ウィーン発 『コンフィデンシャル』

 ウィーンに居住する筆者が国連記者室から、ウィーンの街角から、国際政治にはじまって宗教、民族、日常の出来事までを思いつくままに書き送ります。

2012年10月

「慰安婦問題」で南北・和蘭連携へ

 ジュネーブの国連人権理事会で31日午後(現地時間)、日本の人権問題への「普遍的・定期的審査」(UPR)が実施されるが、加盟国から第2次大戦時の旧日本軍の性的奴隷システム(通称・従軍慰安婦問題)に対して質問が飛び出すものと予想される。
 例えば、オランダは質問内容を既に提出済みだが、その中に旧日本軍の「慰安婦問題」が含まれている。参考までに同国の質問の概要を紹介する。

 「軍の性的奴隷システムのテーマは関係国間だけの問題ではなく、日本国内の内政でもある。同システムに関しては1990年終わりに学校の教科書で紹介されたことがあるが、2012年の学校教科書には掲載されていない。第2次大戦時に犯された非道な行為について、若い世代に正しい認識を喚起する重要な契機のはずだ。日本政府は、基本的人権の尊重を若者たちに教育するという観点から、旧日本軍の性的奴隷制度をどのように将来の世代に伝えていく考えか」

 日本側は今年7月、「UPR第2回政府報告」を国連人権高等弁務官事務所(UNHCHR)に提出済みだが、オランダの質問に何も言及していない。ただし、UPRの3時間半の審査の中で加盟国から出る可能性が高い。

 例えば、2008年5月の日本の第1回UPRでは42カ国の加盟国が被審査国の日本に質問。慰安婦問題を挙げた国は3カ国、北朝鮮、韓国、そしてオランダだった。
 北朝鮮は旧日本軍の慰安婦問題を人権蹂躙として激しく批判する一方、その犠牲者への賠償を要求。オランダも慰安婦問題に関する国際社会の懸念を表明。韓国は慰安婦問題に対する真摯な対応を日本側に要求している、といった具合だ。

 それに対し、日本側は北側の指摘に対しては、「平壌宣言の中で日本と北朝鮮両国は戦時中に生じた全ての財産や請求を放棄すると合意している」と指摘する一方、「慰安婦問題では日本は1993年、その蛮行を認め犠牲者に対し再度謝罪を表明済み」と述べている。

 いずれにしても、北朝鮮と韓国両国が従軍慰安婦問題を挙げ、日本側を追求するのはいつもの事だが、欧州諸国で唯一、オランダが日本の慰安婦問題に対して厳しい姿勢を貫いている。オランダ側の主張によれば、第2次大戦時、旧オランダ領東インド(現インドネシア領)で多数のオランダ女性が日本軍の捕虜となり、その一部が強制慰安婦とされた、ということから、旧日本軍の慰安婦問題に対して厳しいスタンスを取ってきた経緯がある。
 なお、韓国の金星煥外交通商相は10月5日、国会での答弁の中で、「旧日本軍の従軍慰安婦問題では、アジア諸国だけではなく、オランダとも連携していく」と述べている。

日本の「人権問題」を追求せよ

 ジュネーブの国連人権理事会で加盟国の「人権状況」を検証する「普遍的定期的審査」(UPR)が今月22日から作業部会で実施中だ。
 読者の中にはUPRを初めて耳にする人も少なくないだろう。そこで日本の人権問題の審査が31日午後2時半から始まるのに先駆け、そのメカニズムと意義について簡単に紹介する。

 国連人権理事会の加盟国は現在193カ国。各加盟国の人権状況、人権問題に関連した国際法、国連憲章の義務の履行状況を調べるために、2006年にUPRという審査メカニズムが設置され、08年4月から実際に実施された。4年半に1度のサイクルで年3回、計42カ国のUPRが実施される。
 ちなみに、日本は同年6月、第1回目のUPRを受けている。今月31日のUPR審査は日本にとって2回目だ。日本は11年に第1回目の審査報告の内容を受け、フォローアップの報告書をUPR作業部会に提出している。
 
