ウィーン発 『コンフィデンシャル』

 ウィーンに居住する筆者が国連記者室から、ウィーンの街角から、国際政治にはじまって宗教、民族、日常の出来事までを思いつくままに書き送ります。

2008年08月

イラクの小さな一歩

 イラク政府は19日、ニューヨークの国連で包括的核実験禁止条約(CTBT)に署名した。CTBT機関暫定技術事務局のティボア・トット事務局長は20日、ウィーンのCTBT機関本部で記者会見を開き、「イラクの署名を歓迎する。同国の署名は核軍縮、核拡散防止への強い政治的シグナルだ」と評価した。
 イラクが署名したことで、署名国数は8月現在で179カ国、批准国は144カ国、その内、条約発効に不可欠な、核開発能力保有国44カ国(研究用、発電用の原子炉保有国)では35カ国が批准済みだ。イラクは44カ国グループには属していない。
 イラク戦争が終決して5年余りが経過した。フセイン政権の崩壊後、イラクではシーア派とスン二派の宗派間の対立が先鋭化する一方、国際テロの活動舞台となるなど、一時は混乱を極めたが、マリキ政権になってから、治安も次第に安定し、国際社会への復帰も加速してきた。また、同国の原油生産量も今日、日量200万バレルを上回るなど、国民経済は回復の兆候が見られる。今回のCTBT署名はその成果の一つといえるわけだ。
 ところで、イラクの署名はイスラエル、エジプト、イランなど中東諸国にも少なからずの影響を与えることが予想される。イラク周辺国の条約状況を見ると、44カ国に入るイスラエル、エジプト、イランの3国は1996年にいずれも署名済みだが、依然批准していない。中東地域で未署名国はサウジアラビアとシリアの2国だけとなった。
 トット事務局長は「中東地域は紛争地域だ。その地域の大国だったイラクがCTBTの加盟国となったことで、中東和平に貢献することが期待できる」と述べている。米宇宙飛行士・二ール・A・アームストロングの有名な言葉に倣っていうならば、「イラクのCTBT署名は小さな一歩だが、中東地域にとって偉大な一歩」といえるかもしれない。

「欧米の結束の乱れ」とその代価

 ハンガリーで民主化を押し進めたナジ政権はソ連軍の侵攻で弾圧されたが(ハンガリー動乱)、ソ連共産党フルシチョフ書記長は当時、ハンガリーに軍事攻勢をかけても欧米諸国の報復はないとの暗黙のシグナルを受け取っていた。チェコスロバキア(当時)でドプチェク共産党第一書記の改革路線(プラハの春)がワルシャワ条約機構軍によって壊滅された時も同様だ。ソ連ブレジネフ共産党政権はチェコの民主化に軍事介入したとしても、欧米諸国が具体的な軍事対応には出てこないという確信をもっていた。特に、米国は軍縮交渉を通じてソ連との関係改善に期待をかけていた矢先だったので、交渉の障害となる軍事干渉には躊躇せざるを得なかったからだ。このように、ソ連は当時、欧米諸国から流れる政治シグナルを見逃さなかったのだ。
 一方、ブッシュ米大統領は4月1日、キエフで「米国はウクライナとグルジアの北大西洋条約機構(NATO)加盟を支持する」と表明したが、ブカレストで開催されたNATO首脳会談ではグルジアの加盟候補国入り問題は先送りにされた。その時、ロシアは南オセチア自治州の少数民族ロシア系住民の保護という名目でグルジアに軍事介入することを決定したのではないだろうか。
 エストニアのイルヴェス大統領はメディアとの会見の中で、「NATOがグルジアの加盟を拒否した時、ロシアはグルジアへの軍事介入の絶好のチャンスと解釈したはずだ。今回の紛争の主因はNATOの政策ミスだ」と主張し、「ロシア軍は今月、グルジアに出動したのではなく、既に5月段階でグルジアに向かって動き出していた」と証言している。
 ハンガリー動乱、プラハの春、そして今回のグルジア・南オセチア自治州紛争をみても、旧ソ連、そしてロシアは決して危険な軍事的冒険主義に出たわけではない。冷戦時代、民主化を進める東欧諸国への欧米諸国の結束の乱れと不明確な政治姿勢がソ連の軍事侵攻を誘発させたように、グルジアのNATO加盟先送り決定がロシア側に「NATOの結束の乱れ」と解釈されたわけだ。
 もちろん、看過できない点は、ロシアが、セルビア共和国帰属のコソボ自治州の独立宣言を南オセチア自治州とアハブジア自治共和国の独立を勝ち取る絶好の契機、と受け取った可能性が考えられることだ。

