ウィーン発 『コンフィデンシャル』

 ウィーンに居住する筆者が国連記者室から、ウィーンの街角から、国際政治にはじまって宗教、民族、日常の出来事までを思いつくままに書き送ります。

2008年01月

ヒトラーが政権を掌握した日

 アドルフ・ヒトラーは1933年1月30日、ドイツで政権を掌握した。あれから今年1月30日で75周年を迎えたが、オーストリアではヒトラーがベルリンで権力を掌握するまでの政治プロセスを描いたドキュメンタリーが国営放送で放映された程度で、表立ったイベントはなかった。
 ヒトラーは1889年4月、ドイツ・バイエルン州との境界線にある村、ブラウナウで生まれた。生粋のオーストリア人だが、オーストリアではヒトラーをドイツ人、ウィーンで音楽活動をした楽聖ベートーヴェンをオーストリア人と見なしたがる傾向がある。実際、境界線に流れているイン川を越えれば、そこはバイエルン州だ。距離として数百メートルもない。ヒトラーがイン川を越えた側で生まれていてくれれば、どれだけ歴史が軽くなったことだろうかと、オーストリア人が考えても不思議ではない。
 ヒトラーはオーストリア第3の都市リンツ市の実業学校を成績不良で退学した後、ウィーンの美術大学を受験したが、2度とも失敗している。そして1907年にミュンヘンに移住し、そこで軍に入隊し、第1次世界大戦の敗北後は次第に政治に関っていくわけだ。ヒトラーが美術大学の試験に受かって美術学生となっていたならば、世界の歴史は変っていたわけだ(ちなみに、ヒトラーを2度、落第させた美術大学教授の墓は現在、ウィーン市中央墓地にある)。
 当方は1990年代初め、ブラウナウを訪問したことがある。ヒトラーの生地を見たいと思い、役所や店でその場所を聞いてみたが、誰もどこにあるかを教えてくれなかったものだ。最終的には、通行人に聞いて、ヒトラーの生家を訪問できたが、村人は誰一人としてヒトラーの生家をよそ者に話したくない、という雰囲気があった。ヒトラーの生家は当時、身体障害者のリハビリ施設として利用されていた(現在は知らない)。
 バチカン放送は、1933年1月30日を「欧州で戦争が起き、数百万人が犠牲となり、追放され、虐殺される道が開かれた日だ」と述べている。

スーダンのミリオネアー

 ロシアのミリオネアーは既に有名だ。最近、英国サッカーのプレミアリーグの「チェルシー」のオーナー、ロシアの大富豪ロマン・アブラモヴィッチ氏がウィーン市1区の一等地の不動産を購入したことが判明したばかりだ。冷静時代、東西両欧州の掛け橋的な地位にあったウィーンには多くのロシア人外交官やメディア関係者が情報員として働いていたが、冷戦の終焉後は、彼らに代わって石油ビジネスで大富豪となったロシア人ビジネスマンが不動産売買や投資で進出してきている。
 共産党独裁国家の中国でも資産1億円以上のミリオネアーは35万人以上いると推定されている。旧ソ連・東欧共産政権時代、“赤い貴族”と呼ばれて批判されてきたが、中国では今日、共産党幹部たちが会社社長の名刺を党員のIDカードより重視する時代となってきたのだ。
 ところが、最貧国だったスーダンにも最近、ミリオネアーが出現したという。今世紀最大の悲劇といわれるダルフールの難民の映像だけを観てきた読者は、スーダンにもミリオネアーが存在するとは考えないだろう。しかし、ここでは英国の詩人バイロンの「事実は小説より奇なり」という言葉を思い出して欲しい。同国にもミリオネアーが存在するのだ。
 首都ハルツームの百貨店を独占しているのは数人のスーダン実業家だ。彼らは欧州でもなかなか見られないほどの豪華絢爛な別荘を所有している(ちなみに、スーダンでは通常、1日5ユーロ、月200ユーロの収入があれば生活できる)。
 それでは、最貧国の同国で如何にしてミリオネアーが生まれてきたのかをここで少し説明する。同国で数年前に石油資源が見つかった。砂糖にアリが集まるように、中国企業が石油の利権や開発権を独占するためにスーダンに進出してきた。中国の投資を受け、スーダンの石油産業は今日、日量50万バレルの生産量を誇っている。石油輸出国機構(OPEC)の加盟は時間の問題と見られているほどだ。
 その中国人ビジネスの窓口となったスーダン人がミリオネアーとなっていったのだ。石油開発の利権を獲得したロシア人ミリオネアーや共産党政権との癒着や人脈を利用して富を積んでいった中国人ミリオネアーとは異なり、スーダンのミリオネアーは対中国ビジネスを通じて富を積んでいった人々だ(ハルツームには多数の中国人ビジネスマンが働いている。スーダン人女性と結婚した中国人もいるほどだ)。