 UPR作業部会では全ての加盟国が参加し、被審査国の人権状況について質問できる。同審議には非政府機関(NGO)は発言できないが、傍聴できる。審査の持ち時間は3時間半だ。その審査内容を理事会の3国代表が報告者国となり、まとめてUPR作業部会に提出。それが採択されると、理事会の全体会合に提出され、正式に採択されることとなる。

 UPR作業部会には3つの基本文書が審査のたたき台として提出される。一つは被審査国の「政府報告書」、2つ目は国連人権高等弁務官事務所(OHCHR)が人権問題に関連した国際条約や憲章に対する被審査国の義務履行を編集した文書、そしてOHCHRがNGOらの提出した、被審査国の人権問題に関する信頼できる情報をまとめたサマリーの3文書だ。

 日本の人権セッションでは28日現在、ドイツ、オランダ、スペイン、メキシコ、英国、チェコ、ハンガリー、スロバキアの8カ国が質問を提示している。具体的には、法務省が設置した人権擁護機関の独立性問題、死刑制度、刑事手続きにおける人権保護問題、児童への体罰、女性の人権保護、第2次大戦時の慰安婦問題と教科書などが挙げられている。日本側は加盟国の質問に答えるわけだ。
 
 今回の日本の人権セッションで注目される点は、OHCHRが国際人権組織「国境なき人権」(HRFW)の指摘した日本統一教会信者の拉致監禁問題をサマリーの中に明記していることだ。国連文書で日本統一教会信者の拉致監禁問題が明記されたのは今回が初めてだ。ちなみに、日本が今年7月、OHCHRに提出した「UPR第2回政府報告」(全20頁)の中には「国境なき人権」が指摘した統一教会信者拉致監禁問題はまったく言及されていない。
 

「教会の没落」はいつ始まったか

 ローマ・カトリック教会は第2バチカン公会議開催50周年を記念してさまざまな記念行事を挙行しているが、独の著名な哲学者ロベルト・シュパーマン(Robert Sparmann)氏は26日、独日刊紙ヴェルトとのインタビューの中で、「第2公会議(1962年10月〜65年12月)はカトリック教会にとって没落時代の始まりとなった」と述べている。

 シュパーマン氏は「第2公会議はカトリック信者をだらしなくさせ、全てを弱体化させていった。神父たちは今日、イエスの復活を否定しながら信者達に説教し、大学で講義している。一方、教会税を支払わない信者は教会のコミュ二ティーから脱会していく」、「第2公会議では解放運動、文化革命の時代の精神が主導したが、聖職者の独身制やラテン語の教会典礼用語は認められている。しかし、教会の刷新に焦点が行き過ぎて、後者は意識的に見過ごされている」と強調している。

 興味深い点は、独哲学者は「第2バチカン公会議の開催が教会の没落を誘発した」と受け取っているが、第2バチカン公会議の提唱者ヨハネ23世(在位1958年10月〜63年6月)は没落時代の到来を予感し、それを阻止するため「神のインスピレーション」で同公会議の開催を決定したことだ。
 「教会の没落」はシュパーマン氏にとっては第2公会議の結果だが、ヨハネ23世にとっては第2公会議開催の主因だったのだ。ただし、哲学者もローマ法王も「教会の没落」という認識を共有している。前者は「第2公会議」後であり、後者は「第2公会議」開催前だ。当方は、「ヨハネ23世が予感した教会の没落は第2バチカン公会議後、シュパーマン氏が主張するように、顕現化し、現実化してきた」と解釈している。

 それでは、「キリスト教会の没落」はいつ頃から始まったか。当方は「1960年以降」と考える。それも不可避的な現象と受け取っている。
 旧約時代の終わりの時、イエスは新約の福音を携え登場した。旧約の教義はその後、衰退を余儀なくされた。同じことが、イエスの再臨時にいえるだろう。新約の福音がその生命力を失っていくわけだ。時代の交代と共に、その思潮が入れ替わるのだ。

 イエスは「わたしはこれらのことを比喩で話したが、もはや比喩で話さないで、あからさまに、父のことをあなた方に話し聞かせる時がくるであろう」(ヨハネ16章25節)と述べ、再臨時には新しい真理が登場することを示唆しているのだ。

