ウィーン発 『コンフィデンシャル』

 ウィーンに居住する筆者が国連記者室から、ウィーンの街角から、国際政治にはじまって宗教、民族、日常の出来事までを思いつくままに書き送ります。

2015年04月

慰安婦はノーベル平和賞に該当せず

 世界で最も名誉あり、評価の高い賞はなんといってもノーベル賞だろう。だから、毎年ノーベル賞受賞者発表のシーズンを迎えると、世界のメディアは受賞候補者を紹介する記事を掲載し、人々の関心を否応なしに刺激する。
 ただし、数多いノーベル賞の中でも毎年、議論を呼ぶのは平和賞だ。物理学賞や化学賞とは違い、はっきりとした実績がなく、ここ数年、将来への期待が含まれる受賞者が多く選出されたこともあって、平和賞は政治的な思惑が濃い、といった批判の声をよく耳にするようになった。

 韓国メディアによると、同国の韓国女性弁護士会と女性平和外交フォーラムが28日、旧日本軍の慰安婦だった女性をノーベル平和賞候補に推薦する意向を表明したという。このニュースに接した時、「ノーベル平和賞は廃止すべきだ」という意見はひょっとしたら正しいのではないか、と思ったほどだ。慰安婦はノーベル平和賞候補に該当しない。その理由を以下、説明したい。

 慰安婦を平和賞に推薦する団体はその理由として、「慰安婦生存者らは女性に対する暴力反対と戦争犯罪に対する反省を促すなど女性人権と地域平和のために貢献している」(中央日報日本語電子版)からだという。上記の理由から慰安婦を平和賞に本当に推薦したいと考えているか、といった疑いが出てくる。

 世界には、女性の人権、権利向上のために努力している数多くの女性NGO団体が存在するし、長い歴史と実績もある個人、団体が多数存在する。慰安婦が平和賞候補に該当しないと考える最大の理由は、特定の国(日本)への憎悪が背景にあることだ。憎悪が動機となっている団体、個人が平和賞を受賞すれば、ノーベル平和賞は文字通り、その瞬間、その死刑宣言を表明したことになるだろう。世界の平和を願って賞を創設したアルフレッド・ノーベルはどう考えるだろうか。

 「女性への性犯罪防止を訴える」というのならば、慰安婦たちは過去、韓国国民に向かって女性への性犯罪防止のため活動した実績があるだろうか。慰安婦たちは駐韓国日本大使館前の反日集会やデモに動員されるだけで、肝心の「女性への性犯罪防止」運動には、これといった実績がないのが現実だろう。

 韓国は先進諸国の中でも性犯罪発生率が最も高い国の一つだ。世界で女性が最も多く性犯罪の犠牲となっている国の慰安婦たちが「女性への性犯罪防止」云々の理由で平和賞を受賞できるだろうか。

 韓国では2月、姦通罪が廃止されたが、ここにきて売春合法化の動きも出てきている。慰安婦たちは何をしているのか。女性への性犯罪関連法が廃止されるというのに、彼女たちは反対、抗議のデモ集会を開いたのか。
 残念ながら、慰安婦たちは一部の反日運動家の道具となって反日デモ集会にしか顔を出さない。これでは「女性への性犯罪、暴力反対云々」といった推薦文句は空言に過ぎないといわれても仕方がないだろう。

 慰安婦が「戦争時の性犯罪の犠牲者」というならば、韓国兵士のベトナム戦争時の戦争犯罪も旧日本軍のそれと同列にして女性の権利のために訴えるべきだが、慰安婦たちが韓国兵士の性犯罪に抗議したというニュースは聞かない。

 慰安婦たちを批判する考えはない。一部の反日職業活動家たちが彼女たちを反日運動の道具として利用しているのだ。批判されるべきは彼らだ。ノーベル平和賞候補云々は慰安婦たちを不必要な騒動に陥れるだけで、ひいては彼女たちを侮辱することにもなる。

ナチス政権との決別と「戦争責任」

 オーストリアで27日、ナチス・ドイツ軍解放と第2共和国建国宣言70年を祝う国家行事がウィーン市のホーフブルク宮殿でドイツのガウク大統領ら多数のゲストを迎えて挙行された。

_LEC1014a
▲第2共和国建国祝賀国家行事で演説するフィッシャー大統領(大統領府公式HPから)

 オーストリアは1938年、ナチス・ドイツに併合された後、ウィーン市が第3帝国の第2首都となるなど、ナチス・ドイツの戦争犯罪に深く関与してきたが、旧ソ連赤軍によって解放された。そして70年前の今月27日、カール・レンナーを首班とした臨時政権が発足し、第2共和国の建国が宣言された。

 オーストリアは戦後、ナチス・ドイツの「最初の犠牲国だった」としてナチス・ドイツの戦争犯罪から距離を置いてきた。同国は1938年から45年の間、ヒトラー政権に強制的に併合された。1943年の「モスクワ宣言」では、「ナチス・ドイツ軍の蛮行は戦争犯罪であり、その責任はドイツ軍の指導者にある」と明記されたこともあって、オーストリアにはヒトラー政権の戦争犯罪責任はない、という立場だ。

