菅直人首相に対するメディアやネット上の論調を読んでいると、「首相の早期辞任こそ国民は願っている」「お前こそ復旧の最大の障害だ」など、厳しい批評が目立つ。大手メディアが公表した「首相の支持率」は20%以下となって久しい。野党だけではない。与党民主党内の若手議員ら約30人が首相辞任要求を要求したばかりだ。それでも菅首相は辞任する気配を見せていない。それどころか9月の国連総会の演説に対しても意欲を示しているという。
安倍晋三元首相は内外の批判を受けて、満身創痍のような状況で辞任に追い込まれた。福田康夫元首相は与党内に反対の声が強まるとあっさりと首相職を捨てた。しかし、菅首相は安倍元首相や福田元首相の道を行く気はさらさらないのだ。
最近は首相官邸を訪れる政治家も与党関係者も少ないという。首相が信頼できる政治家は数人に過ぎない。それでも、首相は「寂しい」とか「辞めたい」とか愚痴をこぼすどころか、女子サッカー世界選手権ドイツ大会で優勝した「なでしこジャパン」のメンバーが凱旋報告にくると、「最後まで諦めない姿勢に感動した」と述べ、「私もその諦めない姿勢を学びたい」と吐露する有様だ。
菅首相は2世のサラブレット議員だった安倍元首相や福田元首相とは出自が違う。「辞めろ、辞めろ」といわれれば、「絶対辞めない」と一層、頑迷になる。
当方などは、「首相ポストが四面楚歌の中でも死守したい魅力溢れるポストなのか」という疑問が自然と沸いてくる。
日本は議会民主制だ。首相職には米国の大統領のように多くの権限はない。最近の日本の政治を振り返ると、「首相は取替えが簡単な服」のようだ。汚れれば直ぐ着換えることができる。権威とは程遠いポストだ。しかし、菅首相の目にはどうやらそのようには映っていないようだ。
故江藤淳は菅直人という政治家を、「市民運動家の仮面をかぶった立身出世主義者」と喝破したという。多分、正鵠を射た人物評だろう。立身出世主義者の政治家にとって、最大目標は内閣総理大臣に就任することだ。
しかし、首相職を獲得した後、生来の立身出世主義者・菅首相の目には「次」が見えてこない。だから、本人も周囲も次第に不安と焦燥感を覚える。辞任後、安倍や福田のように、「自分は一度は頂点を極めた」という自己満足に浸って後の人生を生きていくことはできないのだ。
「立身出世」を目標としてきた人間、菅首相が陥る罠がここにある。福田や安倍のように綺麗さっぱりと辞めることはできないのだ。菅首相の終幕が惨めとなるのは当然の結果かもしれない。
一般的に、立身出世主義者は目標意識が強く、それを達成するまでの意思力は他を凌ぐものがあるが、何かに命を掛けるといった「使命感」(独 Berufung、英 calling)には往々にして欠けている。
「使命感」とは、心の内から突き上げてくる「これをしなければならない」といった義務感と表現してもいいかもしれない。使命感を持つ人物はその内的衝動を「天より付与された自身の人生の課題」として受け取る場合が多い。
大震災で荒廃した国家の復旧が急がれる時、政権延命のための即製の使命感ではなく、天より与えられた使命感を抱く人物の出現が求められる。
無い物ねだりに過ぎないよ、と冷笑されるかもしれないが、日本には必ずそのような人物が準備されていると確信している。
日本の歴史を想起してほしい。国難の時、必ずといっていいほど、国を導く使命をもった人物、グループが生まれてきた。「3月11日」の大震災を近代日本が直面した国難とみるならば、一層、そのような確信が深まる。
そして、立身出世主義者・菅首相がなさなけれならない事は、国家復興の使命に燃える人物にその席を潔く譲ることではないだろうか。
安倍晋三元首相は内外の批判を受けて、満身創痍のような状況で辞任に追い込まれた。福田康夫元首相は与党内に反対の声が強まるとあっさりと首相職を捨てた。しかし、菅首相は安倍元首相や福田元首相の道を行く気はさらさらないのだ。
最近は首相官邸を訪れる政治家も与党関係者も少ないという。首相が信頼できる政治家は数人に過ぎない。それでも、首相は「寂しい」とか「辞めたい」とか愚痴をこぼすどころか、女子サッカー世界選手権ドイツ大会で優勝した「なでしこジャパン」のメンバーが凱旋報告にくると、「最後まで諦めない姿勢に感動した」と述べ、「私もその諦めない姿勢を学びたい」と吐露する有様だ。
菅首相は2世のサラブレット議員だった安倍元首相や福田元首相とは出自が違う。「辞めろ、辞めろ」といわれれば、「絶対辞めない」と一層、頑迷になる。
当方などは、「首相ポストが四面楚歌の中でも死守したい魅力溢れるポストなのか」という疑問が自然と沸いてくる。
日本は議会民主制だ。首相職には米国の大統領のように多くの権限はない。最近の日本の政治を振り返ると、「首相は取替えが簡単な服」のようだ。汚れれば直ぐ着換えることができる。権威とは程遠いポストだ。しかし、菅首相の目にはどうやらそのようには映っていないようだ。
故江藤淳は菅直人という政治家を、「市民運動家の仮面をかぶった立身出世主義者」と喝破したという。多分、正鵠を射た人物評だろう。立身出世主義者の政治家にとって、最大目標は内閣総理大臣に就任することだ。
しかし、首相職を獲得した後、生来の立身出世主義者・菅首相の目には「次」が見えてこない。だから、本人も周囲も次第に不安と焦燥感を覚える。辞任後、安倍や福田のように、「自分は一度は頂点を極めた」という自己満足に浸って後の人生を生きていくことはできないのだ。
「立身出世」を目標としてきた人間、菅首相が陥る罠がここにある。福田や安倍のように綺麗さっぱりと辞めることはできないのだ。菅首相の終幕が惨めとなるのは当然の結果かもしれない。
一般的に、立身出世主義者は目標意識が強く、それを達成するまでの意思力は他を凌ぐものがあるが、何かに命を掛けるといった「使命感」(独 Berufung、英 calling)には往々にして欠けている。
「使命感」とは、心の内から突き上げてくる「これをしなければならない」といった義務感と表現してもいいかもしれない。使命感を持つ人物はその内的衝動を「天より付与された自身の人生の課題」として受け取る場合が多い。
大震災で荒廃した国家の復旧が急がれる時、政権延命のための即製の使命感ではなく、天より与えられた使命感を抱く人物の出現が求められる。
無い物ねだりに過ぎないよ、と冷笑されるかもしれないが、日本には必ずそのような人物が準備されていると確信している。
日本の歴史を想起してほしい。国難の時、必ずといっていいほど、国を導く使命をもった人物、グループが生まれてきた。「3月11日」の大震災を近代日本が直面した国難とみるならば、一層、そのような確信が深まる。
そして、立身出世主義者・菅首相がなさなけれならない事は、国家復興の使命に燃える人物にその席を潔く譲ることではないだろうか。