ウィーン発 『コンフィデンシャル』

 ウィーンに居住する筆者が国連記者室から、ウィーンの街角から、国際政治にはじまって宗教、民族、日常の出来事までを思いつくままに書き送ります。

2006年10月

西側に亡命した犬の話

 当方のコラムを読んで下さっている読者は既にご存知と思うが、当方のコラムには頻繁に動物が登場する。今回は冷戦時代に西側に亡命してきた2匹の犬の話を紹介したい。
 冷戦時代には東欧諸国から多数の亡命者が西側社会に亡命してきた。ところが、チェコスロバキアから2匹のシェパード犬がオーストリアに“亡命”するという事件が起きたことがある。人間も逃げる時代だったから、動物が西側に亡命してきてもおかしくはないが、亡命犬の身元が確認できないために、オーストリア当局は当時、2匹をどのように扱っていいか、頭を痛めたものだ。
 亡命者の場合、亡命してきた動機や政治背景を説明すれば、受入国がジュネーブ難民条項に従って、その亡命者を難民として認定するかどうかを決定する。亡命犬の場合も手続きは基本的には同じだと思うが、相手は亡命動機を説明しないから厄介だ。
 オーストリアに亡命してきた2匹はどうやらチェコ国境警備犬として長年従事していたらしいことが判明したが、2匹とも極めて凶暴で人を絶対に信じない。そのため、オーストリア国境警備員は手を焼き、チェコ側に2匹の強制送還を打診したが、チェコ側からはいい返事が帰ってこない。
 動物愛護精神が強いオーストリアでは、犬を安易には扱えない。それで、この2匹をペットとして社会復帰を図ったが、成果はなく、凶暴性はおさまらない。結局、所有者発見も社会復帰の可能性もなくなった2匹は、獣医の立会いのもとで葬られた。
 この話は21年前に実際にあった話だ。
 昔から犬は飼い主に忠実であるといわれる。猫とは違って、飼い主を置いて“亡命”したり、家出することはめったにない。それでは、21年前の2匹のシェバード犬を“亡命”に追い込んだのは何だったのだろうか。

チャンスを逃したCTBTO

 北朝鮮の核実験はウィーンに本部を置く包括的核実験禁止条約機関(CTBTO)にとって絶好のチャンスだったが、残念ながら、その機会を利用できなかったばかりか、核実験を監視する同機関の観測力の欠如を暴露してしまった。
 北朝鮮が核実験を実施した10月9日以降、加盟国ばかりか、世界のジャーナリストの目がCTBTOに注がれていた。メディアで報道されることが少なかったCTBT機構が脚光を浴びたわけだ。CTBT条約の署名開始から今年9月で10周年を迎えたばかりだ。北朝鮮の核実験はCTBT条約の早期発効を訴える機会でもあった。
 しかし、CTBTOが誇る国際監視システム(IMS)には、世界の地震観測所から北朝鮮の核実験が誘発した地震波データを送ってきていたが、ネグロポンテ米国家情報局(CIA)長官が16日、「周辺地域で採取した大気の分析結果、放射性物質が検出された。北朝鮮の9日の爆発が地下核爆発であったことが確認された」と表明するまで、同実験が核爆発か通常火薬の爆発かの判断を下せなかったのだ。
 IMSは津波観測ではデータを迅速に供給できたが、北朝鮮の核実験では空中の放射性物質を観測できるシステムが完備していなかったために、北朝鮮の核実験を正確に掌握できなかったわけだ。北朝鮮の核実験は皮肉にも現行のIMSの限界を浮き彫りにする結果となった。
 北朝鮮の核実験10日後の18日、CTBTO準備委員会暫定技術事務局のティボア・トット局長は記者会見を開き、「わが機関は13日に特別会合を開催し、北朝鮮の核実験に懸念を表明した」と述べる一方、IMSが北朝鮮の核実験を核爆発と早期断定できなかったことについて、「わが機関は依然、正式には発足していない。暫定的機関に過ぎない。そのうえ、CTBTOは核実験の最終断定を下す機関でもない」と説明するだけに終った。
 国際原子力機関(IAEA)のエルバラダイ事務局長は16日、シンポジウムで演説し、「最大30カ国が短期間で核兵器製造能力を保有する危険がある」と警告したばかりだ。核実験を監視するCTBTOの使命は益々重要となるだけに、条約の早期発効と共に、IMS体制の完備を急がなければならない。これが北朝鮮の核実験の教訓だ。