異端児を追放した「ピウス10世会」

 カトリック教会根本主義聖職者組織「ピウス10世会」(聖ピオ10世会)は24日、リチャード・ウィリアムソン司教を追放すると公表した。その理由は、「ピウス10世会の指導部に対する不従順」という。同司教は1988年、バチカンから破門されたルフェーブル大司教から司教に任命された。ウィリアムソン司教は2008年、スウェーデンのテレビ・インタビューの中で「ホロコーストのガス室は存在しない」と発言し、世界を驚かしたことはまだ記憶に新しい。
 
 ウィリアムソン司教の追放劇の背後について、オーストリアのカトリック通信は同日、「『ピウス10世会』の現代表、ベルナンド・フェレー司教は10月4日、同司教の追放を既に内定した。その理由は組織の結束を守るためだ」という。ウィリアムソン司教は「ピウス10世会」の指導部の方針を無視し、独自の活動を展開させる一方、2009年から始まった「ピウス10世会」のバチカン再統合の動きに強く反対してきた経緯がある。それだけに、バチカンとの再統合を伺う現フェレー指導部にとって、ウィリアムソン司教追放は大きな成果だ。

 バチカンと「ピウス10世会」との対立は、第2バチカン公会議(1962年〜65年)に参加した故マルセル・ルフェーブル大司教が教会の近代化を明記した公会議文書の内容を拒否し、69年に独自の聖職者組織「ピウス10世会」を創設したことから始まる。当時のローマ法王パウロ6世(在位63年〜78年)は75年、一時付与した同聖職者組織の教会公認を撤回し、ルフェーブル大司教を追放した。

 ルフェーブル大司教は91年亡くなり、その後継者にフェレー司教が「ピウス10世会」代表に就任すると、バチカンとの交渉が再開した。現ローマ法王べネディクト16世は07年、一定の条件下でラテン語ミサを承認する法皇答書を公表し、09年1月「ピウス10世会」の4人の司教に対する「破門宣言撤回」教令を出したが、。その直後、破門宣言が撤廃された4人の司教の中にホロコースト否定発言のウィリアムソン司教が含まれていたことが明らかになり、大騒動となった。

 なお、バチカンと「ピウス10世会」との再統合交渉は現在、暗礁に乗り上げている。最大の障害は、第2バチカン公会議の決定事項を遵守することに「ピウス10世会」が依然、抵抗しているからだ。ただし、組織内の異端児ウィリアムソン司教を追放したことで、フェレー現指導部はバチカンとの交渉がやりやすくなったことは間違いないだろう。停滞してきたバチカンとの交渉が再び動き出す可能性も出てきた。
  

人は誰も幸せを求める

 幸福を願わない人がいるだろうか。「いる」という人に一度出会ったことがある。彼はフロイト流の「死(破壊)の欲望」(タナトス)という概念を取り出し、人が幸せではなく、本当は破壊、死への欲望を保持してると、とうとうと説明した。しかし、タナトスも冷静に考えれば、死ぬことによって「幸福」を復帰したいだけではないか。繰り返すが、やはり「人は誰もが幸せを求めている」と思うのだ。

 どうしてこのようなことを考えたかというと、オーストリア連邦統計局が「国民の幸福感」について最新の統計を発表したからだ。それによると、オーストリア国民の78・7%は「自分は今、幸せだ」と答えているのだ。与党・政府関係者が聞けば、涙が出るほど嬉しいかもしれない。
 国営放送は夜のニュース番組の中で通行人に「今、幸せですか」と質問していたが、全ての人が「満足している」「仕事もあるし、幸せだ」と答えていた。あまり皆が「幸せだ」と答えるので、「独裁国家の世論調査のようだ」といった思いが沸いてきたほどだ。

