当方は昔、デンマークの哲学者セーレン・キルケゴールの「人は愛さなければならない」という本を読んだことがある。「愛する」という人間の願望に対し「愛さなければならない」と言い切っている哲学者の存在に新鮮な驚きを覚えたことを思い出す。すなわち、「私が愛したい」のではなく、「愛さなければならない」とわれわれに「愛」を強要しているのだ。

▲デンマークの哲学者セーレン・キルケゴール
そこで今回、「愛する」ことを義務として受け入れることができるか、を考えてみた。人は他者を愛する時、いろいろな事情から「愛せない」ことがある。自分を愛してくれる人を愛するのは多分、自分を嫌う人を愛するより容易かもしれないが、それでも、「絶対に容易だ」と断言できない。それほど、人にとって「愛すること」は容易な業ではない。
それでは、難しい「愛する」ことをなぜ、人は求めるのだろうか。難しいのならば、愛することを諦めれば楽だ。にもかかわらず、愛する対象を求め、試行錯誤しながら「愛する」道を行こうとする。少し格好をつけて表現すれば、「人は愛の殉教者の運命を逃れることができない存在」といえるわけだ。
ところで、「どうして人は愛せないのか」という基本的なテーマは残る。われわれの周囲には時として、家族や友人から無条件に愛されている人がいる。そうではない人から見れば、羨ましい限りだ。「愛されていない」と感じる人は多くの人から「愛されている人」を研究するのも無益でないかもしれない。
ここでは、愛されている人を羨ましく感じ、「どうして自分は愛されず、彼は愛されるのか」と悶々とし、最後には「愛されている人」を殺した話を紹介したい。人類始祖アダム・エバの家庭の「カインとアベル」の兄弟の話だ。兄カインは神が自分の供え物ではなく、弟アベルの供え物を受け取ったことに憤りを感じ、神から愛される弟アベルを殺害した。旧約聖書創世記に出てくる話だ。
人類最初の家庭で「失楽園」(原罪)ばかりか、「殺人事件」まで生じた。いずれも、「愛」の問題で躓いている。その後孫が愛で悩み、苦しむのも当然の結果かもしれない。「(神が愛する者を)愛せない」という気質や性向が人間の中に刻み込まれてしまったからだ。
しかし、悲観的になることはないだろう。もともと愛せない存在だったら、悩むことはなかったはずだ。人が「愛する」ことで悩み苦しむということは、「愛する存在」から「愛せない存在」に堕ちてしまった結果だ、といえるからだ。キルケゴールの「愛さなければならない」という少々命令調のテーゼも、われわれは本来、愛し合うことができる存在だった、ということを前提としているはずだ。
命令や義務を重荷に感じやすい現代人にとって、「愛する」というほうが受けがいいかもしれないが、われわれは「愛さなければならない」のだ。その為の苦悩や痛みは自身の発展の糧として甘受していく以外にない。なぜならば、われわれはまだ一度として本来の愛を体験していないからだ。その意味でも、敵をも愛したイエスの存在は歴史上記念碑的な出来事だったわけだ、キリスト教が世界宗教として発展してきた背景には、「愛する」ことをその教えの中心に置き、それを実践したイエスがいたからだ。

▲デンマークの哲学者セーレン・キルケゴール
そこで今回、「愛する」ことを義務として受け入れることができるか、を考えてみた。人は他者を愛する時、いろいろな事情から「愛せない」ことがある。自分を愛してくれる人を愛するのは多分、自分を嫌う人を愛するより容易かもしれないが、それでも、「絶対に容易だ」と断言できない。それほど、人にとって「愛すること」は容易な業ではない。
それでは、難しい「愛する」ことをなぜ、人は求めるのだろうか。難しいのならば、愛することを諦めれば楽だ。にもかかわらず、愛する対象を求め、試行錯誤しながら「愛する」道を行こうとする。少し格好をつけて表現すれば、「人は愛の殉教者の運命を逃れることができない存在」といえるわけだ。
ところで、「どうして人は愛せないのか」という基本的なテーマは残る。われわれの周囲には時として、家族や友人から無条件に愛されている人がいる。そうではない人から見れば、羨ましい限りだ。「愛されていない」と感じる人は多くの人から「愛されている人」を研究するのも無益でないかもしれない。
ここでは、愛されている人を羨ましく感じ、「どうして自分は愛されず、彼は愛されるのか」と悶々とし、最後には「愛されている人」を殺した話を紹介したい。人類始祖アダム・エバの家庭の「カインとアベル」の兄弟の話だ。兄カインは神が自分の供え物ではなく、弟アベルの供え物を受け取ったことに憤りを感じ、神から愛される弟アベルを殺害した。旧約聖書創世記に出てくる話だ。
人類最初の家庭で「失楽園」(原罪)ばかりか、「殺人事件」まで生じた。いずれも、「愛」の問題で躓いている。その後孫が愛で悩み、苦しむのも当然の結果かもしれない。「(神が愛する者を)愛せない」という気質や性向が人間の中に刻み込まれてしまったからだ。
しかし、悲観的になることはないだろう。もともと愛せない存在だったら、悩むことはなかったはずだ。人が「愛する」ことで悩み苦しむということは、「愛する存在」から「愛せない存在」に堕ちてしまった結果だ、といえるからだ。キルケゴールの「愛さなければならない」という少々命令調のテーゼも、われわれは本来、愛し合うことができる存在だった、ということを前提としているはずだ。
命令や義務を重荷に感じやすい現代人にとって、「愛する」というほうが受けがいいかもしれないが、われわれは「愛さなければならない」のだ。その為の苦悩や痛みは自身の発展の糧として甘受していく以外にない。なぜならば、われわれはまだ一度として本来の愛を体験していないからだ。その意味でも、敵をも愛したイエスの存在は歴史上記念碑的な出来事だったわけだ、キリスト教が世界宗教として発展してきた背景には、「愛する」ことをその教えの中心に置き、それを実践したイエスがいたからだ。



教区の神父は「教会法では同性愛者の評議員入りは公認できない」と主張し、同性愛者の評議員会入りに反対を表明。オーストリアのカトリック教会最高指導者シェーンボルン枢機卿(67、写真=ウィーン大司教区のHPから)も教区側の見解を支持した。
