ドイツ語で「どこへ」をヴォーヒンという。日常会話だけではなく、メディアでも頻繁に使用される言葉だ。国際テロや民族紛争の激化に直面し、「世界はどこへ向かっているのか」、欧州統合を促進する欧州連合(EU)では、「EUはどの方向へ行くべきか」等、さまざまな問いかけに、この「ヴォーヒン」が使われる。時代を読むキーワードだ。換言すれば、それだけ現代社会では、明確な「方向性」が定かでないからだろう。
2000年前、イエスは神の教えを説いた。イエスは「ヴォーヒン(どこに行くべきか」を山上の垂訓やさまざまな機会に例えを使って諭した。しかし、その教えが「モーゼ五書」とは一致しないと分かると、多くの聖職者たちは「イエスはどこから(ヴォーヘーア)来たのか」と問い返した。イエスは大工のヨセフの息子であり、田舎のナザレの出身だ。「ナザレからは何もいいものは現れない」として、聖職者たちは最終的にはイエスを「悪魔の手先」として十字架で処刑した。
「ヴォーヒン」を提示した者(イエス)に対し、「ヴォーヘーア」(どこから来たのか)と問い返し、拒絶してしまったわけだ。すなわち、未来に関る問い掛けに対し、過去を持ち出して反対したわけだ。
イエスの場合だけではない。「ヴォーヒン」を提示した者の教えや内容が革新的であればあるほど、その提示者は拒否されるケースが少なくないだろう。
閉塞社会に生きる現代人は「どのように生きるべきか」といった存在に関る問いかけを心の中に抱いている。「ヴォーヒン」を求め出した者は、「価値の相対化」や「懐疑心」といった迷路から脱出することが先決となるだろう。
2000年前、イエスは神の教えを説いた。イエスは「ヴォーヒン(どこに行くべきか」を山上の垂訓やさまざまな機会に例えを使って諭した。しかし、その教えが「モーゼ五書」とは一致しないと分かると、多くの聖職者たちは「イエスはどこから(ヴォーヘーア)来たのか」と問い返した。イエスは大工のヨセフの息子であり、田舎のナザレの出身だ。「ナザレからは何もいいものは現れない」として、聖職者たちは最終的にはイエスを「悪魔の手先」として十字架で処刑した。
「ヴォーヒン」を提示した者(イエス)に対し、「ヴォーヘーア」(どこから来たのか)と問い返し、拒絶してしまったわけだ。すなわち、未来に関る問い掛けに対し、過去を持ち出して反対したわけだ。
イエスの場合だけではない。「ヴォーヒン」を提示した者の教えや内容が革新的であればあるほど、その提示者は拒否されるケースが少なくないだろう。
閉塞社会に生きる現代人は「どのように生きるべきか」といった存在に関る問いかけを心の中に抱いている。「ヴォーヒン」を求め出した者は、「価値の相対化」や「懐疑心」といった迷路から脱出することが先決となるだろう。