 しかし、オーストリアの大多数の国民は確かに幸せを感じている。同国の国民経済成長率は1995年以降、年平均1・7%アップ。就業率も75・2%で欧州平均の68・6%を上回っている。経済統計を見る限り、同国の国民幸福度はカナダ、ニュージランドと同水準という。(同国にも約140万人の国民が貧困ライン前後)。
 ギリシャやスペインなど南欧では失業で苦しむ人が多く、政府の節約政策に反対するデモをしている時だけに、オーストリア国民の高い「幸福度」には驚かされる。辛らつに表現すると、「他者が幸せではないから、自身の僅かな幸せにも感謝する」だけではないか。

 国営放送記者もそう感じたのだろう。社会心理学者に国民の幸福度の背景を聞いていた。答えは「オーストリア人は調和を求める。家庭、職場、社会でもデモしたり、暴動などの行動を嫌う。たとえ謙虚なレベルとはいえ、自分の生活水準、環境に満足を覚える」と指摘し、アルプスの小国、人口800万余りの国民性を説明していた。
 
 人の幸せに誰も文句はいえない。同時に、その人の幸せが隣人、隣国の人々と共有できれば、一層、幸福感を享受できるだろう。「自分だけが幸せだ」という思いは、不安と後ろめたさをも与える。人間が関係存在だからだ。

「人権」とはなにか

 ジュネーブの国連人権理事会で加盟国に対する普遍的定期的審査(UPR)が開催中だ。31日には日本の人権問題が議題に上がる。そのUPRの審査のたたき台となる国連人権高等弁務官事務所(OHCHR)が提出したサマリー(A/HRC/WG.6/14/JPN/3)を読んでビックリした。余りにも多くの人権問題が羅列されていたからだ。

 OHCHRが提出した全15ページのサマリーの中に、死刑、男女同権、アイヌ少数民族、移住者・難民、ホモ、ヘテロセックス者、慰安婦、無能力者、等の権利から過労死問題までさまざまな人権の蹂躙問題が挙げられている。
 「日本は人権問題では開発途上国並みなのか」といった当惑を感じたほどだ。当方が日本を留守していた過去30年間で日本は人権蹂躙国になってしまったのだろうか。

 ウィーンで1993年6月、世界人権会議が開催された時を思い出した。人権問題の最初の議題は「人権となにか」だった。すなわち、「人権の定義」だ。その定義は1、2つではなく3桁にもなる。各国がそれぞれ独自の人権定義を主張するからだ。その意味で「テロの定義」と酷似している。
 普遍的な「人権宣言」はその各国の人権定義の共通事項を集めた集大成といえるが、換言すれば、薄められ、実効性に乏しい外交宣言といえるかもしれない。

 ところで、人間の権利、「人権」という言葉がある以上、神の権利、「神権」があっても可笑しくない。しかし、「神の権利」の蹂躙という話は余り聞かない。あえて言えば、「宗教の自由」の蹂躙問題が「神権」に属するテーマだろう。例えば、米国務省は毎年、「宗教の自由」に関する報告書を公表しているほどだ。
 そこで日本の人権問題に関するOHCHRのサマリーの中で「宗教の自由」の蹂躙問題が提示されているかを調べると、1件、国際人権グループ「国境なき人権」(HRFW)の報告書内容が明記されていた。以下、参考のために紹介する。
 
「宗教、信仰、表現、結社、平和的な集会、公的、政治的生活に参加する自由」(7頁目)

 「国境なき人権」は棄教を目的とした市民の拉致と監禁、およびこれらの事件について警察および司法当局が捜査および起訴を行っていないことを文書で示した。それはさらに、2011年に少なくとも4人の成人した統一教会信者が宗教を強制的に変えさせる目的で両親によって拉致され、2010年と09年にはそれぞれ9件と3件の事件が知られていると述べた。全国拉致監禁強制改宗被害者の会と天宙平和連合 (UPF)が同様の懸念を表明した」

 OHCHRが国連公文書の中で日本の「宗教の自由」問題を明記するのは非常に珍しい。日本の人権問題で過去、「宗教の自由」問題が取り扱われることはなかったのではないか。その意味で、日本の「宗教の自由」問題が国連の人権理事会の枠組みの中で議論されることは大きな前進だ。