ある神学者の画期的な提案

 宗教には必ず、祝日がつきものだ。キリスト教ではイエス・キリストの降臨祭(クリスマス)、イースター(復活祭)、五旬節(ペンテコステ)などが代表的な祝日だ(キリスト教の祝日の中には「移動祝日」として毎年変るものがある)。
 欧州ではキリスト教の祝日に基づく休日が多いが、その一日を他宗派の休日に提供したらどうか、といった提案が出てきた。教会関係者が聞けばビックリするような考えを明らかにしたのは、スイス・ルツェルン州の神学者(教会史)、マルクス・リース教授だ。
 バチカン放送が16日、報じたところによると、同教授は「今月15日(聖母の被昇天)のカトリック教系休日を廃止して、その代わりに、例えば、イスラム教系祝日のラマダン後の祭(Elfetr)を休日としたらどうだろうか」と提唱したという。
 今月15日はカトリック教の祝日(「聖母の被昇天」)として休日だった。カトリック中央協議会によると、「マリアが霊魂も肉体もともに天に上げられたという教義で、ローマ法王ピオ12世が1950年、公布した」という。ところが、同日を特別な祝日として受け取ったカトリック信者は少ないのが現実だ。例えば、12月8日は聖母マリアの無原罪の御宿りの日としてカトリック教国では祝日だが、同日は最近、宗教的意義が薄れ、単なる休日に過ぎなくなってきたのと同じだ。
 イタリア北部パデルノ・ディ・ポンツァノ・ヴェネトのドン・アルド・ダニエリ神父は昨年、イスラム教徒がローマ・カトリック教会内で礼拝など宗教活動を実践できるように、教会建物の共同使用を明らかにしたことがある。もちろん、初めての試みだ。しかし、カトリック教系休日をイスラム教系祝日に譲渡するという話はこれまで聞いたことがない。
 リース教授の提案が具体的に実現するチャンスは現時点では皆無に等しい。キリスト教からイスラム教に、逆に、イスラム教からキリスト教に改宗するケースが増えてきているが、メロンパンをカレーパンに代えるように安易に交換したり、譲渡できないのが宗教祝日だろう。

ある洋菓子喫茶店閉店の話

 いつものように早朝、犬を連れて散歩していたら、「コンディトライ」(Konditorei、洋菓子喫茶店)が見えた。店舗の窓ガラスに紙が貼ってある。何だろうと思い、近づいて読むと、「41年9カ月間、いつもご愛顧していただきましてありがとうございました。わたしたちは7月で年金生活に入りますので、閉店させていただきます。これまで変らないご愛顧を心より感謝します。皆さんの人生の中で(当店のケーキが)少しでも喜びとなっていたとすれば、幸いです」と書いてあった。
 41年間と9カ月間、この店の主人はトルテ(ケーキ)を作り、客をもてなしていたのだろう。2年前に近くに引っ越してきた当方は残念ながらこの店に足を踏み入れたことがない。店の主人も知らない。でも、何故か非常に感動を覚えた。雨の日も嵐の日も、そして晴れた日も、この店の主人は店を開き続けてきたのだ。
 41年9カ月といえば、人間の一生でもかなりの部分を占める。美味しいケーキができた日もあっただろうし、客の不満を聞く日もあっただろう。家族の誰かが病気になって、臨時閉店したこともあったはずだ。若い時、子供が生まれて嬉しくて客をつかまえては自慢した日もあったかもしれない。新しいモダンな喫茶店が近くに開業したため、営業が厳しくなったこともあるだろう。しかし、店を開き続けて、年金をもらえる年となったので、店を閉じる事にしたわけだ。
 コンディトライの主人は41年9カ月の間、どのような思いで生きてきたのだろうか。どのような「生き方」にしても、「初め」があり、その「継続」があり、そしてそれを「閉じる」時が来るものだ。洋菓子喫茶店の主人は今、「閉じる」時を迎えたのだろう。
 窓ガラスに張られた紙の前にじっとしている当方を不思議に思ったのか、散歩好きな犬は当方をしきりにせかした。

あなたの名は?