 この話をしてくれたスーダン出身の知人は最後に、「中国ビジネスマンはその事業を成功するためにあらゆる手段を駆使していった。わが国に賄賂や腐敗といった悪の習慣を植え付けたのは彼らだ」と嘆いた。

ポーランドで神学生の数が急減

 東欧のポーランドは共産政権時代も冷戦後もカトリック教国だった。共産政権時代のヤルゼルスキー大統領も「わが国は共産国だが、その精神はカトリック教国に入る」と認めるほど、国民のカトリック教会への忠誠心、信仰は強く、東欧の民主化の先駆的役割を果たした自主管理労組「連帯」の民主化運動を支えてきたことは歴史的事実だ。同国のクラクフ出身のカロル・ボイチワ大司教(ヨハネ・パウロ2世)が1978年にローマ法王に選出されたのも偶然のことではない。
 同国では2006年末、46人の国会議員が神の子イエスを「ポーランド王」に奉る動議を出して話題となったことがある。ポーランが共和国からイエス王が治める君主国家に復帰することを意味するからだ。ちなみに、ヨハネ・パウロ2世は生前、「ポーランド民族は異教徒の侵略から欧州を守る力を付与されている」と述べたことがある。実際、オスマン・トルコ軍が1683年、オーストリアの都ウィーンを包囲した時、ポーランドの王ヤン3世ソビエスキがイスラム教徒から欧州を守る為に兵を派遣して、トルコ軍の侵略を阻止したことがある。
 しかし、欧州カトリック主義の模範国だった同国も試練に直面してきている。カトリック聖職者の数や聖職者候補(神学生)の数が減少してきたのだ。昨年の神学生数は786人で、前年度の1029人より急減したことが明らかになったばかりだ。同国のポーラク司教は「ショッキングなことだ」と驚きを表している。
 聖職者の予備軍ともいうべき神学生の数が減少してきた背景としては、欧州全般に見られる社会の世俗化が先ず考えられる。最近の中絶論争もその現れだろう。同時に、聖職者の「過去」問題が表面化し、聖職者への尊敬や信頼感が揺れてきたことも事実だろう。例えば、ワルシャワ教区のスタニスラフ・ウィールグス大司教が昨年1月7日、共産政権の秘密警察の協力者であるとの批判を受け、ワルシャワ大司教のポストを辞任したことはまだ記憶に新しい。共産政権時代の協力者容疑で聖職を辞任した聖職者はウィールグス大司教が初めてではない。ポーランド教会では過去、多くの聖職者が共産政権の情報提供者として告発されてきたのだ。
 旧東独の民主化運動の拠点だった福音教会が統一ドイツが実現した直後から急速にその勢力を消滅していったように、ポーランドのカトリック教会は欧州連合(EU)の加盟後、その影響力に陰りが見え出してきた。

