社会の少数派であり、少数派への『寛容』は社会の成熟度を証明する」と一般的に受け取ってきた。

 ただし、少数派への「寛容」といっても、少数民族のチベット人やクルド人への「寛容」とは明らかに違う。「私」の性向、性差への「寛容」だ。極めて個人的な欲求、弱さを社会的少数派という枠組みの中に包み、その権利を擁護していった。換言すれば、同性愛者ではない大多数の人々が「少数派へ」の寛容という時、実際は彼ら自身の弱さへの寛容を求める声でもあったはずだ。少数派の同性婚が短期間で市民権を獲得できたのは、「多数派への寛容」を願う人々の支持があったからだ。

 同性婚を合法化することで同性婚者を含む私たち全てが本当に幸せとなるかは分からない。なぜならば、明確な価値観の裏付けのない「寛容」は人を容易に自堕落へと陥れる危険性があるからだ。伝統的な価値観は崩壊したが、「多数派へ」の寛容を支える新しい価値観はまだ構築されていないのだ。

「私」はどこにいるの?

 独週刊誌シュピーゲル電子版(5月22日)の科学欄に衝撃的な記事が掲載されていた。イタリアの神経外科医 Sergio Canavero 氏が2017年に不治の病の体を持つ患者の頭部を脳死患者の体に移植する計画を進めているという。トリノ出身の同外科医によると、患者(30歳のロシア人)は既に見つかっている。技術的には全てOKだというのだ。6月中旬には、米国で開催される専門医会議の場で頭部移植手術に関する計画を公表するという。頭部移植計画が伝えられると、専門医ばかりか、キリスト教会などから「倫理的面から頭部移植には同意できない」という声が既に飛び出している。

 心臓移植の時も激しい抵抗があった、なぜならば、ひょっとしたら心臓周辺に人間の精神生活を司る中心(私)があるのではないか、と考えられていたからだ。他人の心臓を移植するということは、移植された患者に心臓提供者の「私」が同時に移植されるのではないか、といった素朴な懸念があったのだ。

 実際は、心臓移植で人格が変わる、といった懸念は全く杞憂に過ぎないことが判明した。だから、今日、心臓移植は決して珍しくなくなった。心臓が「私」の住処ではなく、単なる血液や栄養素の運搬ポンプ機能を担っていることが明らかになったからだ。
 ちなみに、心臓が人間の中心と考えられていた時代、四肢五体の中でも頭部はそれほど重要な役割を担っていないと受け取られてきた。だから、遺体のミイラ化の時、心臓は丁重に扱われたが、頭は手荒い扱いを受けたという記録が残されているほどだ。

 しかし、脳神経学者は今日、頭の中に精神的機能を司る神経網が張り巡らされていると主張している(「ミラーニューロンが示唆する世界」2013年7月22日参考)。他者に同情したり、怒ったりする心の働きが脳神経のどの部分によって生じるか、今日の脳神経学者は知っている。だから、脳神経学者は「私」(心)は頭の中にある、とかなり確信している。

 その脳神経網が広がる頭を他人の体に移植した場合、「私」は新しい体を主管し、管理できるだろうか。それとも、体がレジスタンスを起こし、頭と戦争を挑むだろうか。SF的な世界だが、その懸念は当然だろう。
 
 ところで、頭部移植は心臓のそれより複雑であり、熟練の外科医にとっても大変だ。Canavero 氏の説明によると、手術前、移植側と移植される側の両患者をある一定期間冷凍して保管する。手術時間は約36時間で、100人前後の医者が手術を担当する。手術で最も困難な点は、脊髄を傷つけないで頭部を分離することだ。そのため、脊髄損傷の治療で使用されるポリエチレングリコール (PEG)が利用されるという。文字通り、歴代最大規模の手術となる。

 以下は、頭部移植手術が実施されたという仮定に基づくシナリオだ。頭が新しい肢体に移植され。手術は成功し、患者は目を覚ます。彼は移植された体を操作し、彼自身も手術前の自分に何も変化がないことを感じる。そうなれば、「私」の心は頭部の脳神経網のどこかに隠れていることが実証されたわけだ。「私」は頭部にいたのだ。これまで予感されてきたが、頭部移植手術で実証されたことになる。ノーベル賞級の大発見だ。頭部移植手術後の「私」の状況を懸念してきた倫理委員会はこの結果を見て、少しはホッとするかもしれない。

 次は第2のシナリオだ。頭部が健康体の体に移植されたが、「私」に変化が見られた場合だ。新しい肢体を受けた頭部がその体の影響を受けて、その精神生活が変わった場合だ。最悪の場合、移植された肢体に頭が主管されるような事態が生じた場合だ。
 頭部移植ではないが、腎臓移植をした女性の報告がある。彼女は手術後、無性に走りたくなったという。手術した医者によると、腎臓提供者はマラソンを趣味としていたという。移植前後で患者の生活様式に変化が見られたという報告は少なくない。