 人類始祖アダムとエバが最初にした仕事は何だろうか。あくまでも当方の想像だが、神が創造した被造物に名前を付けることだった。「これをバラと呼ぶ」「これはヒツジとする」といった具合にだ(「愛」や「苦悩」といった抽象的な概念はずっと後から生まれてきたものだろう)。
 「ヨハネによる福音書」1章の有名な聖句、「初めに言(ことば)があった。言は神と共にあった。すべてのものは、これによってできた。・・・この言に命があった」を思い出して欲しい。名称を含む全ての言には、神の創造デザインがあったことが分る。それに基づいて、アダムとエバは名前を付けていったはずだ。
 ところで、肝心の「神」をどのように呼ぶべきだろうか。全ての存在物に名前があるように、神も必ずや名称があるはずだ。聖書を読むと、「わたしは主である。これがわたしの名である」(イザヤ書42章8節)と記述されている。だから、神を「主」と呼ぶことが多い。一方、イエスは十字架の道を行く直前、ゲツセマネの祈りで神を「わが父よ」(マタイによる福音書26章39節)と呼んでいる。その一方、ヘブライ語に基づいて「エホバ」や「ヤハウェ」と呼ぶこともある。例えば、モーセが神に「わたしを使わした方をなんといえばいいのですか」と質問した時、神は「わたしは、有って有る者」「わたしは有る」と答えている(出エジプト記3章14節)。このように、「神の名」は聖書の中でもさまざまな名称で呼ばれていることが分る。
 さて、14日のバチカン放送によると、バチカン法王庁(ローマ・カトリック教会総本山)は「典礼(礼拝)で今後、Jahwe(ヤハウェ)という神の名前を使用してはいけない」と決定したという(「典礼での神の名前の利用に関するバチカンの訓令」は6月29日、典礼秘跡省の書簡として世界の司教会議宛てに通達されたという)。その理由は「ユダヤ教の伝統では、『神の名』を呼ばない。なぜならば、神は余りにも偉大であり、被造物の人間がその名称を呼ぶことは適切ではないと考えるからだ」という(カトリック教会では通常、神を「主よ」と呼んでいる)。
 バチカンが突然、どうして「神の名」に拘り、「ヤハウェ」という名の使用を禁止したのかは知らない。明確な点は、教理によって数百のグループに分かれている現キリスト教会の再統合には、「神の名」の統一が不可欠だ、ということだろう。

サラエボの犬

 当方宅に先日、1匹の犬がきた。長期休暇で留守をする知人の犬を世話する羽目になったのだ。
 過去、犬を預かったことがあるので、犬の世話はよく知っているつもりだった。今回の犬はメス犬で生後4カ月の雑種犬だ。出身地はサラエボという。処理されるところを動物愛護活動家に救われ、欧州パスを受け取ってオーストリアに引き取られた犬だ。
 もちろん、犬学校には通ったことがないから、躾がない。当方がソファーに座ってTVニュースを見ていると、サラエボ出身の犬もソファーにのぼってくる。「ダメだ」と叫んだが、当方の日本語を理解できないのか、突然、恐ろしい声で叫ぶ当方の顔をみて、サラエボの犬は首をすくめるだけだ。
 「英語か独語でいわないと、分らないのよ」と妻は暢気なことをいう。
 「サラエボは英語でも独語でもない。確か、セルビア語だぞ」というと、「でも、サラエボからオーストリアにきて1カ月余り経過しているから、独語も少しは分るはずよ」という。
 妻とサラエボ犬の母国語争いをしていても埒があかない。肝心なことは、ソファーに登ってはダメだということを理解してもらえばいいのだ。既に5日間が過ぎたが、サラエボの犬は当方がいないとちゃんとソファーの上に座っている。そのうえ、2度、その上で小便までしてくれたのだ。その度にサラエボの犬を預けて南の国に休暇にでかけた知人に対して、無性に怒りが湧いてくる。
 それだけではない。夕方になるとガラスに映る自分の姿に向かって吠え出し、上空を通過する飛行機に向かっても吠え出す。妻は「番犬にはいいわね」というが、アパート住まいの身では、犬が吼えれば、近所の住民から苦情が出るのは目にみえている。
 サラエボの犬がきてからは、当方は早朝4時過ぎには起床して、1時間ほど犬の散歩に出かける。そして仕事を終えて帰宅後、再び犬と夜の散歩に出かけるのが日課となった。
 通常の犬は散歩中に大小便を済ますが、サラエボの犬は何故か外では絶対にしない。散歩を終えて帰宅後、ベランダに行って用をするのだ。その度に叱るが、サラエボの犬は何故か理解しない。
 大小便を片付けながら、当方は「なんという犬だ」とぶつぶついうと、妻は「サラエボの犬がきてからはあなたは益々ぶつぶついうようになったわね」という。
 なお、当方がこのブログ欄でコラムを更新できなかった時は、「当方氏はサラエボの犬の世話に追われ、コラムを書く時間がなかったのだな」と考えて頂きたい。
 サラエボの犬は今もソファーに座ろうと虎視眈々とチャンスをうかがっているのだ。

