ウィーン発 『コンフィデンシャル』

 ウィーンに居住する筆者が国連記者室から、ウィーンの街角から、国際政治にはじまって宗教、民族、日常の出来事までを思いつくままに書き送ります。

フィレンツェ訪問記(2)

芸術とスポンサー
 スポンサーはスポーツ界だけではなく、芸術、音楽界でも欠かせない存在となっている。ルネッサンス時代も芸術家、彫刻家、画家を支援し、活動を支えてきたスポンサーがいた。フィレンツェ市の歴史をみると、商人君主メディチ家の名前が直ぐに挙げられる。14世紀から銀行家として成功したコジモ・デ・メディチのファミリーは1743年衰退するまで、文字通りフィレンツェ市の政治、学術を振興させた最大のスポンサーだった。ウフィツィ美術館にはミケランジェロ、ラファエロ、ボッティチェッリなど、メディチ家の支援を受けた芸術家たちの作品が飾られている。メディチの宮廷で暮らしてきたボッティチェッリの作品「春」はメディチ家の結婚祝い用に描かれたものだ。
 コジモは1569年、トスカーナ大公国を設立し、メディチ家からは2人のローマ法王(レオ10世とクレメンス7世)を輩出するなど、メディチ家は18世紀までフィレンツェ市の守護神であった。ちなみに、ラファエロは死の直前、「レオ10世」の肖像画を描いている。
 メディチ家はまた、フィレンツェの商業の発展にも大きく寄与している。ヴェッキ橋の上には宝石店、着金属店が軒を並べている。どうして他の商売の店舗がないのか不思議に思った。そこでその訳を聞くと、メディチ家が貴金属業者を育成するために独占営業権を許可したからだという。ヴェッキ橋の貴金属店は今日、世界的に有名だ。
 ガイドブック(ベコッチ出版社)によると、ピサ出身のガリレオ・ガリレイはフィレンツェに移り住み、メディチ家の支援を受けて、研究に没頭、そこで革命的な地動説を考え出したといわれている。ここでも世紀のスポンサー、メディチ家の人を見る目の確かさが伺えて興味深い。当時のローマ・カトリック教会がガリレオ・ガリレイの地動説に憤慨し、異端審問にかけたことを想起すれば、メディチ家の伝統に囚われない、先見の明が一層光るわけだ。アカデミア美術館にあるミケランジェロの「ダヴィデ」像は芸術家の代表作であると共に、芸術家を愛し、支援してきたスポンサー、メディチ家の勲章でもあろう。

フィレンツェ訪問記(1)

 イタリアのトスカーナ州の州都フィレンツェ市に住む友人から招待状が届いた。友人曰く、「ルネッサンスの発祥地フィレンツェを一度見れば、お前の世界観は広くなる」という。自分の視野の狭さを薄々感じてきた当方は友人の招きを感謝、早速、ウィーン南駅から夜行に飛び乗って、ミケランジェロ、ラファエロの作品が息つくフェレンツェ市(「花の都」を意味する)に向かった。「天井のない博物館」と呼ばれるフィレンツェ市は“ウィーンの森”に親しんできた当方には確かに異なった世界だった。そこで、当方の独断と偏見に満ちた「花の都」訪問記をコラムの読者に紹介する。

