内村鑑三はその著書「代表的日本人」の中で「人間の最大関心事は宗教であります。正確に言うならば、宗教のない人間は考えられません」と述べ、「死の存在するところに、宗教はなくてはならないものです」と語っている。すなわち、誰もが迎える「死」への恐怖を乗り越えるためにも「宗教」が必要だという。
ところで、「われわれの時代、宗教が最大の関心事と受け取る人々は多くいるだろうか」と考えた。むしろ、「宗教は御免こうむりたい」と考える風潮が支配的ではないか。
一方、「死」への恐怖そのものは無くなったか。医療技術は日進月歩だ。細胞の再生技術研究も進んできた。しかし、内村鑑三が生きていた時代と同じように、現代人にも確実に、「死」は訪れる。
「余は如何にして基督信徒となりし乎」を書いた内村は神を見出すことで「死」の恐怖を超克し、和解した。それではわたしたちはどうだろうか。生活テンポが早まり、ゆっくりと「死」について考えることがなくなってきたが、「死」は依然、その暴力的な力で人間に襲い掛かってくる。
麻薬、アルコール類、快楽、ディスコ・パーティなどに走ったとしても、それらは「死」を一時的に忘れさせるだけで、確実に近づいてくる「死」への処方箋とはなり得ない。科学が宗教を凌駕したと豪語する人も、「死」の到来を遠ざける手段を見出せないだろう。
内村鑑三は「無宗教という人々にも宗教はあるのです」と述べ、どのような人間にも「宗教心」があるという。とすれば、何らかの理由から「宗教」を見失ってしまった人々は、早急に自身の「宗教心」と和解し、そして近い将来訪れる「死」を平静な心で迎え入れようではないか。
ところで、「われわれの時代、宗教が最大の関心事と受け取る人々は多くいるだろうか」と考えた。むしろ、「宗教は御免こうむりたい」と考える風潮が支配的ではないか。
一方、「死」への恐怖そのものは無くなったか。医療技術は日進月歩だ。細胞の再生技術研究も進んできた。しかし、内村鑑三が生きていた時代と同じように、現代人にも確実に、「死」は訪れる。
「余は如何にして基督信徒となりし乎」を書いた内村は神を見出すことで「死」の恐怖を超克し、和解した。それではわたしたちはどうだろうか。生活テンポが早まり、ゆっくりと「死」について考えることがなくなってきたが、「死」は依然、その暴力的な力で人間に襲い掛かってくる。
麻薬、アルコール類、快楽、ディスコ・パーティなどに走ったとしても、それらは「死」を一時的に忘れさせるだけで、確実に近づいてくる「死」への処方箋とはなり得ない。科学が宗教を凌駕したと豪語する人も、「死」の到来を遠ざける手段を見出せないだろう。
内村鑑三は「無宗教という人々にも宗教はあるのです」と述べ、どのような人間にも「宗教心」があるという。とすれば、何らかの理由から「宗教」を見失ってしまった人々は、早急に自身の「宗教心」と和解し、そして近い将来訪れる「死」を平静な心で迎え入れようではないか。