ウィーン発 『コンフィデンシャル』

 ウィーンに居住する筆者が国連記者室から、ウィーンの街角から、国際政治にはじまって宗教、民族、日常の出来事までを思いつくままに書き送ります。

2015年01月

独仏で「反イスラム主義」への警戒心

 仏風刺週刊紙「シャルリーエブド」本社襲撃テロ事件直後、「言論の自由」が大きなテーマとなり、パリで開かれた反テロ国民行進では、多くの国民が「私もシャルリー」という紙を掲げ、テロリストに10人のジャーナリストを殺された風刺週刊紙への連帯を表明したが、事件から2週間目を迎える今日、欧州では、焦点が「言論の自由」から「過激な反イスラム主義への警戒」へと移ってきている。

 仏風刺週刊紙テロ事件やユダヤ系商店テロ事件を受け、フランスやドイツで反イスラム勢力や極右勢力が勢いをつけるだろうと予想され、警察当局は警戒を強めていた。実際、テロ事件直後の12日、ドレスデンの「西洋のイスラム教化に反対する愛国主義欧州人」( Patriotischen Europaer gegen die Islamisierung des Abendlandes、通称ぺギダ運動)の慣例月曜日デモ行進には約2万5000人(主催者側発表では約4万人)が集まり、過去最大のデモ行進となった。フランスではテロ事件後、国内の50カ所以上のイスラム系関連施設が何者かに火を付けられたり、襲撃されている、といった具合だ。

 ドイツでは、反イスラム主義を標榜するぺギダ運動に懸念の声が高まっている。ヴルフ前大統領が在職中、「イスラム教もドイツの一部だ」と表明し、国民の結束を呼びかけたが、メルケル首相もここにきて「イスラム教徒はわが国民だ」と強調し、仏のイスラム過激派のテロ事件で国民が反イスラム主義に走らないように警告を発しているほどだ(「ケルン大聖堂の照明を消せ」2015年1月3日参考)。

 そのような時、ドレスデンのぺギダ運動は、19日の慣例デモ集会を中止すると表明したのだ。その理由は「ルッツ・バハマン氏(Lutz Bachmann)らぺギダ指導者に対してイスラム過激派のテロの危険性が出てきたからだ」という。それを受け、ドレスデン警察側は同日予定されていた反ぺギダ集会の開催も中止させた。ちなみに、「デモ行進中止はテロの脅威に屈服することを意味する」として、「結社・集会の自由」への蹂躙だという批判の声が聞かれる。

 独週刊誌シュピーゲル電子版によると、ドレスデンではデモ集会が中止されたが、他の主要都市で同日、ぺギダ支持者と反ぺギダ派のデモが開かれている。例えば、ミュンヘンでは反ぺギダ集会に1万2000人が集まり、歌やダンスをしながら、反イスラム主義に対して反対を呼び掛けた。マクデブルクでは約6000人が反ぺギダ・デモを行ったが、ぺギダ支持派デモは600人と小規模に留まった。首都ベルリン、日本人が多く住むデュッセルドルフ、ニュルンベルク、ヴュルツブルクでも両者のデモ集会が行われたが、参加者数はいずれも1000人から数百人だ。警察当局によると、ぺギダと反ぺギダのデモ集会は先週よりその動員数を減らしているという。

 反イスラム主義の拡大はフランスやドイツだけではない。当方が住むオーストリアでもファイマン首相は先日、メルケル首相に倣い、「イスラム教はわが国の一部だ」と述べ、国民の反イスラム主義への傾斜に警告を発している。同首相の口からはもはや「言論の自由」といった言葉は聞かれなくなった。

 なお、テロ事件が起きた7日、フランスの小説家ミシェル・ウエルベック(Michel Houellebecq)氏が最新作「服従」を発表した。同小説は、2022年の大統領選でイスラム系政党から出馬した大統領候補者が当選するというストーリーだ。フランス革命で出発し、政教分離を表明してきた同国で将来、イスラム系政党出身の大統領が選出されるという話は、欧州最大のイスラム社会を有するフランスでは非現実的といって笑ってはいられない。フランス国民がこの小説の内容をどのように受け取っているのか、とても興味深い。

英首相は「言論の自由」根本主義者?

 ワシントン発時事によると、「キャメロン英首相は18日に放送された米CBSテレビのインタビューで、フランスの風刺画週刊紙シャルリーエブドがイスラム教預言者ムハンマドの風刺画を掲載したことに関し、『自由社会には信教をめぐって(他者の)感情を害する権利は存在する』と述べた」という。これはローマ法王フランシスコが「言論の自由にも制限がある」と語ったことへの反論と受け取られている。

 キャメロン首相は、どのような宗教、その指導者も風刺できる「言論の自由」があるだけではなく、その宗教的感情も害する権利があると主張しているわけだ。英国メディアは王室関係者、政治家まで自由に批判し、時にはきつい風刺記事も書く。それに対し、風刺の対象になった関係者はメディアを訴えることができるし、必要なら法的手段に出ることも可能だ。メディア側と対象となった側の両者にはその内容が問題の場合、対応手段があるわけだ。