 それに対し、同国の戦争責任を追及する声が出てきた。国連事務総長を務めたワルトハイム氏が大統領に就任(任期1986年7月〜92年7月)すると、世界ユダヤ協会から「ワルトハイム氏はナチス戦争犯罪に関与した疑いがある」と糾弾する声が飛び出した。戦争犯罪容疑を否定するワルトハイム氏に対して国際社会からも激しい批判が出、同氏は再選出馬を断念せざるを得なくなったほどだ。

 同国は戦後、長い間、ナチス政権の犠牲国の立場をキープし、戦争責任を回避してきたが、フフランツ・フラニツキー首相(任期1986年6月〜96年3月)がイスラエルを訪問し、「オーストリアにもナチス・ドイツ軍の戦争犯罪の責任がある」と初めて認めたことから、同国で歴史の見直しが始まったわけだ。そこまで到達するのに半世紀余りの月日が経過した。

 ホーフブルク宮殿の国家行事でフィッシャー大統領は、「多くの国民はナチス・ドイツに反対し、抵抗したことは疑いないが、同時に、考えられないほど多くの国民がナチス・ドイツを支援し、その戦争犯罪に積極的に関与した。意識的に無関心を装った国民もいた。長い間、戦争責任に対して沈黙してきたことは遺憾だった。わが国は戦争犯罪に対して義務と責任を担うべきだった」と強調し、「欧米連合軍の勝利は非人道的な戦争犯罪を繰り返してきたナチス・ドイツからわが国民を解放してくれた」と指摘し、連合軍に感謝することも忘れなかった。

 オーストリアは1945年、ナチス・ドイツ軍から解放された後、55年まで10年間、米英仏ソの4カ国の占領期間を経た後、1955年、再独立して今日に至る。ナチスの戦争犯罪への関与を認めた後、オーストリアはナチス・ドイツ軍の犠牲者に対する国家救済基金を創設し、強制労働者への賠償金支払い、ナチス犠牲者追悼碑建立などを行い、過去の歴史の清算に乗り出してきた。フィッシャー大統領は、「4月27日はわが国建国の土台であり、再生と新しいスタートを記念する日でもある」と述べ、演説を結んでいる。

 ちなみに、金融危機下にあるギリシャでは、ナチス・ドイツ軍の占領時代(1941〜44年)に対する戦時賠償金(2787億ユーロ=約36兆3100億円)支払いをドイツ政府に要求する動きがあるが、「ドイツだけではない。オーストリアもギリシャに対して戦時賠償金を支払うべきだ」という声がアテネから出てきた。オーストリアは戦後、ナチス政権の犠牲国という理由から莫大な戦時賠償金支払いを逃れてきたが、「ナチス・ドイツ軍の戦争犯罪の関与を認めた以上、戦時賠償金を払うのが道理だ」という主張だ。戦後70年の年月が過ぎたが、「過去の完全な決着は不可能」と述べたメルケル独首相の今年3月の訪日時の発言を思い出す。

天災に隠された「意味」を解く

 南米チリのカルブコ火山が43年ぶりに大爆発したというニュースを聞いた時から考えていることがある。その噴火する火山の姿と吹き上げる火山灰などの写真を見る度に、天災と言われる出来事の「意味」を考えるのだ。人災とは違い、天災には「意味」が含まれていると信じているからだ。

 両者の違いは、簡単にいえば、人災は人間が原因となって発生した不祥事だ。技術的ミス、操作ミスも含む人間がもたらした事故だ。一方、天災は人間が関与する部分は皆無ではないが、多くは自然現象と受け取られる。もちろん、地球温暖化や公害問題などが絡み、人災と天災の間に簡単には線を引けなくなったが、おおざっぱにいえばそうだろう。

 チリの火山が爆発したというニュースを聞いた時、当方はまず、「チリ周辺で過去、何か大きな出来事があったか」「なぜ、チリの火山が爆発したか」を考えた。人間社会の出来事が天災となって跳ね返ってくる場合も排除できないからだ。

 そうこう考えていると、今度はネパールの大地震だ。3000人以上の犠牲者が出たという。チリの火山爆発、ネパールの大地震と地球の地殻で想像もできない大きなエネルギーが発生しているのかもしれない。

 先述したように、当方は大規模な天災には必ず何らかの「意味」があると信じている。オーストリアの心理学者ヴィクトール・フランクル流に表現すれば、ロゴス、意味を読み取ろうとする作業だ。人間を含む森羅万象が神のロゴスから創造されたとすれば、天災にもロゴスが含まれているからだ。

 天災がある度に、一部の知識人や宗教家から「天罰」という言葉を聞く。最近では、東日本大震災の時、東京都の石原慎太郎知事(当時)が、「日本人の我欲を洗い落とすための天罰だ」と発言している。また、ローマ・カトリック教会のオーストリア教会リンツ教区のワーグナー神父は、米国東部のルイジアナ州ニューオリンズ市を襲ったハリケーン・カトリーナ(2005年8月)について、「同市の5カ所の中絶病院とナイトクラブが破壊されたのは偶然ではない。神の天罰が下されたのだ」と発言し、大きな波紋を投じたことがある。