アフリカ杯と国連職員

 サッカー・アフリカ選手権(アフリカ杯)ガーナ大会が20日、ガーナの首都アクラでホスト国ガーナとギニア戦で開幕したばかりだ。出場16チームが4グループに分かれて熱戦を繰り広げている。
 今年6月、スイスとオーストリア共催で欧州サッカー選手権(ユーロ2008)が開催されるが、それに先駆けて開催中のアフリカ杯はサッカー・ファンにとって見逃すことが絶対に出来ないイベントだろう。サッカーの水準も決して欧州チームに劣らない。アフリカ・チームの主流選手は欧州クラブで活躍している選手が多いから、当然かもしれない。昨季リーグ得点王となったチェルシーのドログバ選手はコートジボワール代表FWだ。欧州選手には見られないボールさばきや個人業は観戦していて楽しい(昨年、1度しか勝たなかったオーストリアのナショナル・チームを応援し続けてきた当方にとって、どのアフリカ・チームも非常に魅力に溢れている)。今大会の優勝候補国は主催国ガーナの名前が挙がっている(前回優勝国はエジプト)。
 ところで、2年前のサッカー・ワールドカップ(W杯)ドイツ大会の開催期間中、ウィーン国連では仕事に集中できなかった職員が少なくなかった。特に、自分の国が試合中となれば、正直いって仕事どころではない。テレビが観られる場所に行く。幸い、国連Cビル3階の報道室には古いがテレビがある。それを知っている職員が昼頃から侵入してくる。記事書きに追われている記者たちにとっては少々迷惑だ。本来ならば、治安職員がテレビ観戦中の職員に注意を促すべきなのだが、治安職員もサッカー狂が少なくないから、結局一緒になって観戦することになる、といった具合だ。
 そして今度はアフリカ杯だ。アフリカ出身の職員にとって、仕事どころではなくなる。熱狂的なアフリカ出身の国連職員たちがどこからかテレビをCビル3階のフロアに持ち込んできて、欧州スポーツ専門局「ユーロ・スポーツ」で試合を観戦する。「勤務時間だから、ダメ」なんていえば、「なんと堅苦しい人間だ」と軽蔑されるのがオチだ。昼食時間のレストランでもアフリカ杯が話題を占める。決勝戦が行われる来月10日まで、特にアフリカ出身の職員にとっては、試合の展開が気になって、仕事に集中できないだろう。ちなみに、アフリカ杯は世界100カ国以上に中継されるという。

「謝罪」で分かる法王の違い

 2000年の歴史を誇り、世界に約11億人の信者を有するローマ・カトリック教会の最高指導者だった故ヨハネ・パウロ2世は生前、26回以上の「謝罪」表明をした稀なローマ法王だった。カトリック教会では過去、「キリストから地上の教会を託されたペテロの継承者」という理由から、法王は謝罪を絶対しなかった、というより、謝罪できなかった。1870年の第1バチカン公会議で決定された「法王の無謬性」というドグマがその背景にあったからだ。
 その慣習を破ったのは故ヨハネ・パウロ2世だ。同法王は西暦2000年の新ミレニウムを「新しい衣で迎えたい」という決意から、教会の過去の問題を次々と謝罪していった。例えば、法王はユグノー派に対して犯したカトリック教会の罪(1572年)を謝罪し、1992年にはイタリアの天文学者ガリレオ・ガリレイの異端裁判の判決(1632年)を「教会の過ち」と認め、異端として火刑に処せられたチェコの宗教改革者ヤン・フスの名誉回復を実施した、といった具合だ。
 一方、ヨハネ・パウロ2世の後継者、ベネディクト16世は「謝罪」を拒む、というより、これまで謝罪したこたことがない法王だ。例えば、ドイツ出身の法王は2006年9月、訪問先のドイツのレーゲンスブルク大学で講演し、そこでイスラム教に対し「モハメットがもたらしたものは邪悪と残酷だけだ」と批判したビザンチン帝国皇帝の言葉を引用した。そのため、世界のイスラム教徒から激しい反発を誘発した、あの不祥事を思い出して欲しい。ベネディクト16世は当時、「自分の真意が誤解された」と弁明するだけで、謝罪は表明していない。最近では、イタリアの国立サピエンツァ大学の始業式参加を大学内の教授たちの抗議デモを受け、キャンセルしている。教授たちは、「法王は教理省長官時代(ヨーゼフ・ラッツィンガー枢機卿)、『カトリック教会は当時、ガリレオよりも理性的であった』と主張し、科学を侮辱した」と激しく批判した。それに対し、ベネディクト16世は謝罪する代わりに、大学訪問をキャンセルしたわけだ。
 ベネディクト16世の反応は決して異例ではなく、ローマ法王としては典型的なものだ。その意味で、法王にもかかわらず、謝罪表明を躊躇しなかった故ヨハネ・パウロ2世は例外中の例外といえるだろう。