 だから、「どうして他者の宗教的感情を害することは許されないのか」という疑問をキャメロン首相は抱えているわけだ。王室や政治家のスキャンダルを書く自由を認めるのならば、どうして他者の宗教的感情を害する「言論の自由」を認めないのか、という問題だ。

 当方はフランシスコ法王の弁護人ではないが、なぜ他者の宗教的感情を害することは「言論の自由」ではないかについて考えてみた。宗教的感情はその信仰を有している人間の非常に主観的な世界だ。その感情を測量で測ることはできないし、法廷で説明することも難しい。「私の宗教的感情はあなたの風刺で何パーセント傷つきました」とは主張できない。穿った見方をすれば、傷ついてはいなくても、そのように装って好ましくない風刺を抑えこむこともできる。本人以外、その被害度を証明できないし、ひょっとしたら、本人もできないだろう。

 当方はこのコラム欄で「改宗した難民へ“信仰テスト”を実施」というタイトルの記事を書いたが、難民が本当にイスラム教からキリスト教へ改宗したかどうかを限りられた時間で判断することは至難の業だ。ほぼ不可能と言ってもいいだろう。ましてや、その宗教的感情となれば、雲をつかむよう内容で理解できにくい。それゆえに、宗教的感情を害する「言論の自由」は自制しようといった、一種の“ジェントルマン協定”が出てくるわけだ。

 もちろん、宗教の教義や聖職者の言動に対し、自由に批判できるし、糾弾も許されている。神学論争は今も昔も認められていることだ。当方はこのコラム欄で何度もローマ・カトリック教会の聖職者の未成年者への性的虐待事件を書いてきたし、聖職者のスキャンダルも報じてきた。それらは事実関係が明確である限り、「言論の自由」が許す範囲と思うからだ。

 キャメロン首相が、他者の宗教的感情を害し、自由に風刺できると考えているとすれば、同首相は「言論の自由」の根本主義者と言わざるを得ない。如何なる自由も制限があるし、越えてはならない領域がある。その一つは、他者の宗教的感情への一方的な攻撃だ。

 宗教的感情だけを特権扱いすべきではない、と反論されるかもしれない。しかし、考えてほしい。何らかの宗教を信じる人は心の中にその祭壇を持っているようなものだ。そして、その信仰的感情を害するという行為は、その人の心の祭壇を土足で踏むような行為に匹敵する。ペンはその人の聖域まで侵入してはならないのだ。

 シャルリーエブド最新号は世界のイスラム教国で怒りと憤慨をもたらしている。既に同紙本社テロ事件よりも多くの死傷者を出しているのだ。だから、宗教的感情を尊重すべきだ、と強調したいのではない。他者の宗教的感情を害した場合、どのような反応が生まれてくるか、加害者側も予想できないからだ。

イスラム過激派が提示した問題

 フランスの風刺週刊紙本社とユダヤ系商店への襲撃テロ事件は欧州全土に大きな影響を与えている。フランスのテロ事件を米国内多発テロ事件に倣って、“欧州の9・11テロ事件”と呼ぶ西側テロ専門家もいるほどだ。

 米国では、9・11テロ事件後、当時のブッシュ政権は対イスラム過激派対策を最優先課題に掲げ、国内外の対策を実施していったように、欧州でもフランス、英国、ドイツを中心に国内に潜伏するイスラム過激派一掃とシリア・イラク内戦帰国者への監視強化などを進めている。

 ここでは、イスラム過激派テロリストが異口同音に聖戦を掲げ、アラーの為に死を恐れないと豪語する点について、少し考えてみた。彼らはアラーの聖戦のために戦死したとしても天国に行き、大きな祝福を受ける、と信じているのだ。

 人間はその行為がまったく無意味と分かれば、行動するエネルギーが湧いてこないものだ。逆に、社会で認知されない行為でもアラーが公認し、死後もアラーの祝福の下で生活できると信じれば、どのような蛮行にもエネルギーが湧いてくる。だから、彼らは死を恐れない。自身の死が報われると信じているからだ。

 一方、21世紀の社会に生きる大多数の現代人は「死」が人生の最終到着地と捉え、なるべくその終着駅に到着するのを遅くするため、健康管理に励み、病気になれば医者に行き、治療する。なぜならば、死が怖いからだ。
 その現代人の眼前に「死を恐れない群れ」が突然、出現したのだ。彼らはアラーのためなら喜んで死ぬという。彼らは死を自身の栄誉と考え、現代人には理解できない蛮行を平気で行う。多くの現代人にとって、彼らの行為は狂気としか思えないのだ。

 イスラム過激派テロリストは重要な問題を私たちに提示している。彼らが信じる「死後の世界」が本当に存在するか、存在するとすれば、その世界はどのようなメカニズムで運営されているか、といった問題だ。

 イスラム過激派テロリストは「死後の世界」を信じる一方、世俗社会に生きる多くの現代人は「肉体生活が全て」と漠然と思っている。両者間の間には大きな溝がある。簡単にいえば、「死を恐れない人」と「恐れる人」の違いだ。だから、イスラム過激派対策ではその相違を正しく認識し、対応する必要があるわけだ。