 「天罰」説は「意味」の読み取り作業の結果かもしれないが、当方は「天罰」説より、神からの「メッセージ」説を支持する。なぜならば、神は人間を罰することに忙しい存在ではなく、人間が更なる間違いを起こさないように警告する意味合いが強いと考えるからだ。

 東日本大震災による津波は天災であり、福島第一原発事故は人災の様相を多く含んだ出来事といえるだろう。大震災後、大津波についてよりも福島第一原発事故について多くの関心と議論を呼んだのは後者が人災だからだ。天災について、人間は議論しないが、人災の場合、無数の議論が出てくるからだ。

 それでは、「天災」にメッセージが含まれているとすれば、大切な点はその意味解きだ。チリの火山噴火、ネパールの大地震もその被害を受けた国民、国家に何か問題があったというより、それらの天災を通じて、21世紀を生きるわれわれ全てが考えなければならないメッセージが含まれていると考えるべきだろう。

 神を信じない多くの人々にとっても天災の「意味」解きは、災害防止上からも有益となるだろう。少なくとも、無益ではないはずだ。自然のパワーを目撃することで、われわれは謙虚とならなければならないことを思い出す。同時に、生かされていることへの感謝を取り返す契機ともなる。

 チリの火山噴火とネパールの大地震はわたしたちに何を伝えようとしているか。当方は明確な回答をまだ見出せないが、天災から私たちが何も学ばないとすれば、亡くなった多くの犠牲者に申し訳ない。天災に隠された「意味」を解き、そこから学ぶことが、生きている私たちが犠牲者に捧げる最大の供養となるのではないか。

容疑者の3人に1人は外国人?

 オーストリアのメディアが13日報じたところによると、同国の昨年の犯罪容疑者数は25万5815人だったが、そのうち8万9594人はオーストリア人ではなかった。すなわち、容疑者の3人に1人は外国人だったのだ。同国のヨハナ・ミクルライトナー内相が同国野党「自由党」の質問に答えたものだ。

 外国人容疑者の出身国をみると、トップはルーマニアでその数は1万269人だ。以下、ドイツ9260人、セルビア9065人、トルコ7217人、ボスニア・ヘルツェゴビナ5985人、ハンガリー4366人、スロバキア3616人、ロシア3111人、ポーランド3100人、そしてクロアチア2496人の順となっている。

 オーストリアは特別州の首都ウィーン市を含むと9州から構成されているが、外国人の犯罪件数が最も多いのは音楽の都ウィーン市でその容疑者数は3万5880人だ。次は二―ダーエステライヒ州1万519人、チロル州1万434人と続く。 

 犯罪別にみると、最も多い外国人犯罪は身体侵害で3万7578件、次に窃盗3万7025件、麻薬密売2万364件、詐欺2万331件だ。外国人が関与した殺人も108件という。

 以下は犯罪統計とは直接関係がない。
 アルプスの小国オーストリアでは、地理的に近いバルカン諸国出身の外国人が多いが、ここにきてイラン、イラク、アフガニスタンといった地域出身者も増えた。外国人率20%を超えるスイスほどではないが、オーストリアにも外国人居住者が年々増えている。
 当方の周辺にもトルコ人、イラン人、セルビア人、アフガニスタン人など外国人が多く、様々な言語が飛び交っている。標準ドイツ語を学びたければ、ドイツ放送でニュースを聞く以外にないほどだ。

 当方が約35年前、初めてオーストリア入りした時、外国人と呼ばれる存在は珍しかった。だから、市内を歩いていたら、オーストリア人から好奇心の目で見られたものだ。通り過ぎても振り返って見る市民もいた。それほど、外国人はめずらしい存在だったのだ。市内でアフリカ系黒人に出会うことも当時、なかった。現在、ナイジェリア人、スーダン人、エジプト人、アルジェリア人など北アフリカ・中東出身の外国人が市内に溢れている。

 冬の朝を思い出す。路面電車に乗った時、オーストリア人の乗客は一人の老人だけで、あとの乗客は外国人らしき人々だけだった。オーストリア人の老人は周囲を見渡しながら、驚くというより、自分は果たしてどこに住んでいるのか、と考え込むような顔をして座っていたのを鮮明に覚えている。

 外国人といっても、当方を含むアジア系外国人は外観から見ても外国人と直ぐわかるが、セルビア人やクロアチア人となれば、オーストリア人と外観上はほとんど変わらない。ちなみに、ロシアやウクライナ人などスラブ系出身者の場合、オーストリア人とは外観上違いがある。

 ところで、人生の半分以上をオーストリアに住んで居ると、「自分は外国人だ」という意識が否応なく強くなる。だから、久方ぶりに、日本に帰ると、外見上では外国人ではない自分を発見して少々戸惑う。日本に帰れば、もはや外国人ではなく、一人の国民だが、長い間、外国人意識で生活してきたこともあって、帰国しても直ぐに国民意識に戻れないのだ。

