北朝鮮の核問題が国際原子力機関(IAEA)の理事会議題となって20年間余りの時間が経過した。その間、米朝の核合意(1994年)、ウラン濃縮開発容疑の浮上、核実験(2006年10月)と、多くの試練と危機が生じた。特に、北朝鮮が2002年12月、IAEA査察員を国外退去させ、翌年、核拡散防止条約(NPT)とIAEAから脱退して以来、IAEAは北朝鮮へのチャンネルを失った。それが、6カ国協議の共同合意(2月13日)に基づいて、北朝鮮が同国の核施設への「初期段階の措置」を承認したことから、IAEAが再び北朝鮮の核施設の監視を再開する運びとなったわけだ。
ところで、外交上の文書が重要であることはいうまでもないが、関係国同士の人間的な付き合いが文書以上に効力を発揮することが少なくない。IAEA査察員が北朝鮮で核施設の操業停止、封印作業をする上でも、北朝鮮関係者との人間的な交流がとても大切となる。
1990年代から現在までIAEA査察局には過去、4人の北朝鮮担当部長がいた。90年代初めはドイツ出身のビリー・タイス博士が北朝鮮担当部長であった。タイス時代は北朝鮮当局の信頼を受けて、IAEAの査察活動は順調であった。タイス氏は北朝鮮軍ヘリコプターで上空査察も許された唯一のIAEA査察部長だったが、米国と連携して平壌に政治圧力を行使する政策に転換したハンス・ブリクス事務局長(当時)と対立して結局、左遷させられてしまった。
その後継者として、ギリシャ出身のデメトリウス・ぺリコス部長(現・国連監視検証査察委員会委員長代行)が就任。その後、北朝鮮担当査察部長は査察局長・事務次長と昇進していったハイノーネン氏、現在のチトンボー氏と引き継がれていくわけだ。
なお、ハイノーネン査察局長は19日、IAEA本部でチトンボー部長と共に駐IAEA担当の北朝鮮外交官と昼食を交えながら会談した。IAEAが再び北朝鮮の核施設を監視する日を控え、北朝鮮関係者との人間的な交流を復活させることがその狙いだったはずだ。
会談の内容をしつこく聞く当方を見ながら、ハイノーネン局長は「北朝鮮外交官は私の古い知人だ。昼食をしながら、旧交を温めただけだよ」といって意味ありげにウインクした。
ところで、外交上の文書が重要であることはいうまでもないが、関係国同士の人間的な付き合いが文書以上に効力を発揮することが少なくない。IAEA査察員が北朝鮮で核施設の操業停止、封印作業をする上でも、北朝鮮関係者との人間的な交流がとても大切となる。
1990年代から現在までIAEA査察局には過去、4人の北朝鮮担当部長がいた。90年代初めはドイツ出身のビリー・タイス博士が北朝鮮担当部長であった。タイス時代は北朝鮮当局の信頼を受けて、IAEAの査察活動は順調であった。タイス氏は北朝鮮軍ヘリコプターで上空査察も許された唯一のIAEA査察部長だったが、米国と連携して平壌に政治圧力を行使する政策に転換したハンス・ブリクス事務局長(当時)と対立して結局、左遷させられてしまった。
その後継者として、ギリシャ出身のデメトリウス・ぺリコス部長(現・国連監視検証査察委員会委員長代行)が就任。その後、北朝鮮担当査察部長は査察局長・事務次長と昇進していったハイノーネン氏、現在のチトンボー氏と引き継がれていくわけだ。
なお、ハイノーネン査察局長は19日、IAEA本部でチトンボー部長と共に駐IAEA担当の北朝鮮外交官と昼食を交えながら会談した。IAEAが再び北朝鮮の核施設を監視する日を控え、北朝鮮関係者との人間的な交流を復活させることがその狙いだったはずだ。
会談の内容をしつこく聞く当方を見ながら、ハイノーネン局長は「北朝鮮外交官は私の古い知人だ。昼食をしながら、旧交を温めただけだよ」といって意味ありげにウインクした。