 どのような理由からでも人を殺害すれば、単にこの世界だけではなく、「死後の世界」でも厳しい刑罰が待っていると分かれば、イスラム過激派テロリストは蛮行ができるだろうか。テロの報いがアラーの祝福ではなく、刑罰となれば、多くのテロリストは躊躇するだろう。

 「死後の世界」の存在云々の問題は決してイスラム過激派だけではなく、全ての人間にとって重要な課題だ。死が終着駅ではなく、新たな人生への再出発点ということが理解できれば、人生観、世界観は当然変わるからだ。
 相対的価値観に陥り、閉塞感に包まれている現代人にとって、大きな希望となるだろう。肉体生活後の「死後の世界」が明らかになれば、人生観、世界観はもとより、政治、社会のメカニズムにも大きな影響を与えるからだ。
 
 もちろん、問題はどのようにして「死後の世界」の存在、そのメカニズムを実証的に説明できるかだ。まだ時間が必要かもしれないが、現代科学はその世界の存在解明にかなり近づきつつある。当方は21世紀は“別の世界”の存在が明らかになる世紀と考えている。
 
 繰り返すが、「死後の世界」の存在云々はオカルト的な問題ではない。イスラム過激派テロリストはネガティブな意味でそのパイオニア的役割を果たしている。われわれは彼らと同様、肉体の死を恐れる必要はないが、「死後の世界」のメカニズムに反する生き方を深刻に恐れなければならない。そのために、私たちは「死後の世界」について真摯に学ばなければならないわけだ。

 ただし、私たちが生来、「死後の世界」にも生きるように創造された存在とすれば、私たちの中にその存在を感知できる能力が必ず隠されているはずだ。換言すれば、私たちは「死後の世界」の存在を薄々知っているのではないか。死を間近にした時、死を恐れると共に、人生を振り返って後悔の念が湧いてくる人々が少なくない。ひょっとしたら、私たちは「死後の世界」のメカニズムも分かっているのかもしれない。

サウジは公開「むち打ち刑」を止めよ!

 アルプスの小国オーストリアでフィッシャー大統領とファイマン首相が珍しく意見を異にしている。同じ社会民主党出身だが、ファイマン首相は「脱退も辞さない」と主張すれば、大統領は「まあまあ、対話の促進は重要だから」と宥める、といった有様だ。

 何のことかというと、ウィーンに事務局を置く国際機関「宗教・文化対話促進の国際センター」(KAICIID)についてだ。同センターは2013年11月26日、サウジアラビアのアブドラ国王の提唱に基づき設立された機関で、キリスト教、イスラム教、仏教、ユダヤ教、ヒンズー教の世界5大宗教の代表を中心に、他の宗教、非政府機関代表たちが集まり、相互の理解促進や紛争解決のために話し合う世界的なフォーラムだ。設立祝賀会には日本から立正佼成会の庭野光帖次代会長が出席した。

 ただし、同センターは発足当初から欧米の人権グループからブーイングが飛び出した。発起人のサウジが少数宗派への弾圧、女性の権利の蹂躙、公開死刑などを実施する国だからだ。サウジのイスラム教は戒律の厳しいワッハーブ派だ。実際、米国内多発テロ事件の19人のイスラム過激派テロリストのうち15人がサウジ出身者だった。だから「国際センターの創設はサウジのプロパガンダに過ぎない」という声が聞かれた。スペインと共に創設国の名前を連ねるオーストリアでも同センターへの抵抗は強い。

 そのような時、サウジの著名なジャーナリストでブロガーのライフ・バダウィ(Raif Badawi)氏が先日、公開むち打ちの刑を受けたのだ。同氏が数年前、「宗教の自由」を擁護し、サウジ当局の宗教政策、道徳警察の強権を指摘する記事を掲載したことに対し、サウジ当局は昨年、毎週50回、20週間以上の公開むち打ち刑の判決を言い渡した。バダウィ氏がその刑後も生きていた場合、更に10年間の刑務所生活を強いられるという。そのむち打ちの刑が実施されたわけだ。

 欧米諸国から公開むち打ち刑の中止を要求する声が出てきた。オーストリア側はサウジ主導の同センターに母国の人権蹂躙について非難声明を出すべきだと求めたが、同センターはこれまで沈黙。そこでホスト国のファイマン首相が「センターの創設精神に反する行為だ。外務省は今夏までに同センターから脱退する方向で報告書をまとめるように」と強硬姿勢を示したのだ。

 それに対し、フィッシャー大統領は「宗派間の対話の橋を慌てて閉ざすべきではない」と発言し、ファイマン首相を宥めている。ちなみに、同国のローマ・カトリック教会最高指導者シェーンボルン枢機卿もフィッシャー大統領と同様、即脱退には反対を表明している。

 同センター発足はオーストリア外務省が推し進めてきたプロジェクトだけに、クルツ外相は同センターからの脱退、同センターの閉鎖といった事態を何とか避けたいのが本音だ。だから、「ブロガーの公開むち打ち刑を中止すべきだ」と重ねて要求し、サウジ側に譲歩を求めてきた。