 「外国人」という言葉には、異邦人、デアスポーラといった詩的な響きは少なく、政治的、社会的、経済的な響きが強い。だから、「条件と交渉によってはその出自も変えられます」といった商人のような立場だ。

 先の「犯罪容疑者の3人に1人は外国人」といったニュースを読むと、オーストリア社会に完全に溶け込めない「外国人」という地位の寂しさと不安定さを感じてしまうのだ。

日本は韓国の「誰」に謝罪すべきか

 日本の人気作家・村上春樹氏が共同通信社とのインタビューの中で、「ただ歴史認識の問題はすごく大事なことで、ちゃんと謝ることが大切だと僕は思う。相手国が『すっきりしたわけじゃないけれど、それだけ謝ってくれたから、わかりました、もういいでしょう』と言うまで謝るしかないんじゃないかな。謝ることは恥ずかしいことではありません。細かい事実はともかく、他国に侵略したという大筋は事実なんだから」と答えたという。もちろん、村上氏の会見内容は韓国メディアで大きく取り上げられた。

 謝罪は決して一方的な行為ではない。加害者側が謝罪しても、被害者側がそれを良しと受け入れない限り、加害者の謝罪は成立しない。だから、加害者は被害者が謝罪を受け入れるまで繰り返さなければならない。村上氏流にいえば、「わかりました、もういいでしょう」というまで日本は謝罪を繰り返さなければならないことになる。
 
 ここまでは人気作家の主張に首肯できるが、問題が出てくる。誰が「わかりました。もういいでしょう」と言えば、日本側の謝罪は成立したと「判断」できるかという点だ。換言すれば、韓国の誰が「わかりました、もういいでしょう」と答える権限を有してるかだ。
 一般的には、漠然としているが韓国国民だろう。具体的には、最高指導者の韓国大統領かもしれない。恣意的かは分からないが、村上氏はもっとも肝心な点には何も言及していない、共同通信記者は本来、村上氏にこの点を質問すべきだった。謝罪を成立させるためには、当然のことだが、歴史問題に終止符を打てる権限を有する相手がはっきりしていなければならないからだ。

 「河野談話」、「村山談話」など、日本政府は過去、韓国側に何度か謝罪してきた。「日本側は過去、謝罪表明していない」という韓国側の主張は事実に反する。もちろん、作家村上氏の論理からいえば、日本は謝罪を表明していないことになる。なぜならば、被害者側の韓国が「わかりました。もういいでしょう」といっていないからだ。日韓両国間のこの認識の格差は、謝罪の相手がこれまであいまいだったことから生じてきたのではないか。

 謝罪相手として韓国国民について考える。戦後70年を経過した今日、戦時体験者は少なくなってきた。韓国が謝罪要求する慰安婦の数も54人だ。すなわち、日本が謝罪しなければならない国民は数的には韓国内で益々少数派となってきた。だから、日本側が少数派の韓国国民に向け謝罪表明したとしても、大多数の韓国国民はまったく他人事のように受け止めることになる。だから、「日本は謝罪表明していない」といった誤認が生まれてくるのだろう。

 もう少し具体的に考えてみよう。朴槿恵大統領が「わかりました、もういいでしょう」といえば、日本の謝罪は受け入れられたことになるか。朴大統領の支持率は30%から40%前後に過ぎない。国民の少数派の支持しか受けていない大統領が日本側の謝罪を受け入れ、「わかりました、安倍晋三首相、もういいでしょう」と答えたとしても、韓国国民の70%が「われわれは朴大統領に同意しない」と反論すれば、日本側の謝罪表明は水泡に帰するのだ。

 賢明な日本人ならば、「それでは韓国国民の50%、理想は3分の2以上の支持を受けている韓国大統領が登場するまで日本側は謝罪表明を保留すべきだ」と考えるかもしれない。安倍首相が焦って国民の30%しか支持されていない朴大統領に謝罪表明し、朴大統領から「わかりました、もういいでしょう」と言われたとしても、朴大統領が退任し、新しい大統領が誕生すれば、前政権の謝罪受け入れ表明など忘れ去られ、新しい謝罪要求が飛び出してくるからだ。
 少なくとも、過去はそうだった。日本政府は韓国に何度か謝罪を表明したが、韓国側は「謝罪を受け取っていない」と感じてきたのだ。日本は謝罪対象を間違ってきた、という結論になるのだ。

 戦後70年を迎えた。戦時体験した日韓両国の国民は少なくなってきた一方、地球の温暖化や難民対策など諸難問に直面している今日、「きのう」のことに多くの時間やエネルギーを注ぐことは賢明だろうか。安倍首相が「平和な社会、国家を建設することが誤った過去への最高の反省」と考えるとすれば、非常に冷静な現実認識というべきかもしれない。

 作家・村上氏は「謝罪は恥ずかしいものではないから、『わかりました、もういいですよ』と言われるまで謝罪を繰り返すべきだ」というが、謝罪表明の繰り返しは決して誇れるものではない。ましてや、謝罪表明は消費財ではない。たたき売りのように連発するわけにはいかない。
 一国の最高責任者による謝罪表明は、一度で十分だ。謝罪要求する側も相手の謝罪が不十分と感じたとしても、過去を昇華し、未来に向けて出発するために受け入れる以外に解決策がないだろう。