北の憎米感情は140年前から

 北朝鮮の米国憎しの感情は決してブッシュ米政権発足後に生まれたものではない。それは140年前に遡るのだ。パリに本部を置く「朝鮮再統一・平和のための国際連絡委員会」(CILRECO)から届いた会報でそれを初めて知った。CILRECOは北朝鮮のフロント組織だ。
 その会報によると、平壌で8月30日、歴史家たちが米シャーマン型駆逐船粉砕140周年の記念シンポジウムを開催し、米国の朝鮮半島支配の帝国主義的野心の歴史を総括した。歴史家たちは9月に入り、同シンポジウムを総括した備忘録を公表した。それによると、「19世紀に入り欧州列強や日本が朝鮮半島の支配を狙ってきたが、米国も1845年、議会で朝鮮半島進出を決定し、1866年に商船を装ったシャーマン型駆逐船を朝鮮半島に派遣し、自由貿易を強要した。朝鮮政府は1866年7月24日、同船が軍事船であると見破り、接岸を拒否して、米船の侵入を阻止した。米国は1871年にも数千人の兵士を乗せた4隻の軍艦を再び派遣したが、朝鮮人の愛国的な抵抗にあって敗走していった。朝鮮人の英雄的な行動は朝鮮史に深く刻み込まれている」と強調している。
 その上で、「米国は1950年から53年、朝鮮半島の支配のために戦闘を再開するなど、米国の帝国主義的野心は決して消滅していない」と指摘。最後に、「米国が140年前のシャーマン型駆逐船の運命から教訓を得ず、その帝国主義的野心を放棄しなければ、わが軍は米国に痛い目にあわすだろう」と警告を発している、といった内容だ。もちろん、140年前には北朝鮮は存在しない。ここでは当然、朝鮮半島全土を指している。
 北朝鮮は140年前の出来事を想起させることで、米憎し感情が即製の感情ではなく、歴史的な背景があると主張しているわけだ。金正日労働党総書記がブッシュ政権にこの140年の歴史の清算を要求しているとすれば、米朝関係改善は並大抵の問題ではない。

ハンガリー動乱とオーストリア

 国際会議場「オーストリア・センター」で17日夜、駐オーストリアのハンガリー大使館がハンガリー動乱時に約20万人の難民を受け入れたオーストリアに感謝する行事を催した。ハンガリー動乱50周年の記念行事の一環だ。
 ハンガリー動乱はソ連共産政権に支配されてきた国民が民主化と自由を叫んで立ち上がった民衆蜂起だったが、ソ連軍の戦車によって踏みつぶされた。同動乱で約1万7000人が犠牲となり、20万人以上の国民が西側に亡命していった。その大多数はオーストリア経由で西側亡命した。
 一方、オーストリアは動乱前年(1955年)、永世中立を宣言し、国家条約を締結したばかりだった。経済的にはまだ敗戦から完全には立ち上がっていなかったが、ハンガリー難民が殺到してきた時、国境を開放して受け入れた。
 ハンガリー国民はオーストリアの支援を決して忘れていない。記念行事の会場舞台には、「われわれはオーストリアに感謝する」という文字が映し出され、50年前のオーストリア国民の人道支援に感謝を表明していた。
 ハンガリー動乱、プラハの春(68年)、ポーランド危機等、東欧諸国の政変時には多数の政治難民がオーストリアを目指して逃げてきた。オーストリアはその度に東欧難民を受け入れ続けた。「難民収容所国家」と呼ばれた所以だ。東西間の分断シンボル、ベルリンの壁崩壊も、ハンガリーとオーストリア間の鉄のカーテンが切断されたことが契機だった。ちなみに、オーストリア内務省の発表によれば、同国経由で西側に亡命してきた東欧難民の数は200万人を超えると推定されている。
 同行事に招かれたコール・オーストリア国民議会議長が「ハンガリー国民は今日、われわれに感謝を表明しているが、わが国こそハンガリー国民に感謝したい。なぜならば、ハンガリー国民は多大の犠牲を払うことで、自由、民主主義、人権の尊さをわれわれに教えてくれたからだ」と語っていたのが印象深かった。
 オーストリアは冷戦終焉後、移住者問題を抱え、難民の受け入れも難しくなったが、冷戦時代の同国の難民受け入れ政策は歴史的な功績として記憶されるだろう。