 なお、国際アムネスティ(IA)によると、サウジ当局は16日、今週予定していたバダウィ氏への公開むち打ちを「(同氏の)健康上の理由」から実施しなかったという。国際社会から強い反対を受け、サウジ当局がバダウィ氏への公開むち打ち刑を断念したかは目下、明らかではない。

ロシア人は欧米人より道徳的か

 16日の産経新聞電子版のモスクワ発特派員記事には、仏週刊紙テロ事件に対する興味深いロシア側のメディアの反応が報じられていた。それによると、ロシアの主要メディアは、「言論の自由がテロを招いた」という論調が強く、テロに遭った仏週刊紙に対しては、「風刺やユーモアではなく、冒涜と愚弄、醜聞で稼ごうという気持ちだ」と酷評したという。そして、「欧州は伝統的価値観から逸脱し、堕落した」「ロシアは道徳的優位にあり、保守主義こそが混沌を防ぐ」というロシア政権の基本的立場を擁護している。

 冷戦時代、旧ソ連共産党政権は欧米文化を常に批判してきた。例えば、「わが国にはエイズは存在しない。エイズは堕落した欧米文化の所産だ」といった主張が良く聞かれたものだ。旧ソ連邦の後継国ロシアでもプーチン大統領は同性愛問題で同じような主張を繰り返している。ロシアでは1993年まで同性愛は犯罪と受け取られ、99年までは精神病者と考えられた。2013年から同性愛を広げるプロパガンダは法的に禁止された。それに対し、欧米諸国から一斉に批判が飛び出したことはまだ記憶に新しい。

 また、モスクワの救世主キリスト教会内で「反プーチン」ソングを歌い、踊った3人の女性パンクバンドに対し、有罪判決が下されたことがある。その罪状は正教徒が崇拝する聖堂の冒涜行為だった。欧米諸国ではその時も女性パンクバンドを擁護し、プーチン政権の人権蹂躙を批判する声が強かった。
 ちなみに、信者の宗教感情への冒涜に対し、2012年実施された世論調査では、ロシア国民の約49%は信者の宗教心を傷つけた場合、厳罰に処すべきだと考え、反対は約34%だった。

 同性愛問題や宗教感情問題をみても、ロシアと欧米諸国の対応は明らかに異なっている。そして今回の仏週刊紙テロ事件の引き金ともなったイスラム教の預言者への風刺、罵倒に対しても、産経新聞が報じたように、ロシアのメディアの反応は「言論の自由」の擁護といった観点ではなく、「言論の自由」の逸脱、堕落という観点から欧米文化を批判しているわけだ。その背後には、ロシア側には「わが国は欧米社会より道徳的優位にある」という認識が強いことだ。

 それでは、欧米文化に対するロシア人の「道徳的優位感」はどこから起因するのだろうか。旧ソ連時代は戦力的観点から欧米敵国へのプロパガンダの性格が強かったが、その優位感は今なお、ロシア人の心の中に生きているとすれば、それは過去の単なる残滓か、それとも明らかな理由があるのだろうか。

 キリスト教は1054年、東西両教会に分裂(大シスマ)した。現在のロシアには東方教会が伝達され、ロシア正教会が広がっていった。欧米社会では、キリスト教会はその生命力を失って久しいが、東方教会のロシア正教は共産政権時代の負の遺産からようやく立ち上がり次第に蘇ってきている。近い将来、キリスト教の再福音化の槌音がロシアから響いてくる、と予言する学者がいるほどだ。

 欧米の民主主義世界から見た場合、ロシアでは人権、言論の自由はまだ十分ではないといった印象を払拭できない。共産政権下の閉ざされた社会で生きてきた国民は今日、インターネットの普及で情報が自由に享受できる社会で生活している。それに呼応して、国民は人権、言論の自由への認識を拡大してきた。それに対し、「宗教はアヘン」という無神論世界観で成長したプーチン大統領は、国民の宗教心を称賛し、愛国心を鼓舞することで反プーチン勢力に対抗する一方、キリスト教価値観を失ってきた欧米社会に対しては、「道徳的優位」のプロパガンダを広げている、といえるかもしれない。

4人はユダヤ人ゆえに殺された

 武装した2人のイスラム過激派テロリストが7日、パリの風刺週刊紙「シャルリー・エブド」本社を襲撃し、自動小銃を乱射し、編集長を含む10人のジャーナリストと、2人の警察官を殺害するというテロ事件が発生した。その直後、別の1人のテロリストがユダヤ系スーパーマーケットを襲撃し、4人のユダヤ人を殺害した、3人のテロリストは9日、治安部隊との衝突で射殺され、多くの死傷者を出した2つのテロ事件は幕を閉じた。

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▲ウィーンの「イスラエル文化協会」会長オスカー・ドイチェ氏(ウィキぺディアから)