天災は忘れた頃にやってくる

 イタリア中部ラクイラで地震の警告を解除した後、地震が発生、多くの犠牲者が出たことに対し、ラクイラの地裁が22日、地震予知の専門家7人に禁固6年の実刑判決を下した、というニュースを聞いた時、聖書の旧約時代の王のもとで穀物収穫や気候状況を予知していた預言者の運命を思い出した。彼らはその預言が的中しなかった場合、多くは王から殺害されたのだ。

 旧約時代の王たちは預言者の予知を重視し、それに基づいて政務を行っていたから、予知が100%的中しなかった場合、預言者は例外なく偽者として殺される運命にあった。
 逆に、預言や予知がズバリ的中した場合、王から豪華なご褒美や高位の職務に抜擢された。ヨセフがパロの夢を解明し、大豊作と大飢饉の到来を予想し、それが当たり、首相に抜擢された話は余りにも有名だ。

 イラリアの地震専門家に対し、その実刑判決が明らかになると、世界の地震予知学者たちからブーイングが起きた。旧約時代の預言者たちの運命と比較すると、死刑ではなく禁固6年に過ぎないが、そんな話は現代の予知学者に何の慰めにもならないだろう。

 地震学者は将来、2009年のラクイラ地震のように多数の国民が犠牲となれば大変だから、地震の危険情報を解除せず、「地震の危険性は排除できません」といった外交的予知に終始するようになるかもしれない。
 そのようになれば、地震予知学は無力となる一方、国民はいつ発生するかは分からない地震のため、24時間、365日、警戒しなければならない。なぜならば、地震学者が危険を解除しないからだ。

 偽預言者は厳しく処罰されたが、地震の予知学者に対してはある程度の寛容さが必要かもしれない。寺田寅彦が昔、「天災は忘れた頃にやってくる」と喝破しているではないか。

「国連デー」と世界の平和実現

 10月24日は「国連デー」だ。国連憲章が1945年10月24日に発効されたことを記念して設けられた記念日だ。「国連憲章」はUN Charterと呼ばれ、国連設立の基本目的が明記されている。これまで3度、改正されて今日に到る。

 以下、「国連憲章」の前文を掲載する。

 われら連合国の人民は、われらの一生のうちに2度まで言語に絶する悲哀を人類に与えた戦争の惨害から将来の世代を救い、基本的人権と人間の尊厳及び価値と男女及び大小各国の同権とに関する信念をあらためて確認し、正義と条約その他の国際法の源泉から生ずる義務の尊重とを維持することができる条件を確立し、一層大きな自由の中で社会的進歩と生活水準の向上とを促進すること並びに、このために、寛容を実行し、且つ、善良な隣人として互いに平和に生活し、国際の平和及び安全を維持するためにわれらの力を合わせ、共同の利益の場合を除く外は武力を用いないことを原則の受諾と方法の設定によって確保し、すべての人民の経済的及び社会的発達を促進するために国際機構を用いることを決意して、これらの目的を達成するために、われらの努力を結集することに決定した。
 よって、われらの各自の政府は、サン・フランシスコ市に会合し、全権委任状を示してそれが良好妥当であると認められた代表者を通じて、この国際連合憲章に同意したので、ここに国際連合という国際機構を設ける。

 憲章は全19章、111条から構成されている。全文に目を通したい読者は国連のサイトを訪ねて頂きたい。
 
 日本が願う「安保常任理事国」については憲章第23条に「安全保障理事会は、15の国際連合加盟国で構成する。中華民国、フランス、ソヴィエト社会主義共和国連邦、グレート・ブリテン及び北部アイルランド連合王国及びアメリカ合衆国は、安全保障理事会の常任理事国となる」と明記されている。

 第2次大戦直後に設立された国連の安保理事会が戦勝国優先の機構となったことは致し方がないが、終戦60年以上経過した現在、世界の現実を反映した安保理改革は不可欠だろう。