 第2シナリオに直面して脳神経外科医や哲学者は頭を抱えるかもしれない。心臓ばかりか、頭部にも「私」が発見できなかったからだ。頭と他の肢体を完全に管理できる「私」はどこに潜んでいるのか。この哲学的な問題が改めて浮上してくるのだ。

 この問題は哲学的、医学的レベルだけに留まらない。極言すれば、人類の人生観、世界観のパラダイムが変わるかもしれないのだ。「私」はひょっとしたら「私」の四肢五体のどこにも存在しないかもしれないのだ。脚や手に「私」が隠れていることは想像できない。「私」が存在していても可笑しくない肢体がもはやなくなったのだ。脳神経学者も研究に意欲を失い、哲学者はこの新しい挑戦に頭を抱え込むことになる。

 この難問に直面して、「いよいよ俺の出番だ」と張り切る学問があるとすれば、詐欺師と久しく馬鹿扱いされてきた心霊学者かもしれない。彼らは「私たちには肉体だけではない、霊の世界が存在する。肉体は霊が暫定的に宿る場所に過ぎない」と主張してきたからだ(「心霊現象と科学者たち」2007年7月9日参考)。彼らにとって、肉体は頭部を含め、電波を受信するラジオ(ハード)に過ぎず、電波(ソフト)そのものではないのだ。心霊学者の夜明けを迎えるか、頭部移植手術の結果を待たなければならない。
 17年に実施予定の頭部手術の行方が人類の歴史に新しいページを開くか、それとも傲慢な人間の無謀な冒険として歴史に記録されるだろうか。いずれにしても、「私」探しはいよいよクライマックスを迎える。

夏の「缶ジュース」と北の「核兵器」の話

 当方がまだ日本にいた35年前以上昔の話だ。蒸し暑い夏の日だった。暑いから当然のように冷たい缶ジュースに手が出た。友人は飲まない。“金欠か”とおもって、「俺がおごるよ」と誘ったが、「君、その缶ジュースは砂糖水に過ぎないよ」といい、絶対に飲もうとしなかった。
 当方は友人の説明を聞きながら、砂糖水に過ぎないことを知っているが、蒸し暑さに負けて缶ジュースを飲む人間と、缶ジュースが甘味料過多の水だから、暑くても飲まない人間の2通りのタイプがいることを学んだ。友人は後者であり、当方はどうみても前者だった。

 もう少し説明する。当方が友人に感動を覚えたのはその知識、すなわち、缶ジュースが砂糖水だという点ではない。その程度の知識なら、当方も持っている。蒸し暑いにもかかわらず、冷たい缶ジュースが砂糖水だから飲まない、という「知識と行動」の一致に驚いたのだ。大げさに言えば、知識が行動を制御し、管理できる人間だからだ。余りにも卑近な例だが、35年前の時のことを今でも覚えているところを見ると、当方には新鮮な驚きだったのだろう。

 友人が大学院を行かずに仕事を探すと言いだした時、教授が、「大学院で勉強を続けるべきだ」と必死に説得したという。教授が授業できない時、彼が授業を担当した、という噂があったほどだ。その知識の豊富さは格別だったが、それ以上に、感情に支配されないクールさに当方は脱帽せざるを得なかったのだ。当方は知識や情報とは関係なく、その時々の感情や心の囁きに応じて行動するタイプだから、友人のような人間を見る度に、羨ましく思うのだ。

 友人のことを思い出しながらこのコラムを書いていると、突然というか、必然的にいうべきか、北朝鮮の金正恩第一書記のことが浮かび上がってきた。彼は友人のような人間ではないことは間違いない。国の指導者には、確かな知識と情報に基づいて行動を制御できる人が就くべきだが、怒りや懐疑心から約70人の幹部たちを既に粛清してきた若き独裁者・金正恩氏にはそのようなことは期待できないだろう。

 当方も感情主導型人間だが、独裁者ではない。しかし、金正恩氏は独裁者であり、彼の手には核兵器の核ボタンが握られているのだ。金正恩氏は朝鮮半島ばかりか、世界を恐怖に陥れることができる。北朝鮮は核兵器の小型化に成功したという。潜水艦発射弾道ミサイル(SLBM)の実験も行っている。

 その国の指導者・金正恩氏は、核兵器が大量破壊兵器であることを知っているはずだ。しかし、核兵器は如何なる状況下でも絶対に使用できない武器であること
を同時に知っているだろうか。少々、不安になる。金正恩氏は友人のような人間ではないのだ。
 
 繰り返すが、蒸し暑い時、砂糖水に過ぎないと知りながらも缶ジュースに手が出る程度の「知識と行動」のアンバランスは大きな問題をもたらさないが、大量破壊兵器と知りながら、相手への憎しみや怒りを制御できす、核ボタンをいつでも押してしまうような人間が朝鮮半島に君臨しているのだ。世界はもはや安眠できない。金正恩氏の「知識と行動」のバランスが大きく崩れないように、国際社会は細心の注意を払わなければならないだろう。