 パリ市民はテロ事件の直後、「Je suis Charlie」(私はシャルリー)という抗議プラカードなどを掲げ、「言論の自由」の擁護に立ち上がっている一方、オランド大統領は11日、世界から多くの首脳を招きパりで反テロ行進を挙行した。同国内務省の発表によると、1944年8月のパリ解放を上回る約370万人の国民が反テロ行進に参加したという。
 オーストリアのウィーンでも同日、約1万2000人の国民が参加し、反テロに連帯し、仏週刊紙の名前を記した紙を掲げて射殺された10人のジャーナリストを追悼し、反テロへの結束、言論の自由の堅持などを訴えた。

 その直後、オーストリア・ウィーンの「イスラエル文化協会」のオスカー・ドイチェ会長は「パリのジャーナリストたちはイスラム教の預言者ムハンマドを風刺したことで射殺されたが、殺された4人のユダヤ人はユダヤ人という理由だけで殺された」と指摘し、追悼集会で亡くなった4人のユダヤ人への言及が少なく、軽視されていると発言した。

 同会長の主張をもう少し説明する。4人のユダヤ人は仏週刊紙のようにイスラム教の預言者を冒涜したわけではない。たまたま、買物でユダヤ系商店にいただけだ。仏治安部隊に射殺されたアメディ・クリバリ容疑者(32)は店に入ると、「お前たちは皆ユダヤ人だ。ユダヤ人を全て殺す」と脅迫し、次々と射殺したという。文字通り、ユダヤ人であるという1点で殺害されたわけだ。

 仏風刺週刊紙の場合、イスラム教過激派から脅迫されていた。彼らはテロにあう危険を熟知していた。一方、ユダヤ人の場合、何をしようが、どこに住んでいようが、ユダヤ人である事実を隠すことはできない。イスラム過激派テロリストに遭遇する危険を回避できないし、防ぐ手段も限られている。同会長の発言はその“もどかしさ”を吐露したものだろう。

 パリの反テロ行進には最前列にイスラエルのネタニヤフ首相が並んで行進に参加していた。イスラエル側の要請を受け、フランス国内の700カ所以上のユダヤ教関連施設、学校、シナゴークへの警備を強化している。ネタニヤフ首相は10日、「フランスからのユダヤ人の移住を歓迎する」と述べている。フランスではここ数年、ユダヤ系住民やシナゴークが襲撃されるなど、反ユダヤ主義が席巻している。昨年1年間だけで7000人余りのユダヤ人が母国イスラエルに移住したという。

 参考までに指摘するが、「仏週刊紙テロ事件」と「ユダヤ系商店襲撃テロ事件」がほぼ同時期に発生したため、両テロ事件は密接な関係があると推測されているが、西側テロ専門家によると、前者のテロ容疑者はイエメンを拠点とする「アラビア半島のアルカイダ」(AQAP)の支援を受け、後者は「イスラム国」(IS)の支持があったとみている。
 実際、AQAPは14日、仏週刊紙テロ事件の犯行声明を出した。一方、アメディ・クリバリ容疑者自身は犯行中、ISから支援を受けていることを示唆している。同時期に起きたことから「アルカイダとISがテロ組織としてその覇権争いをしているのではないか」といった憶測報道もあるほどだ。

 ここでは、ユダヤ人ゆえに殺害された4人に対しても心から哀悼の意を表したい。 

本当に「全ては許される」か  

 イスラム過激派テロリストに10人のジャーナリストを殺害されたパリの風刺週刊紙「シャルリー・エブド」最新号(14日発行)には、テロに屈しない意思表示としてイスラム教の預言者ムハンマドの風刺画が再び描かれ、「全ては許される」(Tout est pardonne) という見出しが付けられている。

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▲仏風刺週刊紙最新号を1面トップに報じるオーストリア日刊紙プレッセ14日付(2015年1月14日撮影)

 一方、韓国中央日報日本語電子版13日には、「嘘も表現の自由だ」といったタイトルのコラム「時視各角」が掲載されていた。中央日報のコラムの一部を紹介する。

 「昨年、セウォル号事故当時に出たホン・ガへという女性の嘘もそんなケースだった。彼女は自身が民間潜水士だとして海洋警察がまともに救助活動をしていないと、あるテレビメディアのインタビューに嘘を言った。これに対し海洋警察の名誉を傷つけたとの容疑で拘束され裁判を受けた。そして9日の第1審で無罪判決が下された。『表現の自由』を認めたからだ』という。ただし裁判所は『この判決が、ホン氏の行動を正当化したり免罪符を与えたりするものではない』と明らかにしたと付け加えている。そして『嘘は道徳的な審判を受ける問題であって、法で断罪することにはならないという話だ』と述べている」


 「全ては許される」と「嘘も表現の自由だ」という2本の記事の見出しを偶然、読んで考えさせられた。前者は仏週刊紙テロ事件に関連し、後者は虚言に対する韓国裁判所の判断を記述しているが、テーマはいずれも「言論の自由」についてだ。