 「相手側がわかりました。もういいでしょう」というまで謝罪すべきだという村上氏の謝罪論は、「謝罪表明」という本来深刻な行為の純度を薄めることになり、ひいては謝罪の相手を侮辱することにもなるのではないか。
 世界的作家の村上氏は「相手が受け入れないのだから、繰り返す以外に仕方がないだろう」とため息交じりに反論されるかもしれない。当方は「日本が何度も謝罪を繰り返すから、韓国は受け入れないのだ」と、少々斜めに見ている。

「同性婚」支持者のどこが間違いか 

 同性カップルに「結婚に相当する関係」と認めて「パートナーシップ証明書」を発行することを盛り込んだ東京都渋谷区の「同性婚」条例(正式名称「渋谷区男女平等及び多様性を尊重する社会を推進する条例」)が施行したことから、日本で今、同性婚問題が大きな話題を呼んでいるという。欧州では同テーマは久しく議論され、同性婚は既に市民権を獲得した感がある。そして、“それゆえに”というべきか、欧州キリスト教文化の崩壊現象が至る所で見られだした。
 当方は、同性婚が普遍的な家庭像を破壊し、社会の土台を根底から揺り動かす危険な試みと受け取っている。そこで同性婚問題の背後にあるジェンダー・フリーの思考について、ここでは読者とともに考えたい。

 人間は誰でも「価値」を有する存在であり、民族、宗教、性差などの理由からその価値、人権が蹂躙されてはならない。これは「世界人権宣言」の中にも記述されている内容だ。

 (「世界人権宣言」第2条「すべて人は、人種、皮膚の色、性、言語、宗教、政治上その他の意見、国民的若しくは社会的出身、財産、門地その他の地位又はこれに類するいかなる事由による差別をも受けることなく、この宣言に掲げるすべての権利と自由とを享有することができる)

 ところで、ジェンダー・フリーを主張する人々は男女の「性差」による区別を「差別」と指摘し糾弾する。例えば、欧州では同じ仕事をしているにもかかわらず男性の給料と女性のそれとに差がある時、女性側から男女平等の給料を要求する声が当然出てくる。この場合、「性差」の区別は「差別」だという主張に一理ある。
 
 「差別」という用語は本来、社会学用語だ。「性差」の区別を「差別」と受け取るジェンダー・フリーの人々がその「差別」を撤回するために社会運動に乗り出すのは当然だろう。「差別」は社会によってもたらされた現象と考えるからだ。フランスの実存主義者シモーヌ・ボーヴォワールはその著書「第2の性」の中で「人は女に生まれるのではない。女になるのだ」と書いているが、それに通じる考えだ。

 もちろん、ジェンダー・フリーの人々も「性差」が生物的に選択の余地なく、否定できないという認識はあるが、その「性差」による社会的区別は「差別」であり、「悪」と受け取るから、独裁下の弾圧に反対するように、その撤廃のために様々な社会運動を行う。

 問題は次だ。「性差」の区別からもたらされた「差別」を撤回しようと腐心するあまり、「性差」と「差別」が引っ付き、「性差」まで「悪」のように考えてしまう傾向が見られることだ。「性差」も「差別」と考えれば、それを撤回しなければならない。その思考の延長線上に同性婚容認の動きが出てくる。

 「性差」は「差別」ではない。「性差」は生物学的に厳に存在する事実だ。「世界人権宣言」を想起するまでもなく、「性差」に関係なく、男も女も人間としての価値は等しい。「性差」には価値の「差別」はない。あるとすれば、「性差」による社会的、経済的、生物的な「位置」の違いだろう。そして、位置の違いは「差別」ではないのだ。

 ジェンダー・フリーを主張する人々が「価値」の平等だけではなく、「位置」の平等まで要求すれば、問題が生じてくる。なぜならば、全ての人が同じ位置を占めることはできないからだ。簡単な例を挙げてみる。体力の弱い女性に「位置」の平等を訴えて、強靭な体力を要する仕事を課せば、「性差」の撤回どころか、人権蹂躙で訴えられるだろう。一般的に考えてみる。会社で社長という位置に部長が「位置」の平等を訴えて反旗を翻せば、会社は経営できなくなるだろう。
 「位置」の平等はその組織、そして人間の存続を脅かす。同性婚が世界の過半数を占めた場合、人類は果たして存続できるだろうか。「主体」が存在すれば、本来、必然的に「対象」が生まれてくる。そして「主体」と「対象」が円満な関係を構築できれば、両者は作用し、存続し、繁栄できる。その「主体」と「対象」の関係を、対立、搾取・差別の関係と考える思考の背後には、共産主義思想の残滓がある。

 ジェンダー・フリーを主張する人々は、「価値」と「位置」を同列視し、後者に前者が享受している平等を付与すべきだと要求しているのではないか。繰り返すが、「価値」は等しいが、「位置」(位置が要求する役割)は必然的に異ならざるを得ないのだ。