クロアチアのハムレットの悩み

 クロアチアは今月1日、イタリアとスロベニア両国の強い反対にもかかわらず、約5万6000平方キロの領域の生態漁場保護エリア(EFPZ)を発効させた。それに先立ち、欧州連合(EU)はザグレブ政府に対し、「EFPZを発効させれば、加盟国の利益を阻害する」と指摘し、再考を促してきた。
 ブリュッセルからの警告にもかかわらず、クロアチアのサナデル首相は24日、「わが国はEFPZの発効を撤回する考えはない」と重ねて表明したばかりだ。ちなみに、クロアチア議会は昨年12月、EFPZを2008年1月1日から発効すると決定している。
 クロアチアのEFPZに対して、特に、隣国スロベニアがこれまで強く反対してきた。今年上半期のEU議長国に就任した同国はここにきてザグレブに「EFPZを撤回させない限り、クロアチアの加盟交渉は遅滞せざるを得なくなるだろう」と、あからさまに警告を発しているほどだ。
 それに対し、クロアチア側は「スロベニアは2005年、イタリアは昨年、わが国と協議することなく自国のEFPZを一方的に発効した。それなのに、わが国のEFPZ発効には反対している」と強く反論している。
 なお、海洋領域問題専門家は「法的には、クロアチアの立場は合法的だが、この問題は法的というより、政治的問題だ」と指摘している。ザグレブにも弱みがある。同国は2004年、EU、イタリア、スロベニアとの間で「EU加盟国の利害に反することは実施しない」と合意しているからだ。
 クロアチアは2010年のEU加盟を目指してきた。同国の加盟交渉開始で障害となっていた戦争犯罪人アンテ・ゴトビナの旧ユーゴスラビア国際刑事裁判所(ICTY)への引き渡し問題は2005年12月、ゴトビナがスペインで拘束され、ハーグの旧ユーゴスラビア国際戦犯法廷に移送されたことで、解決済みだ。しかし、ここにきてEU加盟国の隣国スロベニアとの関係が新たな障害となってきたわけだ。
 そこで、ザグレブ政府は現在、「わが国の漁業権を守るべきか、(EU加盟を実現するために)ブリュッセルの要求に応じるべきか」といった“ハムレットの悩み”に直面しているわけだ。

ウィーンっ子も嫉妬するダボス

 文豪トーマス・マンの小説「魔の山」の舞台でも有名なスイスのダボスで「世界経済フォーラム」(WEF)の年次総会(通称ダボス会議)が23日から開幕した。毎年1月下旬にスキーリゾートのダボスで開催される同会議には、国際企業のトップから国家元首、学者、ジャーナリストまで、世界の著名人が集まる。参加者レベルと数からみて、同会議は世界最大の国際会議といえるだろう。
 米ライス国務長官は開幕日の23日、念願の同会議に参加し、基調演説をしたばかりだ。一方、米マイクロソフト社の創設者ビル・ゲイツ氏や世界的な投資家ジョージ・ソロス氏のような常連客もいる。ダボス会議の参加は世界超一流入りのステイタスともなっているほどだ。ダボス会議の主要テーマは経済問題だが、最近では環境問題や政治・社会問題まで広範囲な諸問題が扱われだした。
 「協調した革新の力」をテーマとした今年の年次総会には約2500人が参加したが、その中には27カ国の国家元首、首相、100人を越える閣僚、7人の欧州連合(EU)の欧州委員、6人の米閣僚が出席する。ちなみに、同会議の参加資格は、招待客は別として、年会費(数万ドル)を支払っている会員だけだ。
 音楽の都ウィーン市は2006年、国際会議開催件数でパリを抜いて世界一となった。ウィーン市で開催された最大級の国際会議といえば、EU議長国時代の06年上半期、見本市会場で開かれた第4回EU・中南米・カリブ海諸国首脳会議(EU・LACサミット)だろう。同会議には60カ国の国家元首・政府代表が結集、1500人を超える代表団が集まったジャンボ・イベントだった。しかし、ダボス会議級の定例国際会議となれば、残念ながらまだ経験がない。人口1万人余りの町・ダボスでWEF年次総会が開催される時期になると、ウィーン市の有力者の間で、「われわれもあのような国際会議を定例開催したいものだ」といった、少々ジェラシーを含んだ溜息が聞こえてくる。
 ちなみに、世界経済のグローバル化を反対するダボス会議開催反対派は「世界の金持ち、企業関係者が商談したり、政治家が交流する場に過ぎない。国益や会社の利益を超越して、世界が直面している諸問題を話し合う場ではない」と批判している。