 「全てが許される」と「嘘も言論の自由だ」の主張の根底には、中央日報記者が指摘するように、「言論の自由」に倫理とか法的規制を加えれば、言論メディアの「言論の自由」が委縮する懸念が出てくるからだ。だから、「全てが許されなければならない」というわけだ。
 ちなみに、中央日報記者は、韓国大統領府の内部文章の流出問題にも言及し、「表現の自由に対する社会的意識と要求が大きくなる一方、大統領府の「言論の自由」の後進性を指摘している。

 虚言の「言論の自由」について、韓国の裁判所は「道徳的な審判を受ける問題だ」と説明している。では、「どのような道徳的審判を前提としているのか」、「法的規制なき道徳的審判は現実的か」、「言論の自由の行使で生じた被害者への配慮はどうか」等の疑問が出てくる。

 「言論の自由」と「道徳的機能」が正常に機能している場合は問題はないが、現代社会のように、「言論の自由」への社会的意識が拡大する一方、「道徳的機能」が後退する場合、「言論の自由」は文字通り独り歩きすることになる。

 欧州キリスト教社会では神の権威は久しく失墜し、神への信仰は形骸化してきた。「道徳的審判」が脆弱化してきた今日、道徳的審判を恐れない「言論の自由」が猛威を振るう結果となる。

 「全てが許される」という発想は、人間の傲慢さを表現している。人間には「許されること」と「許されないこと」があると認識することが“考える葦”である人間の尊厳の出発点ではないか。 

改宗した難民へ“信仰テスト”を実施

 イスラム過激派勢力が席巻する中東・北アフリカ諸国から欧州に多くの難民が殺到し、受け入れる側の欧州もその対応に苦慮している。全ての難民を受け入れることは難しいうえ、難民の中には経済的理由から欧州入りを図る経済難民や、イスラム過激派勢力の密使として欧州入りを狙う難民もいるのが現状だ。難民として公認された人間が国内でイスラム過激思想を拡大していた、と発覚したことが過去ある。

 そのため、受け入れ側の難民審査(行政裁判所)が長期化する傾向がある。難民の中には難民申請後、3、4年間も決定を待って難民収容所生活を送るケースがもはや稀ではない。待機中は基本的には就労できないから、申請が受理される日を夢見ながら過ごすことになる。

 オーストリアでは冷戦時代、旧ソ連・東欧諸国の共産党政権から逃げてくる多くの難民が殺到した(約200万人の難民が小国オーストリアに避難)。そのオーストリアに冷戦終了後、再び、中東・北アフリカ、アジア諸国から難民が殺到してきたのだ。下オーストリア州のトライスキルへェ収容所では、収容能力の倍以上の難民が生活している。地元住民と難民の間で不協和音が生じている地域もある。

 ところで、オーストリア日刊紙プレッセ12日付は、イスラム教信仰を捨て、キリスト教に改宗した難民の現状を紹介している。改宗した難民申請者は、「審査が却下されたなら、イスラム教国の母国で死刑になる」と説明し、難民申請の受理を歎願するわけだ。

 改宗を理由に難民受理を迫るケースに対し、難民申請審査側(行政裁判所)は「この人物が本当にキリスト教に改宗したのか、難民申請の受理のための偽装改宗か」の判断で頭を痛める。そこで、考え出した方法は、改宗した難民に、キリスト教の“信仰テスト”を行い、試験をクリアできなかった難民は偽装改宗者と断定し、難民申請を却下するというのだ。

 そこで、改宗を理由に難民申請した2人の難民への当局側の“信仰テスト”の内容を簡単に紹介する。ここではアフガニスタン出身の難民をA君、イラン出身の難民をB君とする。以下はプレッセ紙からの引用だ。

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 A君はアフガニスタンからオーストリア入りし、難民申請を行った。A君はそこでイスラム教からキリスト教に改宗し、洗礼証明書も提出し、「母国に帰国すれば処刑される」と説明、難民申請の受理を歎願した。

 当局「君は2009年からキリスト教に改宗したが、その理由は」

 A君「キリスト教とイスラム教の信仰には大きな相違があるのを知った。キリスト教ではイエスへの信仰で救済される」

 当局「礼拝には定期的に参加しているか」

 A君「仕事の関係で礼拝には定期的には参加できない。日曜日も仕事があるので、普段は家で祈っている」

 当局「君はプロテスタントだが、恋人はローマ・カトリック信者だ。両教会の相違は何か」

 A君「カトリック信者はローマ法王のために祈り、法王は信者たちの為に祈る。法王は神と信者の間の調停者だ。一方、プロテスタントの場合、神に直接祈る」

 当局「君は聖母マリアについて何を学んだか」

 A君「聖母マリアはイエスの母親であり、無原罪で生誕された。ヨゼフはイエスの父親だと教えられた」

 行政裁判所「Aの答えには疑問があるうえ、改宗したキリスト教の教えを心から信じているといった印象を受けない」として、難民申請を却下した。

 それに対し、憲法裁判所(VfGH)は、「Aのキリスト教に関する知識はキリスト教の基本を押さえたもので、決して表面的ではない。キリスト教信仰がAには重要であるということが分かる」として行政裁判所に再審を要請した。