セルビア正教の懸念

 「コソボ自治州の独立は欧州全土に修復不可能な悲劇をもたらす」――。セルビア正教のアルテミイェ主教は訪問先のモスクワで開いた記者会見でこのように語った。オーストリアのカトリック通信(カトプレス)が10月15日に伝えた。
 同主教は「コソボの独立はがん腫瘍と比較できる。それは単に地域だけではなく、全欧州に影響を及ぼすだろう」と指摘。コソボ自治州の独立に警告を発している。同主教によれば、コソボ自治州は現在、犯罪の拠点であり、不法麻薬・武器取引や人身売買が広がる一方、過激派勢力の拠点なると危険が出てきたという。
 実際、コソボ自治州にあった150の正教教会や修道院が破壊される一方、サウジアラビアや湾岸諸国から資金が流入し、400以上のイスラム寺院が建立されたという。同時に、コソボ地域からは、25万人の正教徒が逃亡し、1300人のセルビア人が殺害され、同数のセルビア系住民が行方不明となっている。セルビア正教側は「コソボが独立した場合、過去2000年間続いてきた同地域のキリスト教の歴史が消滅する」と深刻に受け取っている。
 人口約200万人の90%がアルバニア系住民のコソボは過去、何度も民族紛争の舞台となってきた。最近では、ミロシェビッチ元大統領が同自治州の自治権を剥奪(はくだつ)したことが契機となって、セルビア治安部隊とアルバニア系武装勢力が衝突。最終的には、北大西洋条約機構(NATO)軍が武力介入して、紛争は1999年6月終結した。その後は今日まで国連コソボ暫定統治機構(UNMIK)が同自治州を管理してきた。
 コソボ自治州の最終地位交渉は昨年11月からスタートし、年内の決着を目指している。国連とコンタクト・グループ(米英仏独伊ロ)は交渉後、コソボの最終地位問題で現実的な解決策を提示するが、流れは「独立」に傾いているといわれる。それだけに、セルビア正教側の懸念も深まってきているわけだ。

音楽家と「チャンス」

 「チャンス」という言葉を聞く機会が増えた。安倍晋三首相は9月30日、所信表明演説で「再びチャンスを与える社会を作りたい。活力とチャンスと優しさに満ちた、世界に開かれた美しい国・日本を建設していきたい」と述べ、総合的な「再チャレンジ支援策」を表明している。
 首相演説の中核は「チャンス」という言葉だ。「チャンス」という言葉を最も使用する職種はスポーツ選手だろうか。彼らは「チャンスを生かす」とか「チャンスがない」とかいって、「チャンス」という言葉を日常茶飯事に使う。
 ところで、この「チャンス」という言葉がスポーツ選手のように頻繁に飛び出す職種があることを最近知った。音楽関係者だ。音楽の都ウィーンには世界から音楽家が集まる。それだけに、音楽家の世界は競争が激しい。多くの若手の音楽家はオーディションを受けたり、所属の音楽事務所で「空き」を待つ。
 彼らは「チャンス」という言葉をよく口にする。あのモーツアルトさえもミュンヘンの選帝候マクシミリアン3世に必死に自分を売り込み、雇用を嘆願しているほどだ。音楽家の世界では単に実力だけではなく、コネや政治力が大きな役割を果たすことがある。だから、「チャンス」という言葉が出てくるわけだ。
 「ウィーンでは、モーツアルトもベートーベンも決して過去の音楽家ではなく、彼らは現在でも人々の心の中で生き、共に呼吸している。そのことを身をもって体験したい」(日本人音楽家)ということで、日本からも多数の音楽家や音楽学生がウィーンに来る。国立オペラ座の研究生となったり、著名なピアニストに師事して、「チャンス」を持つわけだ。その中で、所期の希望を実現できる音楽家は数少ない。自分の音楽的能力に失望したり、音楽以前の文化的、言語的戦いの段階で挫折して、日本に帰る若き音楽家たちも決して少なくない。
 ウィーンの音楽界は、安倍首相が願う「再びチャンスを与える社会」のようには優しくない。最初のチャンスを逃がしたならば、再びチャンスが巡ってこない熾烈な社会だ。それだけに、音楽家の「チャンス」という言葉には、一層の重みが感じられる。