 ところで、世界は国連設立後、より平和となったであろうか。この期間、大きな戦争は生じなかったが、平和は実現できなかった。民主主義国と共産主義国間の冷戦、民族間紛争、そして宗派の対立、国際テロ、核問題まで、次から次と新しい難問が突きつけられてきた。一方、食料、医療、水などの安全供給といった問題は依然、未解決だ。
 国連は2000年9月に開催されたミレニアム・サミットで、世界中の全ての人がグロバール化の恩恵を受けることができるための行動計画を提示し、貧困、教育、環境などの8項目(ミレニアム開発目標)を掲げた「国連のミレニアム目標値(MDGs)」の実現を目指してきたが、米国内多発テロ事件(2001年9月11日)が発生した後、国際社会の関心はミレニアム開発目標から国際テロ対策に移ってしまった感がする。

 国連は世界の紛争解決を掲げているが、実際は加盟国の国益外交の舞台だ。特に、安保常任理事国5カ国は絶大な権限を有している。シリア紛争の安保理協議を思い出せば、如何に実質的な制裁を採択することが難しいか一目で分かるだろう。国連は紛争の解決の舞台ではなく、大国が主導権を牛耳る外交の場となって久しい。

 国連は世界の紛争解決機関として機能できるメカニズムを構築しなければならない。安保理改革だけでは乏しい。国連を国益外交から世界公益優先の外交の場にするためには新しい理念が必要だろう。その意味で、政治家・外交官から成る「下院」と、世界の宗教指導者たちが結集する「上院」の2院から構成された「国連2院制」案は検討に値する。

海外の金ファミリーが結束する日

 デイリーNKによれば、故金正日労働党総書記の長男金正男氏の息子、キム・ハンソル君が16日、フィンランドTVとのインタビューで、「いつか北朝鮮に行き、彼らがもう少し楽に暮らせるよう手助けしたい。韓国の友人達とバスで南北間を往来できたらどんなに素晴らしいだろう」と話したという。ハンソル君の久しぶりの発言だ。

 デイリーNKによれば、「キム・ハンソルはフィンランド出身の政治家、エリザベス・レン(Rehn)が進行役のインタビューの中で語った」という。読者の中には、「どうしてハンソル君はフィンランドTVとの会見に応じたのか」と考える人もいるだろう。

 欧州駐在の金ファミリーはフィンランドの外交官たちと関係が深いことは良く知られている。その人脈は故金総書記の異母弟、金平一氏(故金日成主席と金聖愛夫人の間の息子)が駐フィンランド大使時代(1994年〜98年)に培ったものだ。金平一氏の動向が外部に流れる場合、同大使との関係が深いフィンランド外交筋が多い。金大使の駐ワルシャワ大使就任後もその繋がりは変わらない、といわれる。
 その意味で、ハンソル君がフィンランドTVとのインタビューに応じたのも決して偶然ではないが、18歳の少年が自分でインタビュー相手を選んだ、とは考え難い。誰かの仲介人がいるはずだ。
 ここまで考えると、金平一大使ファミリーと金正男氏の繋がりが浮かび上がってくる。欧州を頻繁に訪れた正男氏が金平一大使家族と交流があったとしても不思議ではない。

 ハンソル君は「自分は故金総書記と金正恩第一書記と会ったことがない」と述べているが、駐ポーランドの金大使ファミリーのほか、駐オーストリアの金光燮大使(金正日総書記の義弟)らとは会ったことがあるのではないか。ちなみに、ハンソル君の身辺警備は駐ベオグラードの北外交官たちが担当しているが、金平一大使は1982年、駐ユーゴスラビア武官としてベオグラードに駐在している。

 故金総書記は傍系のファミリーを小枝と呼び、海外に追放する政策を実施してきたが、金正男氏暗殺計画が最近、脱北工作員の口から飛び出してきたところを見ると、主流派の平壌側が海外組・金ファミリーの動向に神経質となっているのかもしれない。
 金正恩政権は発足してまだ日が浅い。その権力基盤も決して磐石ではない。それだけに、海外組・金ファミリーの結束というシナリオは妨げなければならないはずだ。


