世界のナチ・ハンターで有名だったサイモン・ウィーゼンタール氏が亡くなって今月でちょうど1周忌を迎えた。
ウィーゼンタール氏は1908年、ウクライナのガラシア生まれ。父親は第1次世界大戦中に死亡。ガラシアは戦後ポーランド領土に併合された。大学卒業後、建築家になったが、ナチス軍がポーランドに侵攻、家族と共に強制収容所送りに。45年6月、米軍によってマウトハウゼン強制収容所から解放された。その後の人生を、世界に逃亡したナチス幹部を追跡することに費やした。1100人以上の逃亡中のナチス幹部の所在を発見、拘束することに成功している。そのため、同氏はナチ・ハンターと呼ばれるようになった。
小生は2度、ウィーンの同氏の事務所内で会見したことがある。小柄ながら鋭い眼光で相手を見つめる姿には一種の威圧感があった。小生は同氏にどうしても聞きたい質問があった。「戦後半世紀が過ぎるが、何故いまもナチス幹部を追跡するのか」ということだ。それに対し、同氏は笑顔を見せながら「生きているわれわれが死者に代わってナチスの罪を許すことなどはできない。それは死者を冒涜することになるからだ」と答えてくれた。
文芸春秋の月刊誌「マルコポーロ」がホロコーストの記事を掲載し、その中で「ガス室」の存在に疑問を呈したことが契機で、同誌が廃刊に追われた時、小生は同氏の見解を聞くために事務所を再び訪れた。同氏は「ユダヤ人は杉原氏(リトアニア元領事)が第2次世界大戦中に多くのユダヤ人を救済してくれたことを決して忘れない民族だ。同時に、誹謗、中傷、迫害された事実も決して忘れない民族だ」と説明、マルコポーロ誌事件が、ユダヤ人社会に大きな痛みを与えたばかりか、日本・イスラエル両国関係にも将来マイナスの影響を与える恐れがある」と警告を発した。
全てを水に流すことに慣れた日本人から見た場合、ユダヤ民族は過去のことを決して忘れない独特の民族だ。ウィーゼンタール氏との出会いは、小生にとって異文化との出会いの時でもあった。
ウィーゼンタール氏は1908年、ウクライナのガラシア生まれ。父親は第1次世界大戦中に死亡。ガラシアは戦後ポーランド領土に併合された。大学卒業後、建築家になったが、ナチス軍がポーランドに侵攻、家族と共に強制収容所送りに。45年6月、米軍によってマウトハウゼン強制収容所から解放された。その後の人生を、世界に逃亡したナチス幹部を追跡することに費やした。1100人以上の逃亡中のナチス幹部の所在を発見、拘束することに成功している。そのため、同氏はナチ・ハンターと呼ばれるようになった。
小生は2度、ウィーンの同氏の事務所内で会見したことがある。小柄ながら鋭い眼光で相手を見つめる姿には一種の威圧感があった。小生は同氏にどうしても聞きたい質問があった。「戦後半世紀が過ぎるが、何故いまもナチス幹部を追跡するのか」ということだ。それに対し、同氏は笑顔を見せながら「生きているわれわれが死者に代わってナチスの罪を許すことなどはできない。それは死者を冒涜することになるからだ」と答えてくれた。
文芸春秋の月刊誌「マルコポーロ」がホロコーストの記事を掲載し、その中で「ガス室」の存在に疑問を呈したことが契機で、同誌が廃刊に追われた時、小生は同氏の見解を聞くために事務所を再び訪れた。同氏は「ユダヤ人は杉原氏(リトアニア元領事)が第2次世界大戦中に多くのユダヤ人を救済してくれたことを決して忘れない民族だ。同時に、誹謗、中傷、迫害された事実も決して忘れない民族だ」と説明、マルコポーロ誌事件が、ユダヤ人社会に大きな痛みを与えたばかりか、日本・イスラエル両国関係にも将来マイナスの影響を与える恐れがある」と警告を発した。
全てを水に流すことに慣れた日本人から見た場合、ユダヤ民族は過去のことを決して忘れない独特の民族だ。ウィーゼンタール氏との出会いは、小生にとって異文化との出会いの時でもあった。