権栄緑氏の使命に終止符

 国連安全保障理事会は14日、北朝鮮の核実験を受け、国連憲章第7章に基づく制裁決議を全会一致で採択した。同決議には、核・ミサイル関連物質の禁輸、資産凍結のほか、米国側の強い要請で贅沢品の禁輸も明記されている。贅沢品への嗜好が人一倍強い金正日労働党総書記をターゲットにしたものだ。
 金総書記の料理人であった藤本健二氏の著書「金正日の料理人」を読めば、金総書記が好む料理の原料が主に外国から輸入されてきたことが分かる。贅沢品の禁輸で金総書記が好む寿司のネタの仕入れが難しくなるわけだ。
 欧州から金正日総書記に送られてきた贅沢品を振り返ってみる。一時期、金総書記は快速ヨットを欧州から購入しようとしたことがあるほか、独高級車ベンツ購入は権栄緑氏(総書記秘書室副部長)がもっぱら担当してきた。ウィーンからは赤ワイン2万リットルが北朝鮮に輸出されたことがある。音楽と芸術を好む金総書記は過去、ウィーンで音楽やダンスを学ばせるために優秀な音楽学生や若い女性を送ったが、これも飢餓に苦しむ北朝鮮の国民事情から見た場合、贅沢な投資といわざるを得ない。
 世界から調達する贅沢品は金総書記が使用ないしは食するだけではなく、党創立記念日や本人の誕生日祝いの返礼として軍幹部や党関係者に贈られてきた。だから、対北制裁の中でも贅沢品の禁輸が最もダメージが大きいと見られる所以だ。プレゼントを得られなくなった軍幹部の金総書記離れが進む可能性だって考えられるからだ。
 明確な点は、贅沢品禁輸で権栄緑氏(73歳)が失業するということだ。同氏は9月9日の建国記念日に参加するために平壌に帰国したが、ウィーンのアパートメントにはまだ戻っていない。欧州を舞台に金ファミリーのために贅沢品を調達してきた権栄緑氏の使命が終幕を迎えようとしている。

オシム氏がキレた日

 サラエボ出身のイビチャ・オシム氏(65歳)については、同氏がサッカー日本代表監督に就任して以来、日本でも詳しく報じられている。イタリア代表監督(2000年〜04年)を努めたトラバットー二監督のように感情を表現するタイプではなく、職人気質の穏やかな性格といった人物像が定着しているが、同氏にも“キレた日”があったことはあまり知られていない。
 オシム氏のサーカー歴を振り返ってみる。同氏は1956年から68年、サラエボのクラブに所属した後、68年にフランスに移り、RCストラスブールなどに所属。78年に選手キャリアを終えた後、86年までサラエボのクラブ・コーチ。84年から86年まで、旧ユーゴスラビアの五輪チーム監督としてロサンゼルス五輪大会では見事に銅メダルを獲得。その後、86年から92年まで旧ユーゴ・ナショナル・チームの監督として、その手腕をいかんなく発揮し、90年度のワールド・カップ(W杯)では準々決勝まで進出した。ナショナル・チーム監督としては50試合、26勝12引き分け12敗という好成績を残している。
 ベオグラードやアテネのクラブ監督をした後、94年から2002年までオーストリアの伝統的なチーム「シュトゥルム」(Sturm)の監督に就任、そこで98年、99年と2度リーグ優勝、96年、97年、99年と3度優勝カップを獲得するなど、オシム氏の名前はオーストリア・サッカー史の中にも刻印されていった。
 特に、欧州エリート・クラブが競う「チャンピョンズ・リーグ」にも3度進出、2000年はグループ1位になるなど、クラブ史上最高の成績を上げた。
 オシム氏がキレたのは、SKシュトゥルム監督時代だ。チームの成績が低迷した02年、クラブのオーナー、ハネス・カルトニック会長の干渉と監督批判にやり切れなくなったオシム氏はその日の試合後、酔っ払った姿で「おれはあいつ(会長)とはうまくいかない。やめる」と発言し、そのシーンがオーストリア放送で全国に流れたのだ。オシム氏はチームの不振を監督のせいにし、メディアで監督批判する会長に飽き飽きしていたのだ。普段は寡黙なオシム氏が赤ら顔で叫ぶ姿を画面で見たオーストリアのサッカー・ファンたちは、同情したものだ。同氏は留任を要請する会長を振り切って、クラブから出て行った。
 その後、オシム氏は日本に渡った。日本での活躍は日本人読者の方が良く知っているはずだ。ここでは、知将として高く評価されている人間・オシム氏にも“キレた日”があったことを理解してもらえばいい。