 注・北朝鮮は今日、駐ストックホルムの同国大使館からフィンランドをケアしている。

ちょっとフロイト流の「夢判断」

 どうか以下のコラムを肩の力を抜き、気楽に読んで下さい。

 当方は20日未明、1つの夢を見た。舞台はどうやら米国だ。それもなんとポップ界の王(King of Pop)マイケル・ジャクソンのネバーランドに当方が舞い込んでしまったのだ。どうしてか、は聞かないでほしい。当方も分からないからだ。当方はマイケル・ジャクソンのファンではない。彼が急死した時(2009年6月25日)、メディア報道を通じてその存在を知った程度だ。もちろん、彼の歌はほどんど知らない。

 マイケル曰く、「ゆっくりしてくれ給え」という。彼の顔は生前の写真のようではない。黒人の顔で、かなり歳を取っていた。顔には多数の皺が見えた。生前のマイケルとはかなり違うが、そこは夢だ。当方は「マイケル・ジャクソンだ」と分かっているのだ。
 マイケルは、「ここには多くの人が出入りするから、IDカードを付けてくれたまえ」というので当方の名前を書いたIDカードを胸につけた。
 当方は少し部屋で休んだ後、目が覚めた。「ここにいても何もすることがない。マイケルに挨拶して帰ろう。その前にマイケルと一緒の写真を撮影しよう」と考え、立ち上がり、ネバーランド内を歩き出した。
 大きな居間ではパーティが開かれているのか、多くの人々がいる。近くにいたバトラー(執事)のような人に「マイケルはどこですか」と聞くと、「彼はゲストを迎えに空港に行っていますが、直ぐに戻ってきます」という。

 ネバーランドの中庭の大門が開くと、ローマ法王が外遊先で使用する専用車「ポープモービル」が入ってきた。マイケルもゲストと共にいる。周りの人に「ゲストは誰ですか」と聞くと、「ヨルダン王の家族だ」という。マイケルがヨルダン王と知り合いだとは知らなかった。
 ヨルダン王の家族が車から降りてきた。その姿は報道で見るような現ヨルダン国王のアブドラ国王の家族ではない。
 当方が写真を撮ろうとしているのを知ったのか、マイケルは再び「ポープモービル」に入り、立ったままでこちらを向いた。車のガラス窓が邪魔で写真が撮り難いから、ガラス窓を開けたが、更にもう一枚のガラス戸があったので、それも開けた。マイケルは動かず、こちらを向いている。その時、当方は目を覚ました。


 以下、その不思議な夢を分析した。夢の舞台は米カリフォルニア州サンタバーバラ近郊にあったネバーランドだが、そこは霊界だ。マイケルは死後、霊界のネバーランドにいる。マイケルはほっそりとした体つきだったが、既にかなり歳をとった印象を与えた。
 彼が迎えたゲストはヨルダン王の家族だ。マイケルがどうしてヨルダン王家を招待したのだろうか。そこで、マイケルとヨルダンとの関係をサーチで検索した時、驚くべき事実を見つけた。国名ヨルダンは英語でJordanだ。そのジョーダンという名前はマイケルが性的虐待したといわれた子供の名と同じなのだ。その名はJordan C(当時13歳)だ。
 調べると、マイケルはネバーランドにジョーダンという名の子供を招き、性的虐待した疑いで裁判沙汰になったことがあったのだ。
 夢は、その子供を直接登場させず、ヨルダン王家のゲストとして顕現させたわけだ(フロイト的に表現すれば、夢のカラクリだ)。実際、車から降りてきた3人の王家関係者はいずれも子供のように小さかった。

 夢は、マイケルが生前のジョーダンという子供をネバーランドに招き、深い関係があったことを示唆したが、具体的には何も明示しなかった。ただし、マイケルの表情は終始暗く、沈欝だったのが印象的だ(マイケルのファンの皆様、あくまでも当方の夢の中の世界です)。

 新約聖書には、「神がこう仰せになる。終わりの時には、わたしの霊を全ての人に注ごう。そして、あなたがたのむすこ娘は預言をし、若者たちは幻を見、老人たちは夢を見るであろう」(使徒行伝2章17節)という聖句がある。当方も老人のように夢を見たのだろうか。
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