国連で弁当持参が静かなブーム

 ウィーンの国連建物には、発がん物質のアスベスト(石綿)が天井や床に使用されているため、国連側は数年前からアスベストの除去作業を続けてきたが、7月からは2カ月間の予定で国連内のレストランでも作業が始まった。その間、数千人の国連職員の昼食を提供するために、レストラン経営者は暫定的にCビル1階、2階、4階などで分業して営業している。
 メニューは4種類で値段も何時もと変らないが、国連職員からは「美味しくない」とか「新鮮な感じがしない」といった苦情が聞こえる。当方も何度か昼食をしたが、確かにシチューに入っている肉類の質が悪いうえ、味が濃く、脂ぽい。
 レストランのチーフに聞くと、「全てのメニューはブラチスラバ(スロバキアの首都)で料理した後、約1時間かけてウィーンに運び込まれ、そこで再度料理を温めている」という。何度も料理を温め直せば、食材の味は落ちるのは当然だろう。
 そこで「どうしてウィーンで料理しないのか」と聞いた。経営者は「われわれもウィーンで料理したいが、場所がない。その上、外部に料理を依頼すれば現在の値段ではやっていけない。そこで食材はウィーンで調達し、労賃の低いブラチスラバの会社で料理して再びウィーンに運び込むことにしたのだ」という。
 「味が落ちたという声がある」と意地悪な質問をすると、「品質管理は毎日している。ただ、スロバキア人の味覚がウィーンのそれとは異なるのだろう」と説明するだけだ。
 レストランのアスベスト撤去作業が始まって以来、ブラチスラバの昼食に満足できない国連職員はわざわざ外出して食事を取っているが、自宅で弁当を作って持参する職員も増えてきたという。弁当持参が静かなブームとなってきたわけだ。
 9月になれば、レストランは従来の場所で営業を再開する予定だが、弁当作りの喜びとその味を覚えた職員が果たして再び国連レストランに足を向けるだろうか。

北京五輪と「教会」

 北京五輪大会参加者や旅行者向けに約6万冊の聖書(中国語訳と英語訳)がオリンピック村などに配布された、というニュースが流れてきた。シュツットガルトを拠点とするドイツ聖書協会が9日、明らかにした。
 その一方、中国当局は五輪開催期間、非公認のキリスト教会の活動を制限し、北京周辺で聖職者の活動、礼拝を禁止したという情報も入ってきた。実際、自身の教会で礼拝ができないため、ローマのバチカン法王庁(ローマ・カトリック教会総本山)に忠実な地下教会関係者は「五輪開催期間は中国当局の管理下にある愛国会教会の礼拝に参加するように」と信者たちに通達しているほどだ。
 一方、五輪開幕式に参加したブッシュ米大統領は10日、夫人連れで北京の愛国会所属のプロテスタント教会の礼拝に参加した後、信教の自由をアピールしている。ちなみに、同大統領夫妻が中国官製教会の礼拝に参加した事に対し、「中国当局の宗教政策を支持することにもなる」といった批判の声が挙がっている(アムネスティ・インターナショナル)。
  五輪開幕式に中国当局から招待された香港カトリック教区のジョン・湯漢・協働司教はバチカン日刊紙オッセルバトーレ・ロマーノの中で、「母国が五輪を主催できることに誇りを感じるし、招待されたことは栄誉だが、多くの聖職者や信者たちが拘束されたり、自宅監禁状況にある現実を想起する時、複雑な思いになる」と証言している。
 なお、ローマ法王ベネディクト16世は3日、北京五輪開催に対し、「大国・中国がイエスの福音伝道に開かれることを期待する」とのメッセージを述べたが、具体的なことには言及しなかった(法王は昨年6月30日、書簡「中国人への手紙」を発表し、中国共産党独裁政権下で弾圧を受けている地下教会の聖職者、信者に熱いメッセージを送っている)。
 付け加えるならば、中国国内で宗教への関心が高まってきている。特に、若い世代はキリスト教に心がひかれているという。