最上座の北朝鮮大使

 国家元首や首相の公式訪問では、歓迎晩餐会から会談の順序に到るまで、全てはプロトコールに基づいて進行される。
 オーストリア大統領府で先日、同国駐在の外交官を迎えた新年会が行われた。毎年開催されているもので、外交官の新年顔見せのようなものだ。当日は数百人の外交官が参加し、大統領府は文字通り、立錐の余地がないほど外交官で一杯となった。
 ホスト側のフィッシャー大統領が正面に立ち、両サイドに外交官たちが並ぶわけだが、ホストに最も近い上座から最も遠い下座まで、どの国の外交官が位置するかもプロトコールによって規定されている。国力や経済力(GDP)、ましてや軍事力で駐在外交官の位置が決められるわけではない。アルファベット順でもない。大統領府のプロトコールによると、バチカン法王庁派遣の法王大使を除いて、駐在年数が長い外交官から上座に着き、順次、在任年数にしたがって下座へと並ぶ。今年も最上座は北朝鮮の金光燮大使(金総書記の義弟)だった。
 金大使は1993年3月、オーストリアに着任しているから、今年で就任15年目を迎える。同大使より長くオーストリアに駐在している外国大使はいない。通常、大使の駐在年数は2年から3年だ。アラブ系諸国で少し長く、4年から5年といったところだ。金大使の駐在15年は異常に長いわけだ(北朝鮮外交官では、駐ジュネーブの李徹大使が金大使より長い駐在年数を誇っている)。
 金大使は当日、立派な背広を着て、華やかなスポットを浴びていた。プロトコールが変るか、金大使が帰任しない限り、新年会の最上座は今後とも同大使の指定席といえるわけだ。
 新年が明けて以来、駐オーストラリア大使館が財政的理由から閉鎖に追い込まれるとか、チェコで就労してきた北朝鮮労働者が今月末までに帰国を余儀なくされるなど、北朝鮮に関連したニュースはいずれも余り芳しいものはなかった。それだけに、ウィーンの大統領府主催新年会で金大使が最上座の位置を占めることは、北朝鮮にとって、その自尊心をくすぐる数少ない機会かもしれない。
 ちなみに、韓国の金スンファン大使は中座に位置していた。同大使は2006年5月にオーストリアに赴任している。着任初年の昨年は最下座の一人だった。なお、日本の田中映男新大使は昨年11月に着任したばかりであったから、もちろん、最下座に甘んじていた。

トニー・ザイラー氏の闘病

 トニー・ザイラーといえば、1956年の冬季オリンピック(コルティナダンペッツォ大会)で滑降、回転、大回転の3種目で金メダルを獲得し、アルペンスキーで初の3冠王となった伝説的なオーストリアのスキー選手だ。同選手が主演した映画「白銀は招くよ」は日本でも上演され、今なお多数のファンがいる。当方も子供の時、その映画を観た覚えがある。だから「トニー・ザイラー」という名前は当方がオーストリア着任前から知っていた唯一のオーストリア人名だった。
 そういうこともあって、2002年9月、西暦2010年に開かれる冬季オリンピックの開催地に立候補していたザルツブルク市の開催誘致のため活躍中だった同氏との会見は、当方にとって忘れる事が出来ない思い出となった。そのザイラー氏(72)ががんと戦っていることを最近、知った。
 オーストリア日刊紙「オーストライヒ」が21日付で同氏との会見記事を掲載している。そこで同氏は自分が咽頭がんであること、インスブルック大学病院で治療を受けていることを明らかにする一方、「72歳になれば、そのような病気に一度はなるものだ。自分はこれまで素晴らしい人生を送ってきた。死を恐れてはいない」と述べている。ザイラー氏は愛妻を7年前にがんで失っている。
 当方がインタビューで「日本ではザイラーさんのファンが多くいますよ」というと、同氏は嬉しそうな顔をして、「私は日本に多数の友人を持っている。日本人がオーストリア、そしてザルツブルクに対して良き思い出を持っていることを信じている。プラハで開かれるIOC総会で日本の支援も受け、ザルツブルクが正式に開催地となれることを夢見ている、と伝えてほしい」と述べたほどだ。
 ザルツブルク市は落選し、同氏の夢は実現できなかったが、その後も度々、テレビ番組に出演している同氏を見た。トニー・ザイラー氏の回復を祈念する。