「国連の精神」に反する韓国の外交

 韓国聯合ニュースによると、韓国国会外交統一委員会は22日、国連に8月14日を旧日本軍の慰安婦被害者追悼の日に指定するよう上程したという。8月14日は韓国光復節(植民地解放)の1日前であり、慰安婦だった金学順さんが1991年に初めて実名で慰安婦だったと公表した日にも当たるという。


 韓国政府は民間組織の反日運動を利用して欧米諸国で慰安婦像の設置を進める一方、政府首脳陣は世界に告げ口外交を展開してきたが、いよいよ国連で慰安婦に関連した国際デーを制定しようと、反日の駒を一歩進めてきたわけだ。当方は韓国側の今回の動きに本当に危機感を感じる。

 国連デー制定は提案国の説明を受け、通常、国連総会で採決して決定する。韓国側が慰安婦の犠牲者を追悼する国連デーを提案したとしても日本が強く反対するだろうし、加盟国の中には日本の主張に同意する国が少なくないはずだ。

 韓国側には、「国連の主要舞台で慰安婦問題が協議されれば、国連デーが制定されなくても痛手とはならない」という読みがあるかもしれないが、韓国側の上程は日韓両国関係に消すことができない大きな傷跡を残すことになるだろう。非常に危険な冒険だ。

 当方はこのコラム欄で慰安婦問題について数回書いてきた。基本的ポイントは、慰安婦問題は韓国の一部の職業的反日運動家がその憎悪から推し進めてきたものであり、憎悪が原動力である以上、成果はもたらさないということだ。慰安婦問題で焦点であった「旧日本軍による強制……」云々も、それを大きく報道してきた朝日新聞社が「誤報だった」と認め、社長自ら謝罪表明した以上、もはや説得力が乏しくなった。

 慰安婦問題は基本的に女性の人権を蹂躙する性犯罪だ、それは戦時だけではなく、平時でも世界中で今も生じている犯罪行為だ。その性犯罪の撲滅という目的なら理解できるが、特定な戦争の、特定な軍隊の性犯罪を批判することは理性的ではない。なぜならば、旧日本軍の兵士たちの性犯罪を批判するならば、ベトナム戦争時の韓国兵士の性犯罪はどうなのか、といった議論が必ず出てくるからだ。被害件数という点では後者のほうがはるかに多い。もちろん、米軍兵士の戦時の性犯罪も忘れてはならないだろう。すなわち、戦争時には、女性は常に子供と共に最大の犠牲者だったのだ。

 韓国側は「国連は2005年、ホロコーストの犠牲者を想起する国際デー(1月27日)を制定した。だから、慰安婦の犠牲者追悼の国連デーが出来ても不思議ではない」と主張するが、大きな間違いを犯している。日米間を含む戦争と、一定の民族への虐殺行為(ホロコースト)とは基本的に異なっていることを、韓国側は多分、恣意的に忘れているのだ。

 ユダヤ人へのナチス軍の民族大虐殺は人類史上まれな犯罪だが、日米間を含む第2次世界大戦は戦争だ。ドイツが戦後、ユダヤ民族に対して無条件に賠償と謝罪を繰り返してきた。弁解の余地のない非人道的犯罪だったからだ。一方、戦時賠償を要求するギリシャや他の欧州諸国への戦争賠償問題は外交文書で一旦合意すれば、その後は「国際法上、如何なる義務からも解放される」というのがドイツ政府の立場だ。

 終戦する度、敗戦国や植民国が加害国に対して戦時賠償を要求できるのならば、欧州でも無数の戦時賠償問題が表面化し、欧州各国は身動きできなくなるだろう。戦時賠償問題は決して第2次世界大戦だけではなく、19世紀、18世紀の戦争被害まで及ぶかもしれない。そうなれば、欧州で相互間の良好な関係を築くことはもはや期待できなくなる。

 世界の紛争解決と平和促進を憲章に掲げる国連の舞台で韓国が憎悪に基づく動議を上程し、加盟国間の紛争を煽ることは、国連の精神に反する行為だ。国連事務局のトップに韓国人を頂く国が「国連の精神」に反する行動をとれば、後進民主国として国際社会から揶揄されだけではなく、潘基文国連事務総長は益々、肩身の狭い思いをするだろう。
 ひょっとしたら、国連事務総長として3選の可能性のない潘基文氏は、次期韓国大統領のポストを狙って母国から上程された国会決議案の採択に向け、腐心するかもしれない。そうなれば、国連への信頼は完全に地に落ちることになる。

独の「ナチス戦争犯罪」と「戦後70年」

 ドイツ北部のリューネブルク(Luneburg)の地方裁判所で21日、元ナチス親衛隊(SS)のオスカー・グレーニング(Oskar Groning)被告(93)に対する公判が始まった。同被告はアウシュビッツ強制収容所でナチス・ドイツ軍の約30万件の戦争犯罪に関与した責任が問われている。