金総書記がいま、落ち込んでいる

 第29回夏季五輪北京大会の開幕式は壮大だった。特に、グレーの衣装を着た2000人以上の青年たちが漢数字、洋数字を人文字で描き出し、中国の歴史を一巻の絵巻物に描く斬新なアイデアには脱帽した。
 ところで、北京の国家体育場で繰り広げられたオープニングをTV観賞してショックを受けた人物がいる。北朝鮮最高指導者の金正日労働党総書記だ(これは北朝鮮消息筋から聞いた話だ)。
 ご存知のように、金総書記は史上最高の芸術家の称号を誇る人物であり、マスゲームの「アリラン祭典」の総監修者だ。食糧問題や洪水問題に直面し、国民がアリラン祭典の準備が出来ない時、「祭典の準備を怠るべきではない」と檄を飛ばした人物だ。それほどアリラン祭典には拘っている。10万人以上の国民を動員して会場一杯に人文字を描く演出は既に世界的に有名だ。
 中国が開会式の演出に人文字を計画しているといわれた時、真偽は別として、「中国当局は北朝鮮のアリラン祭典担当者を北京に招待して、人文字のノウハウなどを教わっている」といった情報が流れたほどだ。人文字といえば、北朝鮮、そして金総書記を直ぐに思い出すほど、双方は密接に繋がっているわけだ。
 その金総書記の伝説が8日の北京大会開幕式の演出後、色褪せてきたのだ。中国映画監督・張芸謀氏が総監修した人文字や絵巻物は完全に「アリラン祭典」の人文字を凌いでいたからだ。動員された国民の数では祭典が依然、圧倒的に多いが、北京の場合はコンピューター技術や照明技術を駆使し、芸術性と歴史性が合わさった人文字を非常に効果的に演出していたのだ。
 同開会式の直後、北朝鮮外交官に会う機会があったので、北京の開会式の印象を聞いてみた。「金総書記のアリラン祭典の人文字とは違って、北京の人文字には、最先端の演出機材や技術が巧みに動員されていましたね」とこちらの印象を正直に言った。すると、同外交官は少し笑いながら「確かに、コンピューター操作の演出は飛びぬけて上手かったね」と頷くのが精一杯だった。明らかに、ショックを受けている感じだった。
 同国外交官だけではないのだ。金総書記も北京大会の開幕式を観た後、“落ち込んでいる”という噂が流れているのだ。アリラン祭典の演出家・金総書記は、映画監督・張芸謀氏の演出家としての能力と中国の国力を目のあたりにし、自身の能力と自国の国力に限界を感じ出しているというのだ。金総書記が今、落ち込んでいる。

男性諸君、石打ち刑廃止を叫べ

 律法学者やパリサイ人たちが姦淫をした女性をイエスの前に連れていき、「モーセの律法に基づいて姦淫をした女を石で打ち殺すべきか」(ヨハネによる福音書8章)と聞く。モーセの律法では姦淫を犯した男女は石打ち刑に処していいことになっているからだ(旧約聖書・申命記22章)。それに対し、イエスは「罪のない者が打て」と答える有名な個所がある。
 旧約時代から続く「石打ち刑」を今日も忠実に遵守している国が存在する。アムネスティ・インタナショナル(AI)よれば、イラン、アフガニスタンなどだ。ところが、イランは最近、石打ち刑による死刑を廃止し、石打ち刑の判決を受けていた女性は他の処罰の刑を受ける事になったという(バチカン放送)。それが事実ならば、イランの現刑法では依然、石打ち刑が含まれているから、議会を通じて刑法の改正が必要となるわけだ。
 ちなみに、イランでは2002年以来、石打ち刑のモラトリアム(一時停止)が実施されてきた(AIは「イランでは昨年も1人の男性に対して石打ち刑が実施された」と反論している)。
 死刑廃止論が世界的に高まっている今日、石打ち刑とはいささか時代錯誤だが、ここで問題はイエスの答えだ。イエスは「石打ち刑廃止論者」ではないのだ。ただ、「罪のない者だけが石打ちできる」と宣言しただけだ。それだけではない。「わたしはあなたがたに言う。だれでも、情欲を抱いて女を見る者は、心の中ですでに姦淫をしたのである」(マタイによる福音書5章28節)と主張しているのだ。イエスは律法や法の世界だけではなく、心の世界まで侵入してきて言うのだ。
 イエスの時代に生きていれば、ほぼ全ての男性諸君は石打ち刑を受ける運命を逃れる事ができないわけだ。全男性諸君はイランの石打ち刑を他人事のように考えるのではなく、AIと連携して石打ち刑廃止を声高く叫ばなければならない立場にあるのだ。
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