 B君はオーストリア入りした直後、「既婚の女性と関係を持ったので、帰国すれば石打刑に処される危険がある」として難民申請。それが虚言であったことが判明すると次はプロテスタント教会で洗礼を受け、イスラム教からキリスト教に改宗した。

 当局「最近では君はいつ聖書を読んだのかね」

 B君「昨夜です」

 当局「聖書のどの部分を読んだのかね」

 B君「ピりピ人への手紙です」

 当局「読んだ箇所の内容を説明してほしい」

 B君説明する。

 当局「ピりピ人への手紙の何章かね」

 B君「第4章6節です」


 行政裁判所「Bは最初の申請で却下された後、なぜキリスト教に改宗したのか十分説明していない。Bが答えたキリスト教の知識は少し勉強した人間ならば答えられる範囲だ」として、難民申請を却下した。
 憲法裁判所「Bは聖書の個所を引用した。Bのキリスト教への信仰が本物ではないと判断する根拠は不十分だ」と指摘、A君のケースと同様、再審を要請した。

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 審査側と難民申請者の間の“信仰テスト”は日本の読者には理解できないことかもしれないが、欧州では決して奇妙なことではない、難民申請者の中には、偽装結婚から偽装改宗まで、さまざまなトリックを駆使しても難民というステイタスを獲得しようとするケースが増えてきているからだ。ただし、改宗した難民の内的な信仰世界を限られた質問で判断することは少々無理がある。いずれにしても、イスラム教徒がキリスト教へ改宗するということは、命がけの決断がなければできないことだ。

記者会見に“密使”を派遣

 韓国の朴槿恵大統領は12日、ソウルの大統領府で新年の記者会見を開いた。日韓メディアによれば、朴大統領は、今年国交正常化50周年を迎える日本との関係について、「新しい関係」の構築に意欲を示したという。
 産経新聞電子版によれば、同大統領就任最初の記者会見には国内外から約15人の記者たちが招かれたという。招待状を受け取った記者の数が余りにも少ないので少々ビックリした。

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▲ウィーンで開催された仏週刊紙襲撃テロに抗議する反テロ集会(2015年1月11日、ウィーンの連邦首相官邸前で、連邦首相府提供)

 当方が住むアルプスの小国オーストリアでも大統領、首相の記者会見となれば50人前後のジャーナリストが参加する。基本的には、参加したい記者ならば、誰でも参加し、質問できる。もちろん、米国など大国となれば、大統領の記者会見には参加人数の制限が伴うのは普通だ。記者証を持つ全ての記者たちの参加を認めたら、ホワイトハウスの記者室には収容できなくなるからだ。

 韓国の場合、日韓中のメディアが活発だろうし、ロイター、AP、AFP、DPAなど国際通信社の数も多いから、制限はやむを得ないかもしれないが、15人程度というのは余りにも少なすぎる。
 産経新聞によれば、記者会見では日本人記者からの質問はなかった、というより、質問できなかったという。駐ソウル日本人記者が手を挙げても、大統領府報道官から指名されなかったからだろう。

 朴大統領の新年記者会見で日本人記者の質問が認められなかったという記事を読んで、ウィーンで開かれた日本外務省主催の記者会見のことを思い出した。主催者はウィーン訪問中の池田行彦外相(当時、1996年)に随伴してきた外務省津川貴久報道官だった。
 日本人記者クラブにも所属していない当方はもちろん招かれなかったが、この機会にどうしても質問したいテーマがあった。参加の可能性を打診したが許可は出なかった。そこで記者会見に招かれたゲスト・リストをチェックしたら、幸い、そこに国連記者クラブ(UNCAV)副会長の知人の名前を発見した。当方は早速副会長に電話して、当方の質問もついでに聞いてくれないかと頼んだら、快諾してくれた。そして記者会見の当日、国連記者クラブ副会長は当方から受けた使命を立派に果たしてくれたのだ。以下、当方が派遣した密使の成功談を書く(このコラム欄で一度紹介したことがあるが、多忙な読者の多くは忘れられたと思うので、再度、その粗筋を書く)。

 当方が聞きたかった質問は「宗教基本法案」についてだ。日本国内で当時、与党自民党の一部議員が作成した「宗教基本法案」については「宗教一般の活動を制限する内容が含まれている」ということから国内で賛否両論があった。

 欧米メディアでは日本国内の宗教法案に関するニュースは一切流れていないから、外務省報道官はウィーンの記者会見でそのような質問が飛び出すとは全く予想していなかったはずだ。国連記者クラブ副会長の話によると、外務省報道官は一瞬驚いた顔をしたという。
 想定外の質問を受けた報道官は「一部の議員が作成したものだ。日本では宗教の自由は尊重されている。宗教活動を制限する同法案が可決される可能性はない」と切り出した。ここまでは良かったが、「日本国民は宗教に余り関心がないです。無神論者が大多数です」と、丁寧に説明したのだ。

 「日本国民の多くが無宗教、無神論者だ」という答えはひょっとしたら大きな間違いではないが、欧米社会で「無神論者」がどのようなイメージで受け取られるかを外務省報道官は考えていなかったのだ。無宗教者、無神論者は欧米社会では少数派であり、信念のないというイメージが付きまとう。

 副会長から報道官の記者会見の話を聞いた当方は、報道官の「日本国民の多くは無宗教者だ」という発言の問題点を指摘する記事を書いて東京に送信した。日本外務省側は驚いたはずだ。少々、フェアなやり方ではなかったが、日本外務省側の記者会見に招待状を貰ったことがない当方は、久しぶりに溜飲を下げた。

 韓国大統領府の記者クラブの状況は知らないが、数多くの制限があるのだろう。駐ソウル特派員の外国人記者たちの奮闘を期待する。

フォビア時代への処方箋はこれだ!

