イエスを銀貨30枚で裏切ったイスカリオテのユダの名誉回復の動きがある。イエスの12弟子の1人。「ユダは神の命令に従ってイエスを十字架に追いやった。ユダは神の摂理に大きく貢献した」というのが名誉回復論者たちの主張の核だ。その見解はエジプトで発見された「ユダの福音書」が出版されて以来、たびたび囁かれてきた内容だ。
十字架を神の摂理と見る場合(キリスト教理の要)、ユダの名誉回復要求は当然考えられる。ユダがイエスを十字架につけなければ、キリスト教の教理の核である「十字架の救済」は実現できなかった、という見方は至極論理的だ。「ユダの福音書」以降、キリスト教神学者は手ごわい命題に挑戦されているわけだ。
聖書を見ると、イエスは「たしかに人の子は、自分について書いてあるとおりに去って行く。しかし、人の子を裏切るその人は、わざわいである。その人は生れなかった方が、彼のためにはよかったであろう」(マタイによる福音書第26章24節)と、ユダについてはっきりと糾弾している。
名誉回復論者が言うように、「よくやった」とは称賛していない。聖書は「ユダにサタンが入った」とまで記述している。ユダが神の摂理を施行しただけならば、マタイ福音者の聖句は少々、理解に苦しむ。
神学者たちは「ユダの福音書はイエスの死後、グノーシス派がまとめた内容であり、イエスの弟子たちがまとめた共観福音書とは明らかに違う」と指摘、経典の信憑性を問うことで名誉回復の動きに反論しているが、「イエスの十字架は必然的であったか」という疑問をなぜか回避している。十字架の道が神の本来の願いでなかったとすれば、ユダはイエスの殺害者に過ぎないわけだ。
「ユダの名誉回復問題」は実は、「イエスの十字架の救済がはたして神の本来の摂理であったか」を問いかけているのであり、キリスト教教理の土台を揺るがしかねない内容を含んでいるのだ。
十字架を神の摂理と見る場合(キリスト教理の要)、ユダの名誉回復要求は当然考えられる。ユダがイエスを十字架につけなければ、キリスト教の教理の核である「十字架の救済」は実現できなかった、という見方は至極論理的だ。「ユダの福音書」以降、キリスト教神学者は手ごわい命題に挑戦されているわけだ。
聖書を見ると、イエスは「たしかに人の子は、自分について書いてあるとおりに去って行く。しかし、人の子を裏切るその人は、わざわいである。その人は生れなかった方が、彼のためにはよかったであろう」(マタイによる福音書第26章24節)と、ユダについてはっきりと糾弾している。
名誉回復論者が言うように、「よくやった」とは称賛していない。聖書は「ユダにサタンが入った」とまで記述している。ユダが神の摂理を施行しただけならば、マタイ福音者の聖句は少々、理解に苦しむ。
神学者たちは「ユダの福音書はイエスの死後、グノーシス派がまとめた内容であり、イエスの弟子たちがまとめた共観福音書とは明らかに違う」と指摘、経典の信憑性を問うことで名誉回復の動きに反論しているが、「イエスの十字架は必然的であったか」という疑問をなぜか回避している。十字架の道が神の本来の願いでなかったとすれば、ユダはイエスの殺害者に過ぎないわけだ。
「ユダの名誉回復問題」は実は、「イエスの十字架の救済がはたして神の本来の摂理であったか」を問いかけているのであり、キリスト教教理の土台を揺るがしかねない内容を含んでいるのだ。