天井のない博物館
 当方が旅人となってフィレンツェ市を訪れた時はイタリア、オーストリアから中東欧諸国にかけ熱風が吹き上げ、気温は40度に迫っていた。フィレンツェ市中央駅に早朝到着すると、人懐っこい南の快い風というより、肌を刺す熱風の歓迎を受けた。友人と再会した後、駅前のファースト・フード店で簡単な朝食を済ませると早速、市内観光に繰り出した。
 ガイドブックを見ると、人口約40万人のフィレンツェ市は「天井のない博物館」と呼ばれ、ルネッサンスの発祥地だ。確かに、到る所に歴史的建物、美術館、教会の建物が立っている。道路は狭く、車よりモーペットが市内を走り回っている。十字路にも信号がない所が多く、道路を渡るのにも一苦労する。
 ドミニコ派修道院のサンタ・マリア・ノヴェッラ教会からアルノ川に沿って貴金属店が軒を並べるヴェッキオ橋まで来て、そこからボッティチェッリの代表作「ヴィーナスの誕生」や「春」が飾られているウフィツィ美術館を訪れる。入り口には長い観光客の列が続いている。入館するまで2時間から3時間余りかかるが、多くの観光客はミケランジェロ、レオナルド・ダ・ヴィンチ、ラファエロの作品などルネッサンス美術の宝庫を一目見るために支払わなければならない汗として受け入れている(事前に予約している場合が短時間で入館できる)。
 フィレンツェ市の顔というべきサンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂、「神曲」で有名なダンテが洗礼を受けた洗礼堂(東側の戸は「天国の戸」と呼ばれている)、鍾楼の周辺には、真夏の太陽を直接受けながらも大聖堂に入るためにウフィツィ美術館の入り口を凌ぐ長い列が続いている。ウフィツィ美術館で2時間、入館するために立ち続けた当方は友人に「申し訳ないが、ここでまた2時間以上立ち続けることは難しい」と弱音を吐いてしまった。そこでネオ・ゴシック様式の「花の大聖堂」のファサード前で写真を取るだけにした。観光も命懸けだ。
 当方の目が市内の風景に慣れてくると、市内には高層ビルなど近代的建物が一つもないことに気が付いた。ミケランジェロ広場からアルノ川を眺望すると、赤レンガ色の屋根が街を包んでいるのが分かる。どこにも高層ビルは見えない。F.M.フォースターの原作を映画化した「眺めのいい部屋」(A room with a View)の中で「アルノ川を見渡せる部屋」という台詞がある。アルノ川の水は熱風で淀んでいたが、その水面に写る街景色は美しかった。

キリスト教会の「本家」争い

 当方はローマ・カトリック教会総本山バチカン法王庁教理省(前身、異端裁判所)が公表した「教会についての教義をめぐる質問への回答」と題された文書をかなり詳細に紹介したが、予想された通り、同文書に対して他のキリスト教派からざまざまな反応が出てきたので、公平を期するためにここで少し報告しておく。
 教理省の文書は「教会に関するカトリック教会の教義を明確し、承認できない解釈を拒否し、超教派の対話を継続していくための価値ある指示」と自負している。「教会論」と呼ばれる内容だ。簡単にいえば、「ローマ・カトリック教会はイエスの教えを継承する唯一、普遍的なキリスト教会だ」という主張だ。俗に言うと、「真理を独占している」という宣言だ。
 だから、他のキリスト宗派から批判や不満の声が挙がってきて当然といえるわけだ。ルーマニア正教総主教テオクティスト1世は「キリスト教派内の対話がこれでさらに難しくなった」と嘆き、「教理省の文書は世界のキリスト教派に驚きをもたらした」と述べている。また、スイスのルーテル教会世界連盟(LWB)は「バチカンの文書はわれわれを愕然と失望に陥らせた」と述べ、「われわれは自分の教会を普通のキリスト教会とみている」と表明する一方、「今回の文書は前ローマ法王ヨハネ・パウロ2世が公表した『ドミヌス・イエズス』(2000年)と同じだ。バチカンの教会論は何も新しいものではない」と指摘することを忘れていない。
 また、イタリア・バプテスト派協会は「第2バチカン公会議の後退だ」と強調し、「どのような教会も唯一のキリスト教会と宣言する権利はない」と不満を表明している。ヨハネ23世が主導し、パウロ6世が遂行した第2バチカン公会議(1962〜65年)ではラテン語礼拝の廃止、他宗派との対話促進(エキュメニズム)などが決定され、同公会議を契機に教会の近代化路線が始まったと一般的には受け取られている。教会論では、カトリック教会以外の教会にも真理が含まれていると認め、カトリック以外の他宗教も神と一体化できる等の内容を記述している。だから、今回の教理省の文書は第2バチカン公会議の教会論を否定するという批判が出てくるわけだ。
 ちなみに、カトリック教会の「真理独占」宣言に対し、バチカンと険悪な関係が続くロシア正教は「われわれ正教こそイエスの教えの真の継承者だ」と主張し、バチカンの「本家争い」に挑戦しているほどだ。
 バチカン教理省の文書は世界のキリスト教会に統一と和解をもたらすのではなく、不統一、不寛容な本家争いを誘発している。
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