 パリの風刺週刊紙「シャルリー・エブド」本社へのテロ襲撃事件はフランス国民だけではなく、世界に大きな衝撃を与えている。11日にはパリで欧米の閣僚会議が開催され、反テロへの結束を強めた。
 仏週刊紙本社襲撃の直接の動機はイスラム教の預言者ムハンマドを風刺した画を掲載したことに対する報復という。ただし、同週刊紙は過去、イスラム教だけではなく、キリスト教やユダヤ教など他の宗派を対象とした風刺も掲載し、話題を呼んできたメディアだ。すなわち、欧州社会に席巻するイスラム・フォビア、クリスチャン・フォビア、そして反ユダヤ主義といったテーマを面白、可笑しく風刺してきたのだ。

 フォビア(phobia)は本来、社会学用語で、その意味は「恐怖感」だ。さまざまなフォビアが存在するが、それぞれ独自の歴史、社会現象、時の政情などが絡んでくるから一概に「原因はこうだ」とは断言できない。ここでは、なぜフォビアが生じるのかを考えてみた。

 米国内多発テロ事件(2001年9月11日)後、世界的にイスラム・フォアビアが見られる。同時に、中東諸国のイラク、シリアなどではクリスチャン・フォビアが見られ出した。多数の小数宗派キリスト教信者たちが故郷を追われ、難民となっている。今回の仏週刊紙テロ事件となったフランスではここ数年、ユダヤ系住民やシナゴークが襲撃される事件が多発し、フランス生まれのユダヤ系住民がイスラエルに移住するケースが増えている。実際、イスラエルのネタニヤフ首相は10日、「フランスからのユダヤ人の移住を歓迎する」と述べているほどだ。

 現代人は民族、国籍、文化、風習の違いなど、相違点に敏感となり、共通点への意識が欠如する結果、他者への理解が欠け、フォビアが生まれてくるのではないか。
 キリスト教社会に生きる国民にとってイスラム教徒の風習や服装は時に恐怖感を与える。ユダヤ人の場合もそうだ。外観から違いがはっきりしている場合、フォビアは一層、容易に生まれやすい。経済的、社会的困窮な時代には、その相違は拡大され、「彼らはわれわれとは違う」という認識となって定着していく。

 それではフォビアへの処方箋は何か。相違点がフォビアを誘発する要因とすれば、その逆の道を取ればいいわけだ。すなわち、共通点を探すことだ。

 当方はこのコラム欄で最近、「同時代の人々への連帯感」という記事を書いた。同じ時代に生きているというのも一つの共通点だ。エルヴィス・プレスリーと北朝鮮の金正恩氏が同じ誕生日だ、というのも一つの共通点だろう。共通点はその気になれば到る所で発見できる。それを探す作業を意識的に進めていけば、フォビアが生まれる余地は自然に減少していくのではないか。

 共通点探しを広げて考えてみよう。「われわれは全て人間だ」、これも共通点だ。これは人権擁護の精神的核だ。「同じ国に生まれた」という事実も立派な共通点だ。その上に愛国心が出てくるわけだ。宇宙時代の今日、「われわれは地球人だ」というアイデンティティが誕生すれば、地球上の紛争は馬鹿げたことになる
。読者の皆さんも家族、会社などの周辺で自分と他者の間の共通点を探し出してみてほしい。共通点は相違点に負けないほど多く見い出せるはずだ。

 参考までに、オピニオンの世界では同じ意見を繰り返す論客より、斬新な相違点を見つけて論評する評論家は話題を呼ぶ。相違点に基づく批判精神が過大評価される社会だ。宣伝の世界では、「わが社の商品はあの会社の商品と同じです」といったコマーシャルを流せば、消費者の関心を失う。だから、「わが社の商品はこの点とここがあの会社の商品とは違います」といったコマーシャルが重要となる。違いが生命線なのだ。

 宗教間の対立もその教義の違いが浮上すれば、エスカレートする。国家間の紛争も国益の相違が原因となる。もし、宗教界も世界の国々も相違点を忘れ、共通点を見つける努力を重ねていくならば、宗教戦争や国家紛争も少なくなり、フォビアを克服できるのではないか。
 教育の場でも相違に基づく批判精神の向上だけではなく、共通点に基づく連帯感の育成に力を注ぐべきだろう。シンプルなことだが、フォビアへの最強の処方箋は「われわれは同じ人間であり、等しく幸福を求めている」という共通点の再認識だろう。
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