ローマ・カトリック教会最高指導者、法王ベネディクト16世が訪問先のドイツのレーゲンスブルク大学での講演で、イスラム教に対し「モハメットがもたらしたものは邪悪と残酷だけだ」と批判したビザンチン帝国皇帝の言葉を引用したことを契機に、世界のイスラム教徒から激しい反発が起きているが、同法王はこれまでのところ正式な謝罪はしていない。法王は「真意を説明したい」「イスラム教を侮辱する意図はまったくない」と弁明する一方、イスラム教との対話促進を表明することで、巧みに謝罪を回避している。なぜならば、法王は謝罪できないからだ。
カトリック教会総本山バチカン法王庁には「ローマ法王の無謬」というドグマがある。1870年の第1バチカン公会議で、ローマ法王は無謬と宣言され、バチカン法王庁は全世界のカトリック教会の最高意思決定機関とされたからだ。だから、法王が謝罪することに法王庁内にも強い抵抗がある。
べネディクト16世の前任者、ヨハネ・パウロ2世は過去、キリスト教2000年の罪を懺悔したことがある。教会の過去の罪や過ちを悔い、「キリスト者は福音を忘れ、暴力に走った」と告白、十字軍の遠征や宗教戦争についても「歴史の中でキリスト者は寛容さを失い、神の愛の教えに従わなかった」と強調したが、歴代のローマ法王の過ちには言及していない。なぜならば、神の子イエスの代理人ローマ法王が「過ちを犯すことはあり得ない」からだ。例えば、ヨハネ・パウロ2世は当時、ユダヤ教関係者から「ナチス政権の反ユダヤ主義を黙認した」と批判されているピウス12世の過ちが俎上に上るのを回避するため、ホロコーストに対して明確な懺悔を控えたほどだ。
一方、イスラム教側は法王から発言の真意や背景を聞きたいのではない。法王から明確な謝罪を聞きたいのだ(レバノンのイスラム教シーア派指導者ファドララ師)。しかし、ローマ法王は謝罪できないのだ。それはべネディクト16世が頑固だとか、傲慢だとかいった個人の問題ではない。バチカン法王庁が「ローマ法王の無謬」というドクマを撤去しない限り、無理な注文なのだ。イスラム教指導者がローマ法王に謝罪を要求し続けるならば、ローマ・カトリック教会内の過激根本主義勢力の台頭を促す危険性が出てくる。
カトリック教会総本山バチカン法王庁には「ローマ法王の無謬」というドグマがある。1870年の第1バチカン公会議で、ローマ法王は無謬と宣言され、バチカン法王庁は全世界のカトリック教会の最高意思決定機関とされたからだ。だから、法王が謝罪することに法王庁内にも強い抵抗がある。
べネディクト16世の前任者、ヨハネ・パウロ2世は過去、キリスト教2000年の罪を懺悔したことがある。教会の過去の罪や過ちを悔い、「キリスト者は福音を忘れ、暴力に走った」と告白、十字軍の遠征や宗教戦争についても「歴史の中でキリスト者は寛容さを失い、神の愛の教えに従わなかった」と強調したが、歴代のローマ法王の過ちには言及していない。なぜならば、神の子イエスの代理人ローマ法王が「過ちを犯すことはあり得ない」からだ。例えば、ヨハネ・パウロ2世は当時、ユダヤ教関係者から「ナチス政権の反ユダヤ主義を黙認した」と批判されているピウス12世の過ちが俎上に上るのを回避するため、ホロコーストに対して明確な懺悔を控えたほどだ。
一方、イスラム教側は法王から発言の真意や背景を聞きたいのではない。法王から明確な謝罪を聞きたいのだ(レバノンのイスラム教シーア派指導者ファドララ師)。しかし、ローマ法王は謝罪できないのだ。それはべネディクト16世が頑固だとか、傲慢だとかいった個人の問題ではない。バチカン法王庁が「ローマ法王の無謬」というドクマを撤去しない限り、無理な注文なのだ。イスラム教指導者がローマ法王に謝罪を要求し続けるならば、ローマ・カトリック教会内の過激根本主義勢力の台頭を促す危険性が出てくる。
