ウィーン発 『コンフィデンシャル』

 ウィーンに居住する筆者が国連記者室から、ウィーンの街角から、国際政治にはじまって宗教、民族、日常の出来事までを思いつくままに書き送ります。

時代を読むキーワード「ヴォーヒン」

 ドイツ語で「どこへ」をヴォーヒンという。日常会話だけではなく、メディアでも頻繁に使用される言葉だ。国際テロや民族紛争の激化に直面し、「世界はどこへ向かっているのか」、欧州統合を促進する欧州連合(EU)では、「EUはどの方向へ行くべきか」等、さまざまな問いかけに、この「ヴォーヒン」が使われる。時代を読むキーワードだ。換言すれば、それだけ現代社会では、明確な「方向性」が定かでないからだろう。
 2000年前、イエスは神の教えを説いた。イエスは「ヴォーヒン(どこに行くべきか」を山上の垂訓やさまざまな機会に例えを使って諭した。しかし、その教えが「モーゼ五書」とは一致しないと分かると、多くの聖職者たちは「イエスはどこから(ヴォーヘーア)来たのか」と問い返した。イエスは大工のヨセフの息子であり、田舎のナザレの出身だ。「ナザレからは何もいいものは現れない」として、聖職者たちは最終的にはイエスを「悪魔の手先」として十字架で処刑した。
 「ヴォーヒン」を提示した者(イエス)に対し、「ヴォーヘーア」(どこから来たのか)と問い返し、拒絶してしまったわけだ。すなわち、未来に関る問い掛けに対し、過去を持ち出して反対したわけだ。
 イエスの場合だけではない。「ヴォーヒン」を提示した者の教えや内容が革新的であればあるほど、その提示者は拒否されるケースが少なくないだろう。
 閉塞社会に生きる現代人は「どのように生きるべきか」といった存在に関る問いかけを心の中に抱いている。「ヴォーヒン」を求め出した者は、「価値の相対化」や「懐疑心」といった迷路から脱出することが先決となるだろう。

北朝鮮建国記念日の祝賀会

 9月9日は北朝鮮の建国記念日。 海外の同国大使館でもゲストを招いて祝賀会が開催されるが、オーストリアでは9月7日、ウィーンの同国大使館で祝賀会が開かれた。ゲストの顔ぶれは大きく変わらない。というより、祝賀会に来る顔はいつも決まってきた。
 1990年代はゲストの顔ぶれは華やかであった。外務省高官から国連高官までVIPの顔も見られた。オーストリアのフィッシャー大統領も当時は常連客の1人だった。
 しかし、金日成主席が亡くなった1994年以降、祝賀会のゲスト数は減少傾向にある。特に、核問題が先鋭化して以来、政治家たちの顔がめっきり少なくなった。
 国際原子力機関(IAEA)のハンス・ブリックス事務局長(当時)が祝賀会に顔を出したことがあるが、IAEA側は事務局長の北大使館訪問がメディアに流れることを非常に警戒していたものだ。
 北朝鮮と経済関係を有しているオーストリア企業関係者も米国が対北金融政策を実施して以来、祝賀会参加を控えるケースが増えた。
 一方、北朝鮮外交官はゲスト確保の為に総動員される。国連担当外交官は国連職員を、オーストリア担当外交官は外務省関係者を招待するために、招待状を郵送したり、電話攻勢する。盛大な祝賀会を実現することが至上命令だからだ。祝賀会が近づくと、北朝鮮外交官たちにとって、緊張の日々が続くわけだ。
 7日の祝賀会には約50人のゲストが参加した。その中には政治家、外交官の姿はなかった。

ユダの名誉回復はあり得るか

 イエスを銀貨30枚で裏切ったイスカリオテのユダの名誉回復の動きがある。イエスの12弟子の1人。「ユダは神の命令に従ってイエスを十字架に追いやった。ユダは神の摂理に大きく貢献した」というのが名誉回復論者たちの主張の核だ。その見解はエジプトで発見された「ユダの福音書」が出版されて以来、たびたび囁かれてきた内容だ。
 十字架を神の摂理と見る場合(キリスト教理の要)、ユダの名誉回復要求は当然考えられる。ユダがイエスを十字架につけなければ、キリスト教の教理の核である「十字架の救済」は実現できなかった、という見方は至極論理的だ。「ユダの福音書」以降、キリスト教神学者は手ごわい命題に挑戦されているわけだ。
 聖書を見ると、イエスは「たしかに人の子は、自分について書いてあるとおりに去って行く。しかし、人の子を裏切るその人は、わざわいである。その人は生れなかった方が、彼のためにはよかったであろう」(マタイによる福音書第26章24節)と、ユダについてはっきりと糾弾している。
 名誉回復論者が言うように、「よくやった」とは称賛していない。聖書は「ユダにサタンが入った」とまで記述している。ユダが神の摂理を施行しただけならば、マタイ福音者の聖句は少々、理解に苦しむ。
 神学者たちは「ユダの福音書はイエスの死後、グノーシス派がまとめた内容であり、イエスの弟子たちがまとめた共観福音書とは明らかに違う」と指摘、経典の信憑性を問うことで名誉回復の動きに反論しているが、「イエスの十字架は必然的であったか」という疑問をなぜか回避している。十字架の道が神の本来の願いでなかったとすれば、ユダはイエスの殺害者に過ぎないわけだ。
 「ユダの名誉回復問題」は実は、「イエスの十字架の救済がはたして神の本来の摂理であったか」を問いかけているのであり、キリスト教教理の土台を揺るがしかねない内容を含んでいるのだ。
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