国連事務総長を10年間(1972年1月〜81年12月)、そしてオーストリア大統領職(86年〜92年)を一期務めたクルト・ワルトハイム氏(88)が聖霊降臨祭の月曜日(28日)の夜、高熱を出しウィーンの病院に緊急入院した、というニュースが入ってきた。幸い、同氏の症状はその後、回復に向かっているという。
当方は、ワルトハイム氏がオーストリア大統領に選出された当時のことを鮮明に覚えている。世界の主要メディアは同氏をナチス戦争犯罪容疑者として酷評し、文字通りバッシングを繰り返した。英国の戦争歴史学者がワルトハイム氏が参戦したナチスの旧ユーゴスラビア戦線を調査した結果、同氏がナチス戦争犯罪に直接関与した証拠は見つからなかったが、メディアの批判は続いた。
同氏は大統領時代、バチカン法王庁以外の国から招待状を受けたことがなく、「さびしい大統領」と揶揄された。結局、国際世論の批判にさらされたワルトハイム氏は再選出場を断念して、政界から退いた。
同氏は後日、出版した自伝「返答」の中で、「国際社会からナチス戦争犯罪者呼ばわりされ、私ばかりか家族も苦しんできた」と説明し、「家族をこれ以上苦しめたくない」という理由から再選出馬を断念したと述べている。
当方は94年、大統領退陣した直後のワルトハイム氏と単独会見したことがある。テーマは国連の改革問題だった。同氏は会見前に当方に、「どのような質問を準備しているのか」と聞いて来た。そこで当方は「国連事務総長の体験者として、国連の現状と改革について見解を聞きたい」と説明した。同氏はそれに頷いた後、「それではインタビューを始めてください」と言った。ワルトハイム氏は戦争犯罪容疑問題以降、メディア機関に対して非常に神経質で、インタビューにはなかなか応じないことで知られていた。実際、想像を越える警戒心だった。
同氏は会見では、「国連では国益が優先され、理想と現実が乖離している」と指摘し、国連改革が急務であると主張する一方、日本の常任理事国入りを支持した。
ワルトハイム氏との会見は40分間に及んだ。当方は会見を終えると、同氏に「一緒に写真を取れませんか」と聞いた。同氏は初めて笑顔を見せ、「もちろん。私の秘書に撮影させましょう」と言ってくれた。この時、撮影した写真は当方のアルバムに保管されている。
ワルトハイム氏はメディア機関の怖さを肌で体験すると共に、国連の現状と課題を誰よりも熟知している時代の証人の一人だ。
当方は、ワルトハイム氏がオーストリア大統領に選出された当時のことを鮮明に覚えている。世界の主要メディアは同氏をナチス戦争犯罪容疑者として酷評し、文字通りバッシングを繰り返した。英国の戦争歴史学者がワルトハイム氏が参戦したナチスの旧ユーゴスラビア戦線を調査した結果、同氏がナチス戦争犯罪に直接関与した証拠は見つからなかったが、メディアの批判は続いた。
同氏は大統領時代、バチカン法王庁以外の国から招待状を受けたことがなく、「さびしい大統領」と揶揄された。結局、国際世論の批判にさらされたワルトハイム氏は再選出場を断念して、政界から退いた。
同氏は後日、出版した自伝「返答」の中で、「国際社会からナチス戦争犯罪者呼ばわりされ、私ばかりか家族も苦しんできた」と説明し、「家族をこれ以上苦しめたくない」という理由から再選出馬を断念したと述べている。
当方は94年、大統領退陣した直後のワルトハイム氏と単独会見したことがある。テーマは国連の改革問題だった。同氏は会見前に当方に、「どのような質問を準備しているのか」と聞いて来た。そこで当方は「国連事務総長の体験者として、国連の現状と改革について見解を聞きたい」と説明した。同氏はそれに頷いた後、「それではインタビューを始めてください」と言った。ワルトハイム氏は戦争犯罪容疑問題以降、メディア機関に対して非常に神経質で、インタビューにはなかなか応じないことで知られていた。実際、想像を越える警戒心だった。
同氏は会見では、「国連では国益が優先され、理想と現実が乖離している」と指摘し、国連改革が急務であると主張する一方、日本の常任理事国入りを支持した。
ワルトハイム氏との会見は40分間に及んだ。当方は会見を終えると、同氏に「一緒に写真を取れませんか」と聞いた。同氏は初めて笑顔を見せ、「もちろん。私の秘書に撮影させましょう」と言ってくれた。この時、撮影した写真は当方のアルバムに保管されている。
ワルトハイム氏はメディア機関の怖さを肌で体験すると共に、国連の現状と課題を誰よりも熟知している時代の証人の一人だ。