アドルフ・ヒトラーは1933年1月30日、ドイツで政権を掌握した。あれから今年1月30日で75周年を迎えたが、オーストリアではヒトラーがベルリンで権力を掌握するまでの政治プロセスを描いたドキュメンタリーが国営放送で放映された程度で、表立ったイベントはなかった。
ヒトラーは1889年4月、ドイツ・バイエルン州との境界線にある村、ブラウナウで生まれた。生粋のオーストリア人だが、オーストリアではヒトラーをドイツ人、ウィーンで音楽活動をした楽聖ベートーヴェンをオーストリア人と見なしたがる傾向がある。実際、境界線に流れているイン川を越えれば、そこはバイエルン州だ。距離として数百メートルもない。ヒトラーがイン川を越えた側で生まれていてくれれば、どれだけ歴史が軽くなったことだろうかと、オーストリア人が考えても不思議ではない。
ヒトラーはオーストリア第3の都市リンツ市の実業学校を成績不良で退学した後、ウィーンの美術大学を受験したが、2度とも失敗している。そして1907年にミュンヘンに移住し、そこで軍に入隊し、第1次世界大戦の敗北後は次第に政治に関っていくわけだ。ヒトラーが美術大学の試験に受かって美術学生となっていたならば、世界の歴史は変っていたわけだ(ちなみに、ヒトラーを2度、落第させた美術大学教授の墓は現在、ウィーン市中央墓地にある)。
当方は1990年代初め、ブラウナウを訪問したことがある。ヒトラーの生地を見たいと思い、役所や店でその場所を聞いてみたが、誰もどこにあるかを教えてくれなかったものだ。最終的には、通行人に聞いて、ヒトラーの生家を訪問できたが、村人は誰一人としてヒトラーの生家をよそ者に話したくない、という雰囲気があった。ヒトラーの生家は当時、身体障害者のリハビリ施設として利用されていた(現在は知らない)。
バチカン放送は、1933年1月30日を「欧州で戦争が起き、数百万人が犠牲となり、追放され、虐殺される道が開かれた日だ」と述べている。
ヒトラーは1889年4月、ドイツ・バイエルン州との境界線にある村、ブラウナウで生まれた。生粋のオーストリア人だが、オーストリアではヒトラーをドイツ人、ウィーンで音楽活動をした楽聖ベートーヴェンをオーストリア人と見なしたがる傾向がある。実際、境界線に流れているイン川を越えれば、そこはバイエルン州だ。距離として数百メートルもない。ヒトラーがイン川を越えた側で生まれていてくれれば、どれだけ歴史が軽くなったことだろうかと、オーストリア人が考えても不思議ではない。
ヒトラーはオーストリア第3の都市リンツ市の実業学校を成績不良で退学した後、ウィーンの美術大学を受験したが、2度とも失敗している。そして1907年にミュンヘンに移住し、そこで軍に入隊し、第1次世界大戦の敗北後は次第に政治に関っていくわけだ。ヒトラーが美術大学の試験に受かって美術学生となっていたならば、世界の歴史は変っていたわけだ(ちなみに、ヒトラーを2度、落第させた美術大学教授の墓は現在、ウィーン市中央墓地にある)。
当方は1990年代初め、ブラウナウを訪問したことがある。ヒトラーの生地を見たいと思い、役所や店でその場所を聞いてみたが、誰もどこにあるかを教えてくれなかったものだ。最終的には、通行人に聞いて、ヒトラーの生家を訪問できたが、村人は誰一人としてヒトラーの生家をよそ者に話したくない、という雰囲気があった。ヒトラーの生家は当時、身体障害者のリハビリ施設として利用されていた(現在は知らない)。
バチカン放送は、1933年1月30日を「欧州で戦争が起き、数百万人が犠牲となり、追放され、虐殺される道が開かれた日だ」と述べている。