拘束テロリスト80%が外国人

 駐オーストリアのタリク・アカラウィ・イラク全権大使からラマダーンの断食開けの夕食会に招かれたので、行ってみた。駐オーストリア大使館は「インターコンチネンタル・ホテル」から10mも離れていない、市の中心街にある。大使館前に1人の警察官が立っているだけだ。
 オーストリアには約6000人のイラク人が住んでいる。ラマダーン期間に1度は大使館から断食開けの食事に招待されるのが慣習という。招かれるのはイラク人だけではない。友人や知人も招かれる。
 食事は太陽が沈んだ午後6時後に開始された。テーブルには大使館の外交官夫人たちが料理したイラク風料理やパンが準備されている。ゲストは自由に好みの料理を皿に入れて食べるブッフェ形式だ。
 食事しながら、イラク人たちの話題が自然に母国の現状に及ぶ。家族や友人がイラクにいる者は心が安らかではない。久しぶりに会った友人と情報交換する姿も見られる。
 「君も(ラマダーンの)断食をしていたのかね」と、食事をしている当方にアカラウィ大使が笑いながら近づいてきた。クルド系の大使は気さくな性格だ。一度面識になると、もう友人のように扱ってくれる。
 招待に感謝すると、大使は「まあ、ゆっくりと食べていってくれたまえ」といった。
 当方は「大使、イラクの情勢は大変ではないですか。ブッシュ米政権もイラク情勢が内戦の危機にあると認識しているみたいですね」と聞いみた。
 大使は「状況は危機的だ。しかし、時間の経過に従って改善していくと信じているよ。わが国を混乱に陥れている勢力はテロリストたちだ。彼らは国内のフセイン前政権支持者と連携してテロを繰り返している。知っているかなね。拘束されたテロリストの80%以上は外国人だよ。シリア、イエメン、サウジアラビアといった周辺国家からイラクに侵入してきた過激派テロリストだ。彼らの目的は1つ、イラクの民主化プロセスをサポタージュすることさ」と説明し、一息ついた。
 「なぜ、外国人テロリストの侵入を防げないのですか」と聞いた。
 大使は「わが国を取り巻く国境線は長い。それを隙間なく監視することはまだ出来ない。わが軍はまだ十分に訓練されていないからね」と言いながら、苦笑した。日頃は楽天家の大使だが、イラク情勢を語る時は、いつも辛そうだ。
 ラマダーンの断食開けの食事は長く続いていたが、当方は大使と話した後、大使館をそっと後にした。

人選を間違った場合

 安倍晋三首相が党指導部、閣僚を人選する際、軽井沢の避暑地にこもり、議員リストとにらめっこして決めたと聞く。人選を一歩間違えば、国の場合、国勢を失うし、会社ならば、会社を経営不振に陥れることにもなる。それほど人選は重要なわけだ。
 イラク戦争とその後の動向を見ていると、ブッシュ米政権はイラク反体制派リーダーの人選で大きなミスを犯した、という感慨が深まる。ずばり、アハメド・チャラビ氏のことだ。
 戦争前、フセイン政権に関する情報源は、主にチャラビ氏からきていた。例えば、フセイン政権が大量破壊兵器を製造中だといった情報をブッシュ政権に通告したのはチャラビ氏であり、フセイ政権打倒後、国防省や内務省の解体を主張したのも同氏だ。その意味で、チャラビ氏は米国側を戦争に駆り立てた張本人であり、その後の混乱の責任者の1人だ。
 戦争後、フセイン政権の実態が明らかになるのにつれ、ブッシュ米政権はチャラビ氏と距離を置いていったのは当然のことだ。パウエル前国務長官がチャラビ氏を「嘘つき」と罵倒したのも、同氏の情報が米国をミスリードしたことが明らかになったからだ。
 それでは、米国はなぜ、チャラビ氏をイラク反体制派リーダーとして担ぎ上げたのだろうか。米国は1992年、フセイン政権打倒のためにウィーンのホテルで反フセイン勢力を結集した「イラク国民会議」(INC)を創設し、そのリーダーにチャラビ氏を担いだ。米国は当時、イラン寄りのシーア派グループを担ぐことに抵抗があった。一方、チャラビ氏は米国に留学した親米派であり、ロンドンを拠点にビジネスをしていた人物だ。そこで親米派のチャラビ氏に白羽の矢が立ったというわけだ。米情報機関は当時、イラク反体制派グループの実態に関して不十分な情報しか持っていなかった。
 ブッシュ米政権がフセイン政権の大量破壊兵器製造情報を入手せず、イラク戦争後、国防省や内務省を解体しなければ、イラク情勢はまったく異なった展開となっていたはずだ。チャラビ氏の場合、人選を間違えれば、国家の進路に大きな影響を与えるという典型例だろう。
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