 グレーニング被告は公判初日、「1942年、アウシュビッツ収容所に到着した直後、多くのユダヤ人がガス室で殺害されていることを知った。どうか許してほしい」と告白し、「私の罪に対する刑罰は裁判所が決定することだ」と述べた。同地裁には、アウシュビッツ強制収容所の生存者やその家族など約60人が裁判の行方を追った。

 独週刊誌シュピーゲルによると、アウシュビッツ収容所で簿記帳簿係りだった同被告は、「ある夜、息が出来ず苦しむ声が聞こえてきた。ガス室で死と戦う人間の喘ぐ叫び声だった。数分後、叫び声は絶えた。その夜、その叫び声を忘れようとして酒を多く飲んだが、忘れることはできなかった。70年の年月が過ぎても、その夜の叫び声を忘れることはできない」と述べている。同被告はハンガリーから護送されてきたユダヤ人の荷物や金銭物を他の親衛隊などに分け与えたりしたという。

 ハノーバー検察当局は15分余りの起訴状朗読の中で、「被告は自身の行為を過小評価していた。その責任分担は限られていたとしても 戦争犯罪を支援した事実は変わらない」と述べた。それに対し、被告は全ての罪状を認めた。

 グレーニング被告は終戦後、戦争捕虜として英国の刑務所に収容された後、故郷のドイツに戻り、家庭をもって妻と子供と共に一般の国民として生きていたが、1980年代半ばになって自身の過去を明らかにした。アウシュビッツ収容所のガス室の存在を否定する者に対して、同被告は裁判でガス室の実態を証言してきた。

 フランクフルト検察側は1985年、アウシュビッツ収容所で働いていた同被告に対し、「具体的な犯罪行為を実証できない」として起訴を一旦断念したが、ドイツの刑法が修正され、戦争犯罪に直接関与しなかった場合でも起訴が可能となった。2011年5月、ミュンヘン地裁がナチス・ドイツ軍のソビボル強制収容所(Sobibor)の元看守だったジョン・デムヤンユク被告(John Demjanjuk) に対し、禁固5年の判決を下している(同 被告は2012年3月、91歳で亡くなった)。それを受け、グレーニング被告の起訴の道が開かれたわけだ。

 グレーニング被告が有罪判決を受けた場合、少なくとも3年の禁固刑が予想されている。公判は7月27日まで続く予定だ。アウシュビッツ強制収容所に関連した最後のナチス戦争犯罪裁判として多数の外国ジャーナリストが裁判の行方をフォローしている。

 同被告は過去、独週刊誌シュピーゲルとのインタビューで、「自分は戦争犯罪を直接は犯していないが、ナチス・ドイツ軍に関わったことをユダヤ民族に許しを請いたい」と述べる一方、「戦争犯罪に直接関わったことがない者に法的刑罰を加えることは納得できない」と不満を吐露している。

 ナチス・ドイツ軍の蛮行から70年以上が過ぎた。ナチスの戦争犯罪に直接関与した人間は既に存在しない。そして、ジョン・デムヤンユク被告やグレーニング被告のように、ナチス戦争犯罪には直接関与しなかったが、「その犯罪現場にいた」という理由から、その責任が問われてきた。ギリシャから戦時賠償要求が飛び出すなど、戦後70年を迎えたが、ドイツは今なお、その「負の歴史」の幕を閉じることができないでいるのだ。

聖トーマスに学ぶ「疑い」の哲学

 聖トーマスをご存知だろうか。キリスト教会ではイエスの使徒の一人、トーマスは疑い深い人間のシンボルのように受け取られてきた。「ヨハネによる福音書」によると、トーマスは復活したイエスに出会った時、イエスが本物かを先ず確認しようとした。イエスのわき腹の傷に自分の手を差し込んで、その身体を確かめている。イエスはトーマスの求めに応じたが、「見ないで信じる者は、さいわいである」と述べている。だから、教会で疑い深い信者がいたら、「君は聖トーマスのようだね」といってからかう。

 その疑い深いトーマスをフランシスコ法王は12日、サン・ピエトロ広場の説教の中で「トーマスに大きな共感を感じる」と述べ、その理由を説明している。

 「トーマスは復活したイエスが十字架で亡くなられた自分の愛する主なのかを確かめたかった。そのため、復活イエスに手を差し伸べ、十字架の痕跡を確認しようとした。そして復活イエスだと分かると、『私の主よ』と叫び、神を称えている。トーマスはイエスの復活の意味を誰よりも理解していたのだ」という。

 カトリック教会では、敬虔な信者はイエスの復活を確認する必要はなく、ただそれを信じればいいと考える。しかし、フランシスコ法王は、聖トーマスの願いに嫌な顔せずに受け入れたイエスのやさしさとその復活イエスに感動した聖トーマスに共感を覚えると告白しているのだ。フランシスコ法王による聖トーマスの名誉回復だ。ちなみに、正教会ではトーマスを「フォマ」と呼び、「研究熱心なフォマ」と評価し、復活祭後の日曜日を「フォマの日」としている。

