2006年度の最後のコラムとなります。そこでコラムの筆者として、当方はここで日頃から考えてきたことを語り、読者の皆さんと分かち合いたいと思います。「人間は泣きながら生まれてくる存在」(シェイクスピアの史劇「リヤ王」)と云われ、生まれたその日から死に向かっている存在です。そこから仏教的な諦観が生まれてきますが、諦観は人間存在の不安に対する沈静剤の役割は果たすかもしれませんが、人間が誰でも求めている「幸せ」は提供してくれません。
当方は若い時代、「幸福論」というタイトルがついた書物を買ってきては読んだ経験があります。アランの「幸福論」からヒルテイの「幸福論」、ラッセルの「幸福論」からショーペンハウアーの「幸福について」まで読んでみました。当方の姿を見た姉が「幸福論を読み耽っているあなたは最も不幸な人間よ」と茶化したことを思い出します。姉の指摘は当たっています。幸福な人間は「幸福論」を読む必要はないのですから。逆に言いますと、巷の幸福論の本を買って読んでいる人は少なくともその時点で「幸福」ではないわけです。せいぜい幸福の追求者といえるだけです。
それでは、「幸福を追求する」ことは無駄なことなのでしょうか。否定しようとしても否定できない、「幸福になりたい」という心の叫びはどうして出てくるのでしょうか。人間が幸福を追求すうということは、人間が幸福になれる可能性があるからではないでしょうか。ただ、どうしたら幸福になれるのかが分からないだけで、道は存在するはずです。当方はそのように考えるようになりました。
人間の幸福を考えた場合、どうしても「霊界の存在」と関ってきます。人間が肉体だけの存在である限り、リア王の諦観は正しいわけです。私たちは日々、死に向かっている存在に過ぎません。しかし、霊界が存在し、人間はその霊界と関ることが出来るものを内包した存在と分かれば、「人間は泣きながら生まれ、喜びをもって霊界に旅立つ」ことも可能ではないでしょうか。
当方は米映画「Frequency」(2000年作、デニス・クウェード主演)を見て感動したことがあります。1度、見ていただけれ幸いです。警察官の息子と亡くなった消防士の父親がある日、無線機で交流するというSFの話です。父親は避難口を間違えて消化作業中死亡しましたが、正しい避難口から逃げていたならば、父親はまだ存在できたのです。すなわち、人の一生で多くの選択の場面に出会います。正しい選択だけでなく、間違った選択もするわけです。そのため、本来行くべき人生の行路が次第に脱線していくわけです。映画では、家族一同が助け合って間違った選択を修正し、再会するシーンで終わります。当方はそのシーンを見て涙が禁じ得ませんでした。人間は亡くなった親族、妻、友人と再会したいという願いを持っています。それは霊界の存在を薄々感じているからではないでしょうか。
日本のメディアではこれまで、霊界といえば、オカルトと見なし、興味本位でしか扱ってきませんでした。当方は学校のイジメ問題や自殺問題も霊界の実相が分かれば、自然に解決案が見つかると考えています、日本では戦後、宗教教育が消滅しました。そのツケを現在、われわれは払わされていると感じています。当方は来年、「霊界」について機会があれば積極的に発言し、読者と共に考えていきたいと思っています。
当方のコラムに付き合ってくださりましてありがとうございました。それでは、良い年をお迎えください。
当方は若い時代、「幸福論」というタイトルがついた書物を買ってきては読んだ経験があります。アランの「幸福論」からヒルテイの「幸福論」、ラッセルの「幸福論」からショーペンハウアーの「幸福について」まで読んでみました。当方の姿を見た姉が「幸福論を読み耽っているあなたは最も不幸な人間よ」と茶化したことを思い出します。姉の指摘は当たっています。幸福な人間は「幸福論」を読む必要はないのですから。逆に言いますと、巷の幸福論の本を買って読んでいる人は少なくともその時点で「幸福」ではないわけです。せいぜい幸福の追求者といえるだけです。
それでは、「幸福を追求する」ことは無駄なことなのでしょうか。否定しようとしても否定できない、「幸福になりたい」という心の叫びはどうして出てくるのでしょうか。人間が幸福を追求すうということは、人間が幸福になれる可能性があるからではないでしょうか。ただ、どうしたら幸福になれるのかが分からないだけで、道は存在するはずです。当方はそのように考えるようになりました。
人間の幸福を考えた場合、どうしても「霊界の存在」と関ってきます。人間が肉体だけの存在である限り、リア王の諦観は正しいわけです。私たちは日々、死に向かっている存在に過ぎません。しかし、霊界が存在し、人間はその霊界と関ることが出来るものを内包した存在と分かれば、「人間は泣きながら生まれ、喜びをもって霊界に旅立つ」ことも可能ではないでしょうか。
当方は米映画「Frequency」(2000年作、デニス・クウェード主演)を見て感動したことがあります。1度、見ていただけれ幸いです。警察官の息子と亡くなった消防士の父親がある日、無線機で交流するというSFの話です。父親は避難口を間違えて消化作業中死亡しましたが、正しい避難口から逃げていたならば、父親はまだ存在できたのです。すなわち、人の一生で多くの選択の場面に出会います。正しい選択だけでなく、間違った選択もするわけです。そのため、本来行くべき人生の行路が次第に脱線していくわけです。映画では、家族一同が助け合って間違った選択を修正し、再会するシーンで終わります。当方はそのシーンを見て涙が禁じ得ませんでした。人間は亡くなった親族、妻、友人と再会したいという願いを持っています。それは霊界の存在を薄々感じているからではないでしょうか。
日本のメディアではこれまで、霊界といえば、オカルトと見なし、興味本位でしか扱ってきませんでした。当方は学校のイジメ問題や自殺問題も霊界の実相が分かれば、自然に解決案が見つかると考えています、日本では戦後、宗教教育が消滅しました。そのツケを現在、われわれは払わされていると感じています。当方は来年、「霊界」について機会があれば積極的に発言し、読者と共に考えていきたいと思っています。
当方のコラムに付き合ってくださりましてありがとうございました。それでは、良い年をお迎えください。