日本人もやはり被害者だった

 第2次世界大戦後の世界の政治秩序構築は戦勝国の主導のもとで進められていったことは周知の事実だ。その代表的機関が国際連合だろう。国連の最高意思決定機関の安保常任理事国5カ国はいずれも先の大戦の勝利国か、ないしは支援国側だった。その結果、日本はドイツと共に大戦の全ての責任を背負わされ、多くの戦時賠償金を支払ってきたことは誰でも知っている。

 ニューヨークで開催中の核拡散防止条約(NPT)再検討会議で日本が提出した核被爆地の広島市、長崎市の視察要請に対し、中国側が強く反対したという。国際会議は国益の外交戦だ。中国が最終文書の中で広島、長崎市の視察要請が記述されることに反対したということは、中国の国益に反する何らかの理由があるからだ。

 15日のニューヨーク発の読売新聞電子版によると、「15日の会議で日本の佐野利男大使は、『次世代への教育のため(被爆地訪問は)最も効果的な方法の一つ』と述べ、記述を復活させるよう求めた。これに対し、中国の傅聡軍縮大使は、『なぜ中国のような国にまで訪問を強要するのか』と改めて反対を表明した上で、『もうたくさんだ』と語った」という。

 それでは、具体的に何が中国の国益に反するのか。考えられる点は、広島、長崎両市が世界最初の核兵器による被害地だという歴史的事実だろう。その事実が記述されれば、先の大戦の加害者側オンリーの日本に、被害者の側面が浮かび上がってくるからだ。当たり前の事実だが、画一的な思考しかできない国の指導者には容認できないのだろう。

 そうだ。日本はやはり被害国だったのだ。欧米諸国の対日経済封鎖が誘因となって、当時の日本政府は戦争に駆り出されたという理由からではない。戦争で無差別攻撃を受け、多数の国民を失ったという意味から、被害国でもあったという事実だ。

 東京大空襲を想起してほしい。多くの国民が米軍の空爆の犠牲となった。軍事関連施設以外の無差別攻撃は国際法違反だ。その意味で、日本人はやはり被害者でもあった。ドイツでも同じ例がある。ナチス・ドイツ軍の特定民族への大虐殺は議論の余地はない戦争犯罪だ。同時に、米英の連合国軍のドレスデン市大空爆も国際法に違反した蛮行だった。ドレスデン市はその無差別攻撃で完全に破壊された。犠牲者の多くは軍人ではなかった。

 戦争で一方的な被害国、加害国は存在しない。戦争を始めた国は加害国だが、戦争誘発の原因をみれば、100%加害国の責任とはいえない場合も少なくない。白と黒を区別するように、戦争の加害国、被害国の区別は簡単ではないのだ。

 さて、日本側がNPT再検討会議で被爆国の立場から加盟国に広島、長崎両市の視察を要望することは理解できる。大戦の加害国だから、被爆地の視察を要望できないという理屈はない。一方、「反日」を国策とする中国は、日本も同じように大戦で多くの犠牲を払ったという事実が再認識されることを避けたいのではないか。中国にとって、日本は加害国であり続けなければならないのだ。

 第2次世界大戦後70年が経過する。大戦の戦勝国家がその利益を無条件に享受できた時代は過ぎた。一方、敗戦国となった国もいつまでも自虐史の中に沈没する必要はない。戦争に対する反省、教訓を未来の発展に生かすべきだ。歴史が未来の発展の妨害となれば、それはもはや教訓ではなく、障害物に過ぎない。

 戦争は人類全てにとって敗北を意味する。同時に、戦争という悲劇から多くを学んだ側が最終的には勝利者となる。日本が敗戦後、近隣諸国へ経済支援を積極的に実施し、平和国家の建設に務めてきたことは、日本が過去の悲劇から少なくとも教訓を学んできたからだろう。一方、過去の一時期の結果に拘り、過去の奴隷となるならば、その国は本当の敗戦国となってしまう。「中国と韓国が被爆地の視察に反対するのは、歴史から学ぶ姿勢が乏しいからだ」と批判を受けても仕方がないだろう。

 日本は第2次世界大戦に対し責任を回避できない。同時に、被害国でもあったのだ。日本の過去を激しく批判する中国や韓国は被害国の特権をいつまでも独占出来ない。“戦後”の真の勝利国を決定するのは、世界の発展のためにどれだけ貢献したかだ。その意味で、日本人は自信を持つべきだ。一方、中国、そして韓国は戦後の世界貢献度レースでは、政府開発援助(ODA)の国別比較を指摘するまでもなく、日本の実績に比べて見劣りする。しかし、レースはまだ終わっていない。両国は日本に追いついき、追い抜くことができるのだ。グズグズしている場合ではない。70年前に終わった戦争に関連した反日批判は「もうたくさんだ」。
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