 ところで、「疑い」は本来、「信仰」の反対を意味するものではない。信じたいがゆえに疑い、確認しようとする。ドイツの小説家ヘルマン・ヘッセはその著「クリストフ・シュレンブフの追悼」の中で、「信仰と懐疑とはお互いに相応ずる。それはお互いに補い合う。懐疑のないところに真の信仰はない」と述べているほどだ。

 情報社会に生きる現代人は一般的に疑い深い。新しい考え、情報が出てきた場合、最初からそれを信じる者は少なく、先ず疑い始める。そして、その「疑い」は信じるためというより、その「疑い」を正当化するために疑うことがほとんどだ。その点、聖トーマスの「疑い」とは明らかに違う。

 現代人には不可知論者が多い(「欧州社会で広がる不可知論」2010年2月2日参考)。無神論者とは違い、神の存在を否定しないが、信じない。その理由は神の存在が実証できないからだ。そして不可知論者はいつまでも疑い続ける。彼らは次第に、信じることが敗北を意味すると感じだす。だから、不可知論者の「疑い」が信仰に変ることは稀だ。「知識とともに疑いが強まる」といった独文豪ゲーテの言葉を思い出す。

 なお、「ヨハネの黙示録」第3章には、「あなたは、冷たくも熱くもない。むしろ、冷たいか熱いか、どちらかであってほしい。熱くも冷たくもなく、生ぬるいので、わたしはあなたを口から吐き出そうとしている」という聖句がある。不可知論者は生ぬるい状況と例えることができるかもしれない。その点、無神論者は神がいないと確信しているから、冷たいがそこには「疑い」がない。

地中海が本当に墓場となった!

 当方はこのコラム欄で「地中海が墓場になる!」というタイトルのコラムを書いた。2013年10月17日だ。そして15年4月20日の今日、「地中海が本当に墓場となった!」を書いている。リビアとイタリア最南端の島ランべドゥーザ島沖の間で18日から19日にかけ700人余りの難民を乗せた船が沈没し、犠牲となったというニュースを聞き、「地中海が文字通り、墓場となった」と感じたからだ。

 マルタのジョセフ・ムスカット首相は13年10月12日、イギリスのBBC放送とのインタビューの中で「欧州連合(EU)は空言を弄するだけだ。どれだけの難民がこれからも死ななければならないか。このままの状況では地中海は墓場になってしまう」と嘆いたが、その嘆きが残念ながら現実となったのだ。今年に入って1500人以上の難民が地中海で溺れ死んでいる。昨年は3419人の難民が地中海で亡くなっている。
 
 同首相の嘆きは、イタリア最南端の島ランペドゥーザ島沖で13年10月3日、難民545人が乗った船が途中火災を起こし沈没し、360人が犠牲となった事故直後に飛び出した。今回は約700人、ひょっとしたら900人以上の難民が溺れ死んだという情報が流れている。

 欧州社会は犠牲者の数にショックを受けている。オーストリア国営放送は19日、「過去、最大の犠牲者が出た模様だ」と報じ、抜本的な難民対策をEU諸国に求めている。人道的観点から難民の受け入れを要求する声が政治家たちから一斉に聞かれる。EUのフェデリカ ・モゲリーニ外務・安全保障政策上級代表は、「欧州は躊躇している場合ではない」と、加盟国に緊急の対策を呼びかけている。ドイツのシュタインマイヤー外相は、「難民を欧州に運ぶ人身売買組織への対策を強化すべきだ。そしてリビアに安定した民主政権が発足できるように支援すべきだ」と指摘。オーストリアのミクルライトナー内相は、「リビア国内に国連難民高等弁務官事務所(UNHCR)が管理する難民収容所を設置し、難民審査を実施し、難民と認められた人だけを欧州に送る体制を作るべきだ」と提案している、といった具合だ。

 EUは13年の悲劇を受けて北アフリカ・中東からの不法移住者の動向を迅速にキャッチするために監視システムの構築を決定。イタリア当局は海難に遭遇している難民ボートを救済するため海上警備を強化することを決定したが、問題は救援した難民をどの国が収容するかだ。その点ではEU内で解決の見通しはこれまで立っていない。

 国内に外国人問題を抱える欧州では難民の殺到は治安問題に発展しかねない危険がある。そのうえ、難民の中にイスラム過激派組織のメンバーが潜伏しているという情報も流れ、どの国も難民の受け入れには慎重だ。また、難民を運ぶ人身売買組織の暗躍も大きな問題だ。救援された難民の一人は、「われわれは950人ほどが船に乗っていた。人身売買業者はわれわれを船底の部屋に閉じ込め、鍵をかけ出てこれないようにした」と証言している。

 通称“アラブの春”と呼ばれる民主化運動は中東・北アフリカ地域の政情を激変させると共に、イスラム過激派の台頭をもたらしてきた。そして大量の難民が紛争地から逃れ、安全な地を求めて移動を始めているのだ。
 難民問題はもはや一国の次元で解決できる課題ではない。EUは加盟国と連携してその持てる全ての人的、経済的資源を投入して、難民救済に当たるべきだ。
訪問者数
  • 今日:
  • 昨日:
  • 累計:

Recent Comments
Archives
記事検索
QRコード
QRコード
  • ライブドアブログ