国際原子力機関(IAEA)の図書館で日本の新聞を読んでいて気がついたことだが、「土光敏夫、100の言葉」(出町譲著)「P.F.ドラッカーの『マネジメント』」、五木寛之著「いまを生きることば」など、経営者、大学教授、作家らの「言葉」「名言」「助言」をまとめた新刊書の広告が多いということだ。日本人はそんなに「言葉」に飢えているのか、というのが当方の最初の印象だった。
「言葉」には人生の指針から会社経営の教訓までいろいろあるが、出版社側は国民の「言葉」への需要に応えるため装丁を凝らしながら新刊を出し続けているわけだ。
それでは、なぜ日本人は「言葉」を探すのだろうか。
先ず、考えられることは、日本人が東日本大震災という想像を絶した天災に遭遇し、これまでの「生き方」に自信を失ったこと、それだから、人生の先輩や成功者の「言葉」から学ぼうという姿勢が高まってきたことなどが「言葉」ブームの背後にあるのだろう。
著名な人物の「言葉」が生き方を模索する読者に指針を与え、会社経営に苦しむ経営者を元気つけるというわけだ。例えば、ドラッカー著の新刊は100万部以上の売れ行きを示しているという。
新聞広告の宣伝文句を読んだ範囲だから詳細なことは言えないが、著者たちの「言葉」「教訓」が決して斬新な言葉で溢れているわけではない。むしろ誰でも知っている言葉が多い。「私心をなくして無我でがんばる」などの言葉はまったく昔から聞く「箴言」だ。それを読んだ読者が感動したり、「元気をもらう」のは、「言葉」の力だけでなく、読者が「言葉」を探しているという状況が先に存在するからだろう。
欧州の出版業界を良く知らないから詳細なことはいえないが、日本のような「言葉」をまとめた本は少ない。もちろん、皆無ではない。例えば、オスカー・ワイルドやウィリアム・シェイクスピアの著書の名言をまろめた本がある。ただし、欧州の多くの読者はそれらの名言を楽しむために本を読むのであって、日本人のようにそこから人生の指針を得ようといった姿勢は少ないように思える。
キリスト教文化社会の欧州では、人生の指針を求める時、作家や経営者の「言葉」ではなく、「聖書」の世界に求めることが多い。その意味で、世界最大ベストセラーの聖書は「言葉」の宝庫といえるかもしれない(日本人の場合、仏教の教典や教祖たちの「言葉」が愛用される。例えば、五木氏の場合、親鸞の「言葉」だ)。
いずれにしても、日本人は困窮した時、パンを求めると共に、自身を鼓舞してくれる「言葉」との出会いを願う民族といえるかもしれない。
「言葉」には人生の指針から会社経営の教訓までいろいろあるが、出版社側は国民の「言葉」への需要に応えるため装丁を凝らしながら新刊を出し続けているわけだ。
それでは、なぜ日本人は「言葉」を探すのだろうか。
先ず、考えられることは、日本人が東日本大震災という想像を絶した天災に遭遇し、これまでの「生き方」に自信を失ったこと、それだから、人生の先輩や成功者の「言葉」から学ぼうという姿勢が高まってきたことなどが「言葉」ブームの背後にあるのだろう。
著名な人物の「言葉」が生き方を模索する読者に指針を与え、会社経営に苦しむ経営者を元気つけるというわけだ。例えば、ドラッカー著の新刊は100万部以上の売れ行きを示しているという。
新聞広告の宣伝文句を読んだ範囲だから詳細なことは言えないが、著者たちの「言葉」「教訓」が決して斬新な言葉で溢れているわけではない。むしろ誰でも知っている言葉が多い。「私心をなくして無我でがんばる」などの言葉はまったく昔から聞く「箴言」だ。それを読んだ読者が感動したり、「元気をもらう」のは、「言葉」の力だけでなく、読者が「言葉」を探しているという状況が先に存在するからだろう。
欧州の出版業界を良く知らないから詳細なことはいえないが、日本のような「言葉」をまとめた本は少ない。もちろん、皆無ではない。例えば、オスカー・ワイルドやウィリアム・シェイクスピアの著書の名言をまろめた本がある。ただし、欧州の多くの読者はそれらの名言を楽しむために本を読むのであって、日本人のようにそこから人生の指針を得ようといった姿勢は少ないように思える。
キリスト教文化社会の欧州では、人生の指針を求める時、作家や経営者の「言葉」ではなく、「聖書」の世界に求めることが多い。その意味で、世界最大ベストセラーの聖書は「言葉」の宝庫といえるかもしれない(日本人の場合、仏教の教典や教祖たちの「言葉」が愛用される。例えば、五木氏の場合、親鸞の「言葉」だ)。
いずれにしても、日本人は困窮した時、パンを求めると共に、自身を鼓舞してくれる「言葉」との出会いを願う民族といえるかもしれない。