 最後に、6年前のザイラー氏とのインタビューの一部を紹介する。
 ――近代オリンピックはコマーシャリズムに汚染され、オリンピックの精神が忘れられる傾向が出てきました。
 「オリンピックは世界大会や欧州大会とはまったく異なったものだ。オリンピックはオリンピックだ。全てのスポーツ選手にとってオリンピック参加は夢である。オリンピックは世界最大のスポーツ祭典だ。世界中の国民が選手の一挙手一投足を見守っている。それだけに、オリンピックの精神を忘れないでほしい」

自由党のイスラム攻撃は空振り

 オーストリア南部シュタイアーマルク州の州都グラーツ市で20日、市町村議会選挙が実施された。同市議選については、国内メディアだけではなく、外国メディア、特にアラブ系メディア(例、カタールの衛星放送「アルジャジーラ」)も報道した。
 小国の、それも地方市議会選を外国メデイアが報じることは非常に稀だ。その理由は、選挙戦終盤で極右政党「自由党」の党リスト最上位候補者ヴィンター女史が党集会で「ムハンマドは6歳の幼女と結婚した。今日の社会では幼女冒涜に価する」と、イスラム教祖をあからさまに批判したからだ。その直後、同女史は国際テロ組織「アルカイダ」の欧州代表から脅迫メールを受け取っている。
 当方は「ムハンマドの妻アイシャ」というコラムの中でその経緯を少し紹介したが、今回は、ヴィンター女史のイスラム教祖攻撃発言に対して、同国の第2都市グラーツ市(人口約22万人)の有権者がどのように反応(投票)したかを報告する。
 オーストリアでは、イスラム系不法移住者の増加やイスラム系過激派のテロ問題もあって、有権者の中には久しく「イスラム教徒はもう沢山だ」といったアンチ・イスラム気運(一種の「イスラムフォビア」)があることは事実だ。ヴィンター女史はその潮流を巧みに扇動し、選挙で飛躍を目論んできた。しかし、自由党の得票率は11・09%で前回比で3・11%の微増に留まり、「自由党、大躍進か」という投票前の予想を大きく下回ったのだ(自由党が20%の大台に飛躍する、といった世論調査もあったほどだ)。
 21日付の同国の代表紙「ディ・プレッセ」は「イスラム攻撃は成果なし」といった見出しを1面に掲げ、自由党の選挙戦略が期待していたような成果をもたらさなかったと報じている(ちなみに、国民党は得票率37・64%で前回比で1・52%増で第1党を堅持した一方、社会民主党は19・84%と前回比で6・05%の急減となった。自由党は「緑の党」「共産党」に次いで第5党に甘んじた)。
 この結果を、同国では「外国人排斥、イスラム攻撃で支持を得ようとした自由党に対し、有権者が拒否を示した」(「クリア紙」)と受け止める声が多い。看過できない事実は、投票率が約52%と、前回(約58%)を更に下回ったことだ。すなわち、有権者の約半分が投票を棄権したことになる。
 いずれにしても、同国では、「自由党が大躍進したならば、次のニーダーエスタライヒ州とチロル州の両州選挙ではもっと激しいイスラム攻撃が展開される」といった懸念が強かっただけに、自由党の空振りに一種の“安堵感”が漂っている。
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